いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

イマジネーションの暴力! 『ロボット2.0』は観た方がいいかもしれない

ロボット

 

 インド映画というと「ド派手な装飾にミュージカル!」というイメージで、近年では『バーフバリ』シリーズが日本でもヒットしたが、本作『ロボット2.0』は、ロボットが活躍するバリバリVFXのバリバリSFである。

 しかし、「ああ、インド人がハリウッド映画パクって、今度はロボット映画ですか」などとたかをくくていたら損をするだろう。『ロボット2.0』は、アメリカ映画や邦画のVFXによって飼いならされたわれわれ日本人の想像力を熱々のナンで往復ビンタしてくるような衝撃を残す、奇妙キテレツな光景の連続、想像力の暴力が繰り広げられるのだ。

 

 異常に長いタイトルロールや、ストーリーのとっかかりになるスマホが奪われていくシーンの異常な長さなど、冒頭から早くも「異常」の宝庫なのだが、「この映画、やっぱり変だ!」と思わされるのは、なんといっても「巨大な鳥」のシーンだろう。「なぜ“それ”で鳥を作った?」という疑問符が頭の中に何個も点灯するのだが、そんなことはお構いなしに映画は進む。
 
 もっとも、この鳥の表象には、意外とゴツメの政治的メッセージ性が隠されているのだが…。


 
 凶暴なイマジネーションと、想像を超える展開のフルコンボセットで観客がぐったりしたところで、最後にお待ちかねのミュージカルシーン。これがまた豪華絢爛なのだが、本編といっさい関係ねえ! というツッコミどころがまた素晴らしい。

 タイトルから察するとおり続編なのだが、前作は予習しなくていいから(というか予習する意味があまりない!)、とりあえず劇場に行ってほしい、とりあえず衝撃を受けてほしい、という案件である。

 アメリカと日本の映画を隔てている壁が「資金力」の1枚だとすれば、インドと日本の間にはもう1枚、「想像力」というものがあることを痛感させられる一作である。

 

<<俺の好きなお勧めインド映画>>

きっと、うまくいく(字幕版)
 

『おっさんずラブ』新章スタート…ブレなさに安心した!

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 昨年大ヒットし、今年は映画版も公開された『おっさんずラブ』の新章、『おっさんずラブ‐in the sky‐』が昨日、ついにスタートした。
 
 田中圭吉田鋼太郎らが乙女チックに胸キュンするおっさん同士の恋愛を描いたラブコメディーだというのはもはや説明不要だろうが、前シリーズからキャストは田中と吉田のみ続投で、そのほかのキャストを一新。舞台も不動産会社から、航空会社に移す。まったく新しい世界で、あたらしい恋愛を描くのが特徴で、いわば「リブート」と捉えて差し支えないだろう。

 変化には期待とともに失望も伴うもの。なかでも、前作で田中(春田創一)の相手役で、吉田(武蔵部長)の恋のライバルであった林遣都(牧凌太)の不在を嘆く声が大きかった。牧の誕生日である放送日前日の11月1日に、SNSで祝福の声があがったのが、根強い人気を物語っているだろう。

 愛が深いゆえに、憎しみも深くなるということなのか。一部の牧ファンがSNSで今回の新章に対して「アンチ」となっている姿も目撃された。かなしいことである。ただ、林=牧が加わる前にも実は『おっさんずラブ』は単発ドラマで制作・放送され、そのときも、連続ドラマから引き継がれたキャストは田中と吉田のコンビだけだった。つまり、林=牧が外されたのは、何か思惑があったとは考えにくいのだが…。

 
 そうした不安含みの新章が昨夜スタートしたが…、蓋を開けてみると拍子抜けするほど安心した!キャストは代わりはしても、前作(ドラマ版ファースト・シーズン)での「キモ」となった部分はまったくブレていなかったからだ。
 
 前作で、われわれ視聴者を熱狂させたのは何かというと、「いい人たちの真っ直ぐな愛」が描かれたということだ。
 
 このことがどれだけ難しいというのは、なかなか理解されにくい。昼を描くために夜を描くように、男を描くために女を描くように、本来、「真実の愛」を描くためには、どうしてもそこに「偽りの愛」を描きたくもの。その方が簡単であり、分かりやすいからだ。

