いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

快作『ヤクザと家族 The Family』がヤグザという「令和のマイノリティ」を通して描いたもの

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藤井直人(みちひと)監督の最新作『ヤクザと家族 The Family』を観てきた。

圧倒された。間違いなく、今年の年間ベスト10争いに入ってくる一作だ。

SNSでは坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』が絶賛され、大いに盛り上がっており、その中でこの作品をチョイスしたことは少し心細かったが、今となっては自分の選球眼を褒め称えたい(いや、『花束みたいな恋をした』もたぶん絶対にいい作品だと思うので、そのうち観に行きますよ…)。

 

ある小さな港町を舞台に、そこを縄張りとする2組のヤクザの抗争を、1995年、2005年、そして2019年という3つの時代区分で描いている。

主演の綾野剛が演じる山本は、地元のチンピラだったが、ある騒動をきっかけに地元の暴力団・柴咲組の組長・柴咲(舘ひろし)に認められ、組に入る。母親はすでに他界し、父親も薬物で喪った彼にとって、組は初めてできた「家族」になっていく。

出ている役者全員がカッコいい

ストーリーもさることながら、本作で特出すべきは、主要キャストほぼ全員がたまらなく印象的だということだ。

綾野剛は、最初は鼻っ柱が強いチンピラ、次は野心ギラギラで組の勢力拡大に邁進する若頭、と時代ごとに移り変わっていく山本の姿を見事に演じ分けるし、カリスマ性の塊が演技してる! といいたくなるほどの舘ひろしは、出番こそ多くはないが存在感がビンビンだ。

それから、個人的に大好きな俳優の北村有起哉の実直でマジメな昔気質のヤクザという役どころも最高だった。これまでは鬱陶しさと暑苦しさしか感じなかった市原隼人も、この映画でいい意味で驚かされた。めちゃくちゃいいのである。さらに今、乗りに乗っている磯村勇斗も、本作で新たな一面を見せている。

そのほか、敵役の豊原功補駿河太郎、そして、ある意味一番悪いやつを演じる岩松了もいい。

とにかく、出ている俳優全員が、「この映画に出てよかったなあ」と(たぶん)思っているだろうし、おそらく、らのファンの多くが喜ぶ作品となっている。

「正論」に表現で抗う術を観る

本作は藤井監督のオリジナル脚本だという。なぜ彼がヤクザを題材に選んだのか。ぼくなりに推測すれば、それは彼らが令和現在の今、もっとも「正論」から遠い存在だからなのではないか、と思う。

多くの人が知るように、時代の潮流として暴力団への締め付けは年々厳しくなっている。劇中の柴咲組も、2019年になるとケツ持ちをしていた店舗が次々と閉店し、シノギに困って密漁に手を出す始末。一大勢力を誇っていた組員の数は減少の一途をたどり、かつての勢いは観る影もなくなってしまった。

それだけではない。ヤクザというだけで非人間的な扱いをされ、「反社とのつながり」には世間が目を光らせる。かつてあった絆は分断されていく。映画はそんな彼らのやるせない現在を、説得的な脚本と、演者らの確かな演技によって描いていく。

 

だが、よく考えてみてほしい。普段ぼくらはその風景を「反社」だとか「コンプラ」といった言葉を通して、実は反対側から見ているではないか。大多数のぼくら観客は、「そうした状況」の恩恵を受けていた受益者だったはずなのだ。

たしかに、暴力団の存在を擁護する理は本来なら一切あり得ない。柴咲組だって、シャブは厳禁だとしても、後ろ暗い稼業で儲けていたはず。今まで散々甘い汁を吸ってきたのだろう。そんな彼らが、厳しくなった法律によって裁かれていくことは、本来ならなんのためらいもないはずだ。

しかし一方で、批判する余地のない「正論」によって苦しめられ、ほとんど誰にも擁護されない暴力団は、ある意味、現代が抱える究極のマイノリティだとも言える。藤井監督が今回ヤクザを題材に選んだのは、もしかしたら、そのマイノリティを通してだからこそ、まだ語るべきことがある、という勝算を見出したからではないだろうか。

柴咲組を通して本作が描こうとしているのは、「暴力団」あるいは「反社会勢力」といった言葉では語りきれない、どうしようもなく語り漏れてしまう「余剰」の部分だ。ろくでもない男たちが身を寄せ合い、拠り所にするしかなかった何か、それを本作は「家族」と呼ぶ。

 

ぼくが同じ藤井直人監督作でも、『新聞記者』に乗れなかったのは、同じ理由からだ。

新聞記者

新聞記者

  • 発売日: 2019/10/23
  • メディア: Prime Video
 

あの映画については、特にリベラル左翼の人々が「よくぞやった」と手放しで喜んでいたが、同じリベラル左翼のぼくとしては、まったくもって理解できなかった。

というのも、あの映画で描かれているのは、当時現実の政治で起きていたこととは、似て非なるものだったのだ。現実に起きたことを矮小化した「架空の絶対悪」をこしらえ、それを叩こうとする人々が描かれていたわけだ。

しかし、「『絶対悪』を叩く」というのはある意味一番の「支配的な価値観」だ。『新聞記者』、というよりも、あれを絶賛する人々に対してどうしても違和感をもってしまったのは、「支配的な価値観」(正論、と呼んでもいい)にただただ追認していることに、彼ら自身があまりにも無自覚だったからだろう。

 

それに対して本作は、「支配的な価値観」「正論」から最も遠い視点に立ち、別の見方=オルタナティブを提示しようとする。

でもそれは間違っても「正論」への「反論」ではない。「反論」でこそないが、「正論」からは絶対に語り漏れてしまうやるせない事象を描き、ぼくら観客に「ためらい」の気持ちを生み出す、いわば異物のようなものだ。

でもそれを描くことにこそ、表現する本当の意味があったのだと思う。