アマゾンプライム・ビデオで、レンタルが100円になっており、このサムネイルのインパクトに負けてポチった一作。ということで、大して期待はしていなかったのだけど、これがまたいい意味で予想外だったので紹介したい。
<<以下、ネタバレ全開>>
『オブリビオン』から一転、孤独でさみしい女に
ヒロインのナンシーを演じるのはアンドレア・ライズボロー。はて、この顔、どこかで観たような? と思ってググったら、やっぱり観たことある。多くの人が一番記憶に残っているのは、トムクルのパートナー役を演じたSF大作『オブリビオン』かな。
『オブリビオン』では、ちょっと神経質でいて日和見主義的な相棒キャラクターを演じていたが、本作『ナンシー』ではまるでちがう、内気で孤独、派遣仕事で糊口をしのぐさみしい女性ナンシーを演じている。
ナンシーの歪んだ自己承認欲求
ナンシーはパーキンソン病で闘病中の母親と同居しているが、娘をこき使う母親とナンシーの仲はいいとは言えない。
孤独なナンシーは、孤独であるがゆえの強烈な病理を抱えている。それは「誰かに認められたい」という渇望に近い欲求だ。
そのためには、相手の見たいもの、聞きたいものにも自分を簡単に偽ろうとする。ネット上で知り合った、死産で我が子を失った男性に対しては、共感を誘うために自分を妊婦だと偽り、妊婦のふりをして実際に会いに行ってしまう。もし親しくならばいずれはバレてしまう、意味のない嘘である。それでもその場しのぎで嘘をついてしまう。常人には理解できない感覚だが、それこそが「自分を偽ってでも相手に認められたい」という彼女の病なのだ。
そんなナンシーに転機が訪れる。病の母親が突然死。さらに、テレビで運命的な夫婦を目撃する。
レオ・リンチとエレン・リンチというその老夫婦は、20年前、愛娘が行方不明になるという悲劇に見舞われたという。娘は未だにみつかっておらず、今も探しているというリンチ夫妻。テレビで2人の娘の20年後をCGで描いた顔写真を目にして、ナンシーは驚がくする。なんとそれは、ナンシー自身とそっくりだったのだ!
ここでナンシーの中で点と点が線で結びついていく。なぜ私には父親がいないのか、なぜ母親は私に冷たかったのか…。答えは、実の娘ではなかったからで、私の実の夫婦は、この2人だったんだ!
すぐに夫婦に連絡したナンシー。はじめは半信半疑だった夫婦も、ナンシーの顔を知って驚く。我が子そっくりではないか、と。
人が「貴種流離譚」に魅了される理由
「貴種流離譚」という物語の型がある。本来身分の高いはずの子どもが、何らかのトラブルによって苦難を経験しながら、もともといたはずの場所へと戻っていく、というパターンの物語だ。実はあの『ドラゴンボール』さえもこれに当てはまる。それぐらいポピュラーな話型だ。
この話型が流行る背景には、ぼくらの期待、願望があるのではないかと思う。平凡な家庭に生まれた平凡な自分も、実は特別な存在だった、という期待や願望に応えてくれるのが、「貴種流離譚」なのだ。
ナンシーにも確実に「貴種流離譚」願望があった。おまけに、エレンは比較文学を教える大学教授だという。ナンシーは小説書きが趣味で出版社に送るほど。もしかしたら、小説を書く才能はこの女性から引き継いだものかもしれない。次第に、ナンシーの中で「貴種流離譚」への期待が高まっていく。
遺伝子検査を遅延…エレンのせつなすぎる夢
幸せムードが高まっていくなか、スティーブ・ブシェミ演じる夫レオだけは冷静で、感動の再会のはずなのにどこか淡白だ。観客もそうだろう。そんな上手い話があるわけがない。似顔絵が似ていたのは偶然の一致だ、と。
レオは早々に、妻とナンシーに遺伝子検査を提案する。これは至極まっとうな意見だ。検査さえすれば、白黒がはっきりつくのだから。
しかし、ここで印象的なのは、妻のエレンがそれを一度は拒否するのだ。別に今日ではなくていいではないか、と。ここでぼくら観客はハッと気づく。もしかしてエレンも、これが“夢”だというのを気づいているのではないか? そして検査を遅延させているのは、この幸福な夢が醒めるのを少しでも引き延ばそうとしているのではないか? と。そう思って観ると、J・スミス・キャメロン演じるエレンが、“娘”ナンシーと楽しそうに過ごす姿が、観ていられないほどせつなくなってくる。
その後、ついに遺伝子検査という「審判」が下される時が来る。ここまでくると、エレンの気持ちを思い、多くの観客は「万が一、実の娘であってほしい…!ハッピーエンドであれ…!」と思っていることだろう。しかし、遺伝子検査の結果は無情にも陰性。やはりナンシーはエレンらと何ら関係ない赤の他人だったのだ。
「この子は娘ではなかった」から「この子と知り合えてよかった」へ
悲嘆に暮れるエレン。どうしていいか分からず困惑するナンシー。
しかし、映画はここで素敵な展開を用意する。ナンシーとエレンが悲嘆に暮れながら歩いているところで、ある「人助け」をする機会に遭遇するのだ。
人の命に関わる状況で、必死になって相手を助けようとするナンシー。その姿を見ながら、エレンの顔が徐々にほころんでいく。
思えばナンシーの行動原理は最初から、自己承認欲求だけではなかった。妊婦を偽ったときも、傷ついた相手を癒やしてあげたいという気持ちが背景にはあった。「困っている人の役に立ちたい」「助けたい」という気持ちの延長線に、その上で「認められたい」という自己承認欲求だった。ナンシーの中では、人を助けたいという慈悲の気持ちと、自己承認欲求がコインの裏表だったのだ。
ナンシーが一心不乱で人のために動いている姿をみた瞬間、エレンの中で「この子は娘ではなかった」という悲しみは、「この子が娘だったらよかった」「この子と知り合えてよかった」という前向きな希望へと変わる。
せつないのだけれど、その中にもかすかな希望をにじませた余韻になっている。