 また、下心や裏切りがあることで、物語が盛り上がる。それはわかる。

 それに対して、『おっさんずラブ』は、「偽りの愛」に頼ることなく、「真実の愛」のみを丹念に描き、なおかつエンタメ性を兼ね備えた作品に仕上がった。「いい人たちの真実の愛」しか描かれない。だから、視聴者はその世界に安心して浸ることができるのだ。
 
 詳しくは書かないが、第1話を見た限りは、「いい人たちの真実の愛」がまた観られる! という期待感が湧いてくる。

 

 次に忘れてはならないのは、この荒唐無稽といえる「おっさん同士の胸キュン恋愛」の世界を成り立たせているのは、出演陣の上質な演技にほかならないということ。キャスティングという点でも、本作はブレを感じさせない。
 
 今回、田中、吉田と共にメインを張るのは、千葉雄大と戸次重幸だ。千葉は、どちらかといえばイケメン系の林遣都とはまた別のタイプの美形で、神の采配ではないかというかわいさを持っており演技も安定している。一方、大泉洋擁するTEAM NACSの戸次は言わずもがな。彼らの演技という土台が安定しているがゆえに、視聴者は安心して真実の愛の物語に入っていける。
 
 第1話についてもう少し具体的に述べると、劇場版のお祭り気分を引きずっているというか、「肩に力入ってる? 大丈夫?」と心配になる部分もなくはないが、これは、期待値が高い続編への「覚悟」と受け取っておくべきだろう。
 
 まずまずのテイクオフをしたと思われる本作。これからどこへ連れて行ってくれるかが楽しみである。

『バチェラー』シーズン3、史上最も胸糞悪い!…けど一番おもしろかった!

バチェラー・ジャパン シーズン3 予告編

 

 Amazonプライム・ビデオ で配信されている『バチェラー・ジャパン』シーズン3の“結末”が物議を醸している…というか、「胸糞悪すぎる!」とクソミソに叩かれている。

 「胸糞悪い」という感情は分かるのだが、一方でシーズン1、2ともに観たぼくに言わせれば、「これまでで最も面白かった!」ということにもなる。

 『バチェラー・ジャパン』を知らない人に一言説明しておくと、裕福で外見の整ったバチェラー(独身男性の意)が、結婚相手の候補となる20数名の女性とデートやパーティを重ねていく恋愛リアリティーショーだ。
 バチェラーから各回の最後にバラを渡された女性だけが次のステージへ進める。バチェラーの結婚前提の彼女となるたった一つの席をめぐって競い合う。
 ちなみに、日本オリジナルの企画ではなく、米国で初めて作られ、日本と同じように各国で企画は制作・放送されているようだ。
 
 
 シーズン3となった今回、バチェラーを務めるのは神戸出身、貿易業を営む友永真也クンだった。この友永クンがいろいろとアレなのが、次第に分かっていくのだが…。
 
 ここからは、なぜ今回の同番組が、前2回に比べて面白かったか、その理由を解説したい。
 
 

<<以下、ここからはネタバレ全開で書いていく>>

 
 

史上かつてないほど分かりやすい構図

 まずなにより、対立の構図が分かりやすい。
 3シーズン目となった今回、ラストの2人まで生き残ったのは、山梨のぶどう農家出身の岩間恵さんと、大阪出身で北新地で10年に渡ってホステスをしていた水田あゆみさん。
 
 
 農家とホステス。これが分かりやすさの理由…ではない。番組上で、2人がファイナルまでに歩んできた道のりが全く違うのだ。

 すべては、友永クンが岩間さんに初回で“ガチ恋”してしまったことにはじまる。岩間さんがハマられやすいのはよく分かる。派手すぎず、地味すぎず、いかにもな日本的な美人であり、いわゆる「親に紹介したくなる女性」なのだ。
 
 
 
 
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 友永クン、初回で見初めたときから、岩間さんにがっつり心を掴まれたよう。それ以来、岩間さんだけは、少なくとも視聴者からすれば、たいしてバチェラーにアピっていないにもかかわらず、まるでエスカレーター式で、スイスイと次の回に上がっていった。
 そもそも岩間さんは、全く友永クンに惚れていないフシがあった。態度がはっきりしない彼女に、終盤では取り乱したバチェラーの無様な姿がどんどん放送される。おいおい、お前バチェラーだろ!? 追いかけられる側だろ!?

 一方、水田さんは当初、数多くの女性出演者の中では「ONE OF THEM」でしかなかった。
 
 
 
 
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 しかし、水商売10年のキャリアで培ってきた人心掌握術というのか、接客術で、回を重ねるごとにその存在感は増していき、スタジオでモニタリングしているタレントの面々からの評価もうなぎのぼり。
 
 水田さんが岩間さんに容姿で劣っていた、ということは断じてない。そうではなく、ただ単に「バチェラーの“タイプ”ではなかった」、それだけである。しかし「タイプである/ない」の間にどれだけの差があるかは、分かる人には分かることだ。
 
 ここにおいて、まるでシード校の強豪(ヒール)と、ノーシードで1回戦から這い上がってきた公立校(ビーフェイス)、そんな対照性ができあがった。昨年の夏の甲子園金足農業大阪桐蔭の決勝戦でも盛り上がったではないか。同じようなものである。  

 加えて、この戦いは、岩間さんに対してのバチェラー友永クンの一目惚れ、もしくは性衝動=自然と、水田さんの培ったホステスの接客の技術=人間の作り出した人工物の対決でもある。

 前2回の『バチェラー・ジャパン』でも、最後の2人に絞られたら盛り上がったものだが、今回ほど明確な対抗軸はなく、「これって結局、好みの問題だよね?」としかならなかった。

 今回は金足農業VS大阪桐蔭」「ヒールVSベビーフェイス」「自然VS技術」という分かりやすい構図があるからこそ、俄然視聴者は「水田がんばれ! 打倒岩間!」で盛り上がれたのである。

友永真也という「掟破り男」

 今回のおもしろさを語る上で、やはりバチェラー本人を欠かすことはできない。いろんな意味ですっとこどっこいな(詳細はぜひ、本編を堪能しながら知ってほしい)彼だが、悔しいかな、彼なしではこかまで面白くなかっただろう。
 
 彼がこれまでのシリーズにない掟破りをいくつかしているが、最大にして最悪な掟破りは実は本編収録後に起きていた。

 ついに岩間さんから「恋愛感情はない」とまで言われ、泣いちゃった友永クン。ここで一度は心がポッキリ折れたようで、岩間さんを諦めたかのように水田さんを選んだのだった。

 ここで視聴者は一度は大歓喜したのである。

 …ところが、その後、事態は180度変わる。

 一度は水田さんと結婚を前提に交際することになった友永クンだが、なんとその後、私的に岩間さんと連絡を取り、さらに直接会っていた! さらにさらに水田さんにたった1ヵ月で別れを切り出し、すぐ直後にまんまと岩間さんとの交際にこぎつけたのだ!

 このことが、今回特別に設けられた「エピローグ」として配信されると、友永クンのクソっぷり+しれっと告白を受け入れた岩間さん(本編ではあんなに冷淡だったのに!)への視聴者のヘイトが爆発。これこそが今シーズンの「胸糞悪さ」の根源にある。

 一方、ぼく個人はというと、この結末を知ったとき、「悲しい」という感情に襲われた。
 
 自然(性衝動)に人間(理性、気遣い)が一度は勝ちかけたが、勝てなかった、そのことが悲しいのだ。我々は性衝動を未だに制御できない。これは大げさではなく人類の敗北なのだ。
 
 一度は結ばれ、すぐにフラれてしまった水田さん。バチェラーを馬乗りでボコボコにしてもいいぐらいの権利はあるのだが、スタジオで再会した元カレ(交際期間約1ヵ月!)を軽くなじりながらも、笑顔で送り出すその「グッドルーザー」っぷり。人間力、圧勝っ!
 
 ただ、これは映画でいうところのいわゆる「大どんでん返し」で、おもしろいに決まっているのである。
 「あのときはこう言ったけど、実はこうで…」そんな言い訳通るかよ!という話もごもっともであるけれど、それが現実。恋愛リアリティショーがリアルになった瞬間である。
 

所詮は赤の他人の色恋

 そんなこんなで、シリーズ史上かつてない視聴者にまったく祝福されないカップル」爆誕した。
 
 予期できたことだが、回を追うごとに、友永クンや岩間さんをはじめとする出演者について、ネット上での「プライベートさらし」が始まっている。その中には、この結末について怒りにかられた視聴者によるものもあることだろう。
 まったく感心できないことである。舞台裏をほじくり返すなんて、野暮ではないか。 
 
 裏切りや約束の反故なんて、自由恋愛にはいくらでもある。所詮は赤の他人の色恋ごとであり、第三者があーだこーだいうことではないのだ。
 
 ちょっと頭のネジが飛んだバチェラー友永クンは面白かったし、最後までただただひたすらにヒール役を全うした岩間さんも見事。責任を取って友永クンを引き取った、という立場とも言える。
 
 「胸糞悪いけどおもしろい」ーーだから、今回の『バチェラー・ジャパン』シーズン3をぼくに拍手を送るのだ。

『空の青さを知る人よ』は「いい映画」だけど僕にとって“他人事”だった


映画『空の青さを知る人よ』予告【10月11日(金)公開】

 

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

 

 公開中の『空の青さを知る人よ』というアニメ映画を観た。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』で知られる製作陣=超平和バスターズによる最新映画である。
 
 主人公は、秩父の山奥に暮らすベース大好きな女子高生、相生あおい。両親が交通事故死したあと、女手一つで育ててくれた姉あかねとの二人暮らし。そんなあかねとあおいの前に、大物歌手のバックミュージシャンとして金室慎之介が舞い戻ってくる。慎之介はあおいが音楽を始めたきっかけで、憧れの存在。高校卒業後に音楽での成功を夢見て上京していた。そんなときに、あおいの前に、高校時代の姿そのままのもう一人の慎之助=“しんの”が現れ…。


 安定したアニメーションに、実写と見紛うような美しい背景、秩父という舞台は同じものの『あの花』とは全然違うのにきちんと『あの花』風味が効いた感動を呼ぶストーリー。いい映画である。

 

 乱暴に一言でまとめるなら、「あの日見た夢にきちんと“ケジメ”つけてます?」という話である。

 その結末は、ナイーブと言えるほどまっすぐである。実写だと少し出来すぎで辟易としてくるほどまとまっているのだが、アニメということがその荒唐無稽さをカバーしている。鑑賞後にすがすがしい気分になれる一作である。
 
 一方で、ぼくがそんな風に一定の距離をとって「すがすがしい気分になれる」「いい映画」だと言い切れるのは、たぶんこの映画はぼくにとって「他人事」だからなのだろう。 

 逆に、ぼくや慎之介と同世代の30代前半ぐらいの人の中には、この映画を観て胸をかきむしられるような思いを抱く人がいると思う。

 彼らとぼくのちがいはなにか。それは夢をみている中高生か、そうでない中高生だったかのちがいだ。

 中高生の頃のぼくは、ばく然と東京に出たいという希望はあったものの、はっきりとしたやりたいことがあったわけではない。東京のキー局のテレビ局員になりたいと考えた記憶の断片はあるが、それはおそらくテレビマンという職業が「高収入だから」とか「カッコいい」「女性にモテそう」という打算的なもので、お世辞にも「夢」と呼べるような代物ではなかった。
 
 つまりぼくには、“しんの”のように十何年後かにバケてでる夢がなかったのである。だからこそぼくにとってこの映画はただの「いい映画」なのだ。

 

 

 強い光ほど、濃い影を引き寄せる。

 この映画を見ているうちに、強い夢とか希望を持って社会に出ていった人ほど、それが叶えられなかったときに苦しめられるという側面もあるんじゃないか、ということを考えたのである。この映画を作った人たちはたぶんそんなことを伝えたかったわけではないだろうが。


 「まあ、とりあえず井戸から出てみれば?」。あの頃、「空の青さ」にただただ惹かれるだけで、井戸からはい出たあとのことなんて何も考えていない、ぼくのような中高生がそこにいたら、そう声をかけてあげたいものである。

あまりに悲しい『ジョーカー』が描く「笑い」の排他性と均一性

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 あまりにも理不尽な目にあい、怒りに震えたとき、悲しみにくれたとき、ふと一瞬我に返る。自分がこれだけ激情の嵐に飲み込まれているにも関わらず、外界はいたって平穏だ。これは、自分が狂っているのか? 社会が狂っているのか? いや、そのどちらともなのか?

 
 『ハングオーバー!』シリーズのトッド・フィリップス監督が手掛けた『ジョーカー』は、そんな話である。

 

 バットマンの宿敵ジョーカーはこれまで何度も実写化された。中でもひときわ異彩を放っているのは、クリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』(2008)に登場するヒース・レジャー演じるジョーカーだ。
 ヒース版ジョーカーはそのおどろおどろしいビジュアルもさることながら、最もかっこよかったのは「口が避けた理由」である。劇中、ジョーカーは3度、相手を代えてその「理由」を語るのだが、3回とも全く話が変わっている。つまり、すべてが真っ赤な嘘なのだ。


 これが意味しているのは、ヒース版ジョーカーが“どこからやってきたのか分からない”ということだ。彼がなぜそうなってしまったのか。そして何が目的だったのか。それが分からないことの怖さが、『ダークナイト』のカルト的人気の大きな要因の一つだ。

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 そういう意味で、今作『ジョーカー』はとても野心的である。何しろ全編において「なぜジョーカーはジョーカーになったのか」の物語をたっぷりの悲しみと、怒りと、せつなさをもってして描くのだ。


 この映画について「危険」という謳い文句が流れていて、安易にそういう安っぽい言葉を使うのはどうかと思うが、使いたい気持ちはよく分かる。この映画、あまりにもジョーカーへの共感・同情の気持ちが抑えがたいのである。日本人は「苦節○年」という言葉に弱いが、本作はいわば演歌だ。こんなコブシの入ったジョーカー、今までいたのだろうか。

 

 ホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックは売れないコメディアン。普段は路上でパーティーピエロとして細々と生計を立てる。オンボロアパートに帰れば病の母親を看病する、孤独な優しい青年だ。
 しかし、不運もかさなり、彼と社会をつないでいたか細い糸はぷつり、ぷつりと一つずつちぎれていってしまう…。

 

 アーサーはコメディアンもどきであるが、そんな彼の孤独感を際立たせているのは、実は彼が志している「笑い」なのである。本作はさすがジョーカーが主役の映画とだけあって、「笑い」というもののもっている画一的で排他的な恐ろしい側面を効果的に使っている。
 
 アーサーは神経を損傷しているために、自分の意志と関わりなく、緊張してくると勝手に大笑いをはじめてしまう。みんなが押し黙っているバスの中でも、自分が立っているコメディのステージ上でも、それは頻発する。


 笑いはアンビバレントな行為である。本来、笑うことはストレス発散になりうる。人と一緒にいて、楽しい会話だと笑いもするだろう。本来それはポジティブな反応だ。


 一方で、集団でいるとき、我々は一人で勝手に笑えない。一斉に笑うことは許されるが、他の人が黙っているところで一人だけ大笑いをしていたら、頭のおかしな人だと思われてしまう。
 また、集団になって一部もしくは一人の人間を「笑い者」にするときの「笑い」は、強烈な排他性を帯びている。
 こうした笑いの画一的で排他的な側面は、本作でも中盤のある2つのシーンで効果的に使われ、アーサーの孤独を描いている。社会から見放され、自分の居場所がないことを悟ったとき、アーサーの中でジョーカーはついに目覚めるのである。
 
 ちなみに、映画ではここで、ジョーカーに対して「君と同じように社会から冷遇されても、一生懸命に生きている人がいる」という旨の説教を垂れるキャラクターが登場する。その直後にジョーカーにあっさり射殺される彼だが、この手の説教は社会への不満がきっかけで事件が起きるたびに出てくる繰り言だ。

 こうした言葉が繰り返されるたびに思うのは「じゃあ、その、今まで“冷遇されても、一生懸命に生きている人”たちが一斉に怒りをぶちまけて行動を始めたらどうするの?」ということ。しょせんそうした説教は、社会の問題に正面から向き合おうとせず、個人に我慢を強いる言葉にしかすぎない。

 

 閑話休題

 さきほど、ヒース版ジョーカーと大きく違う点について書いた。本作はここまで述べてきたように「ジョーカーがどこからやってきたのか?」を描いた作品であり、その点ではたしかにヒース版ジョーカーとは全く別物である。

 ただ一方で、「ジョーカーがこれからどこに行くのか? 何をしでかすか?」についてはさっぱり分からない。その点では、実はヒース版ジョーカーと同様なのだ。

 

 誰かがツイッター上で「(本作の)ジョーカーは革命家だ」みたいなことを書いて、随分おめでたいと思った。
 彼を苦しめたのは経済的な問題だけではない。孤独であり、分かりあえる友達や恋人もいなかった。同じ貧困にあげぐ人々からも、アーサーは疎まれていたのだ。
 今まで冷遇していたやつが、事態が変わってついてくるようになったからといって、ジョーカーはそんな彼らの言うことを聞いて動くだろうか? 彼は狂ったのだ。そんなの考えられない。
 あらゆる怒りと不満をために溜め込んで覚醒してしまった彼が、つぎにどんな凶行を起こすのか。それが分からないことが、もっとも怖いではないか。誰が狙われるかは分からない。彼を狂わせたのは社会全体。誰が狙われてもおかしくないのだ。

 

 幸か不幸か、トッド・フィリップスは本作を単発映画として企画しており、続編はないと現在のところ語っている。
 あまりにも切なく、あまりにも悲しい空前絶後のジョーカーの“その先”は、ぼくら観客が夢想するしかないのかもしれない。

TOKIOリーダー城島“ロリコン”バッシングはなぜ起きたのか

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この件をまとめたTogetterページ

 TOKIOのリーダー、城島茂の結婚が波紋を広げている。理由は、妻が24歳下の24歳グラドルであるためで、48歳にもなってそんな若い女と結婚するのは「キモい」「ロリコン」などと罵られているのだ。

 

■ 「年の差婚」なんてよくあること…なのに


 しかし「年の差婚」なんて、これまでの芸能界でもあった。
 加藤茶が、城島夫妻の倍近くある45歳年下の綾菜夫人と再婚したときにも批判があったが、それは茶ではなくむしろ夫人に対しての「カネ目当てだ」という言われなき内容だった。
 もちろん、茶に対して「そんなに若い女を捕まえて…」という呆れる気持ちを抱いた人もいただろうが、今回のように目に見える大きな塊となったバッシングはなかった。
 どうしてリーダーにかぎってそんなに叩かれるのだろう。

 

■ 「三枚目」「汗」「農作業」「おじいちゃん」城島のキャラクター


 このことについて友達と話していて、城島の(あくまでマスメディア上での)キャラクターに原因があったのではないか、という話になって、なるほどなと思った。
  
 DASH村・島での汗水たらした泥臭い奮闘…風評被害に苦しむ福島の農水産物を応援…彼のイメージはその頭のリーゼン(正確にはポンパドール)とは裏腹に、「三枚目」「汗」「泥」「農作業」だ。

 またTOKIOの中でも、特に性的な匂いが薄い男だ。長瀬智也松岡昌宏といった独身の男たちのように色気発散しているわけではないし、既婚の国分太一でさえも彼より若い。…あれ、TOKIOって4人だっけ? …まあいいや。
 
 個人的には、城島は『TOKIOカケル』でのたたずまいが印象的で、近年は若年のメンバーらのトークスピードについてこれないのか、「振られたらしゃべる」スタイルが定着。その姿はさっそう、「人畜無害なおじいちゃん」に一歩を足を踏み入れていた。
  

 そこに来て、24歳のグラドルとの結婚である。しかも「できちゃった婚」と来た。だからこそ「キモい」と思われたのではないか。

 

■ 「おっきした■ッキーマウス理論」


 友達と話していて思い出したのは、当ブログではおなじみの「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがに怖いだろ理論」である。
 
 ざっくり説明すると「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがにファンも怖いだろ」という理論である。LikeとLoveの違いといえば分かりやすいだろうか。多くの女性は「■ッキーが好き」(Like)と彼にかけよっていっても、■ッキーが性的な視線を投げ返してきたら(Love)、拒絶してしまう。

 こう書いたら、以前、■ッキーマウスに性的興奮を覚える女性から激烈な批判にあったのだが、■ッキーでなくても問題ない。ハローキティでもリラックマでもなんでもよいのだが、要は「一方的に愛玩されるべき対象」が、性的な欲望を向けたときならではのグロテスクさが「キモい」のである。

 これが、今回の城島の結婚にも言えるんじゃないだろうか。
 
 「人畜無害のおじいちゃん」だと思っていた城島が、24歳の女性と結婚…。その衝撃は、一部の人にはもしかしたら介護施設の利用者による職員へのセクハラ」に匹敵するものだったのかもしれない。

 

■ 「マイノリティーに優しい人たち」がなぜ…?

 

 ここからは、ちょっと堅い話をしたい。

 ここまで「城島が24歳年下の女性と結婚したことが“キモい”という反応を呼んだ理由」について推測してきたが、ぼく自身は「キモい」と批判することに対しては全く賛同していないことを、言い添えて置かなければならない。

 自治体レベルでは法整備が進み、「誰が誰とでも法的なパートナーになれる社会」に少しづつなろうとしている時代である。
 言ってはなんだが、成人男女の「年の差」ごときで、人の結婚にケチをつけるのはおかしい。
 また、若い女性を年長の男性が騙している、といった声もあるが、それは24歳の成人女性を馬鹿にしすぎだ。「ロリコン」というほとんど誹謗中傷に近い表現も無数に出ているが、そういう人は「ロリコン」の意味をもう一度辞書で調べてみることをお勧めしたい。

 

 少し悲しかったのは「城島キモい」といった批判が、ぼくも少なからぬシンパシーを抱いていた「マイノリティーに優しい人たち」からも出ていることだ。
 
 百歩譲って、城島の結婚に「キモい」という「生理的な嫌悪」を持つのは仕方ないとしよう。しかしそれは、たとえば「同性婚がキモい」という「生理的な嫌悪」と同レベルの直感的なものであり、後者の「嫌悪」が表明してはならない気風が整いつつある今、なぜ前者の「嫌悪」は表明してよいことになるのか、ぼくは論理的に説明できない。 

 裏を返せば、「城島キモい」は言ってもいいと思っている人は、「リベラル」なのでなく、「ただ単にマイノリティーに“だけ”に優しい人たち」で、その先にある多様性とかそういう社会のグランドデザインを、ぼくと共有していなかったのだろうと思う。

 しかも、たちが悪いのは、「城島キモイ」と声高に叫んでいる人たちが、それを「正義」だと誤解している可能性があることだ。「生理的な嫌悪」は必ずしも「正義」や「公正」と並走しない。そのことをぼくは今回の件から学んだのだった。

ブラピがカッコよすぎ! 『ワンハリ』160分を余裕で耐え抜ける圧倒的な魅力

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◾️ 「シャロン・テート事件」だけの160分ではない

 クエンティン・タランティーノ監督の最新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が公開されてほぼ3週間が経つ。

 1969年のハリウッドを舞台とする本作では、実際に起きた「シャロン・テート事件」を題材としており、この事件を予習しておいた方がよい、ということはすでに多くのメディアで伝えられていることである。
 ただしそれは、「予習してから観た方が分かりやすい」といったレベルではない。本作は全体がこの事件に向けて構造化されており、事件とその背景を予め知っておかなければ、タランティーノが何をしたかったかも分からないし、映画の鑑賞後感そのものが変わってしまう。事件をこの映画の鑑賞前に知っておくことは「予習」などでなく、「必須科目」だ。


 一方で、本作は約160分もある。それだけの長丁場が、実際に起きた事件1つで「保つ」わけではない。また、これだけの話題作で、すでに無数の観客がSNSなどに感想を書き連ねている以上、まだ観ていないが「ネタバレ」を食らってしまった、という人もいるかもしれない。
 
  しかしぼくは、「映画の結末」を知っていてもなお、この160分を完走するに値するもう1つの価値があると考える。
 つい先日も、約半年間、視聴者の興味だけをこれでもかと引っ張っておいて、散々な終わり方をしたテレビドラマがあったが、ああいう作品に怒り狂っている人は、ぜひとも、本作で「プロセス」の魅力を享受してほしい。
 
 この映画のクライマックスとは別のもう一つの魅力とは何か。それはブラッド・ピットである。結末を知っていようと、本作は彼を観るためだけに足を運ぶべきといっても過言ではない。

 

■ 史上最もカッコいいブラピ

 この映画のブラッド・ピットは、文句なしに、圧倒的にカッコいい。

 本作で演じるのは、レオナルド・ディカプリオが演じる落ち目のハリウッドスター、リック・ダルトンのスタントダブル(専属スタントマン)、クリフ・ブースだ。
 
 このクリフがどれほどカッコいいか。ブラピの演じた役でどの役が好きか、というのはファンの間で意見の分かれる問いだが、多くの人は『ファイトクラブ』のタイラー・ダーデンを支持することだろう。このクリフのかっこよさは、おそらく、そのタイラーに比肩する。

 それは感染性の魅力だ。例えば、本作にも登場するブルース・リーを劇場で初めて観て衝撃を受けた当時の多くの子どもたちが、彼の真似をして口をとがらせて、鼻先をクイクイッと親指でこする仕草をしたことだろう。あるいは、ドラマ『踊る大捜査線』がヒットした際に青島刑事の緑のモッズコートがバカ売れしたように、あるいはドラマ『HERO』がヒットした際、街中の男子が久利生公平と同じ色のダウンジャケットを着込んだように…。クリフのカッコよさは、そんなふうに感染力が高い、まねをしたくなるかっこよさなのである。もちろんまねしたところでキマるわけではなく、その多くは悲惨な結果になるのだが…。

 

■ 勇敢でワイルドな頼れる「アニキ」

 映画の冒頭で、早くも多くの観客は彼にハートを射抜かれてしまうだろう。
 ディカプリオ演じるリックのキャディラックを運転し、バーを訪れたクリフ。そこでリックはキャリアの曲がり角を感じ、ひと目もはばからず泣きじゃくる。クリフと反対に、リックはとにかく映画中、ずっとクヨクヨしてばかりいる。ハリウッドスターにありがちな精神的に不安定なキャラクターである。

 それをなだめるのは、立場上はリックの「部下」に当たるクリフである。クリフは自分の胸に抱かれるようにしてうぉんうぉん泣くリックに対し「駐車場で泣くな。あんたはスターだろ」と叱咤する。このように、映画では局面でクリフがリックの精神的な支え、アニキ的な立ち位置に立つ。
 その後、高級住宅街にあるリックの豪邸まで、キャディラックで送り届けるクリフ。調子を取り戻したリックが「成功したら、まずを家を買え」と上から目線のアドバイスをすると、はいはい、とばかりに聞き流すクリフ。ボスを送り届けた後、彼が帰りに乗るのは同じキャディラック、ではなく、使い古され、水色が褪せたフォルクスワーゲンである。
  
 ここで観客は「ああ、クリフは貧乏なんだな…」と察するわけだが、その直後、彼は、ボスを安全に送り届けていたときとはまるで別人の獰猛な運転で、夜のハリウッドを疾走し、仮住まいのようなキャンピングカーに戻るのだった。

 

 このシーンがとにかくシビれる。そのあとも、かすかでも「悪」の匂いを感じ取れば、危険を顧みずに飛び込む勇敢さや、売られた喧嘩はついつい買っちゃうやんちゃな一面など、クリフの魅力的な場面は幾度となく訪れる。

 クリフはボスのリックに対して、揺るぎない忠誠心を持ち続ける。しかし、それは彼の心根までをリックに売っぱらったことを意味していない。仕事にあぶれぎみで貧乏ではあるが、そんなことでは彼の高貴な自尊心と野性味は少しも曇ることはない。ほら、こういうときにぴったりの日本のことわざがあるではないか、「ボロは着てても心は錦」だ!

 体もムキムキマッチョ(ブラピ、50代に見えない!)。性的な魅力を全身から発散しているが、年若い少女からの誘惑はスマートにかわす。ちゃんと現代的にチューンナップした「魅力」だ。ワイルドでセクシーなクリフだが、欲望に任せて簡単に女を抱いたりはしない。


■ クリフがカッコいい「映画的な理由」

 なぜ、ここまでクリフはカッコよく仕立て上げられたのか。それはブラピがカッコいいからだろ、と言われたらそれまでだが、もう一つ、本作がやりたかったことと関係する、つまり「映画的な理由」がある。

 冒頭で書いたように、本作は「シャロン・テート事件」という揺るぎない現実を扱った作品である。一方で、クリフ・ブースという人物は実在しない。彼はまったくのフィクションであり、もっと言えば、「理想」の象徴である。本作がやろうとしているのは、現実を「こうであったらいいのに」という強烈な理想で塗り替えていく作業なのだ。そのためには、並大抵のフィクションでは駄目だ。圧倒的な、目もくらむようなフィクションでなければ。だから、彼はカッコいい、いや、カッコよすぎるのだ。
 
 そして、現代のわれわれが彼に魅了されてしまうということは、今の現実と理想の「差分」をも伺い知ることができる。「現実にこんなカッコいい男はいない」からこそ、われわれは魅了されてしまうのだから。現在、悪名を轟かせ続けている世界の最高権力者が、彼と同じ金髪の白人男性というのは皮肉すぎる話だが。

 
 とにもかくにも、勇敢なタフなクリフと、カッコいいけどすぐ泣いちゃうリックの2人がイチャイチャしているのを眺めているだけで、160分間、まったく飽きることない映画体験で、個人的にはタランティーノ作品で一番好き。
 あなたがもし、ドラマや映画の価値を最後数分の結末のみで測る人だとしたら、本作でプロセスの魅力に酔いしれてほしい。そしてクリフ・ブースという女も男も惚れてしまうキャラクターに圧倒されてほしい。