TOKIOのリーダー、城島茂の結婚が波紋を広げている。理由は、妻が24歳下の24歳グラドルであるためで、48歳にもなってそんな若い女と結婚するのは「キモい」「ロリコン」などと罵られているのだ。
■ 「年の差婚」なんてよくあること…なのに
しかし「年の差婚」なんて、これまでの芸能界でもあった。
加藤茶が、城島夫妻の倍近くある45歳年下の綾菜夫人と再婚したときにも批判があったが、それは茶ではなくむしろ夫人に対しての「カネ目当てだ」という言われなき内容だった。
もちろん、茶に対して「そんなに若い女を捕まえて…」という呆れる気持ちを抱いた人もいただろうが、今回のように目に見える大きな塊となったバッシングはなかった。
どうしてリーダーにかぎってそんなに叩かれるのだろう。
■ 「三枚目」「汗」「農作業」「おじいちゃん」城島のキャラクター
このことについて友達と話していて、城島の(あくまでマスメディア上での)キャラクターに原因があったのではないか、という話になって、なるほどなと思った。
DASH村・島での汗水たらした泥臭い奮闘…風評被害に苦しむ福島の農水産物を応援…彼のイメージはその頭のリーゼン(正確にはポンパドール)とは裏腹に、「三枚目」「汗」「泥」「農作業」だ。
またTOKIOの中でも、特に性的な匂いが薄い男だ。長瀬智也や松岡昌宏といった独身の男たちのように色気発散しているわけではないし、既婚の国分太一でさえも彼より若い。…あれ、TOKIOって4人だっけ? …まあいいや。
個人的には、城島は『TOKIOカケル』でのたたずまいが印象的で、近年は若年のメンバーらのトークスピードについてこれないのか、「振られたらしゃべる」スタイルが定着。その姿はさっそう、「人畜無害なおじいちゃん」に一歩を足を踏み入れていた。
そこに来て、24歳のグラドルとの結婚である。しかも「できちゃった婚」と来た。だからこそ「キモい」と思われたのではないか。
■ 「おっきした■ッキーマウス理論」
友達と話していて思い出したのは、当ブログではおなじみの「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがに怖いだろ理論」である。
ざっくり説明すると「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがにファンも怖いだろ」という理論である。LikeとLoveの違いといえば分かりやすいだろうか。多くの女性は「■ッキーが好き」(Like)と彼にかけよっていっても、■ッキーが性的な視線を投げ返してきたら(Love)、拒絶してしまう。
こう書いたら、以前、■ッキーマウスに性的興奮を覚える女性から激烈な批判にあったのだが、■ッキーでなくても問題ない。ハローキティでもリラックマでもなんでもよいのだが、要は「一方的に愛玩されるべき対象」が、性的な欲望を向けたときならではのグロテスクさが「キモい」のである。
これが、今回の城島の結婚にも言えるんじゃないだろうか。
「人畜無害のおじいちゃん」だと思っていた城島が、24歳の女性と結婚…。その衝撃は、一部の人にはもしかしたら「介護施設の利用者による職員へのセクハラ」に匹敵するものだったのかもしれない。
■ 「マイノリティーに優しい人たち」がなぜ…?
ここからは、ちょっと堅い話をしたい。
ここまで「城島が24歳年下の女性と結婚したことが“キモい”という反応を呼んだ理由」について推測してきたが、ぼく自身は「キモい」と批判することに対しては全く賛同していないことを、言い添えて置かなければならない。
自治体レベルでは法整備が進み、「誰が誰とでも法的なパートナーになれる社会」に少しづつなろうとしている時代である。
言ってはなんだが、成人男女の「年の差」ごときで、人の結婚にケチをつけるのはおかしい。
また、若い女性を年長の男性が騙している、といった声もあるが、それは24歳の成人女性を馬鹿にしすぎだ。「ロリコン」というほとんど誹謗中傷に近い表現も無数に出ているが、そういう人は「ロリコン」の意味をもう一度辞書で調べてみることをお勧めしたい。
少し悲しかったのは「城島キモい」といった批判が、ぼくも少なからぬシンパシーを抱いていた「マイノリティーに優しい人たち」からも出ていることだ。
百歩譲って、城島の結婚に「キモい」という「生理的な嫌悪」を持つのは仕方ないとしよう。しかしそれは、たとえば「同性婚がキモい」という「生理的な嫌悪」と同レベルの直感的なものであり、後者の「嫌悪」が表明してはならない気風が整いつつある今、なぜ前者の「嫌悪」は表明してよいことになるのか、ぼくは論理的に説明できない。
裏を返せば、「城島キモい」は言ってもいいと思っている人は、「リベラル」なのでなく、「ただ単にマイノリティーに“だけ”に優しい人たち」で、その先にある多様性とかそういう社会のグランドデザインを、ぼくと共有していなかったのだろうと思う。
しかも、たちが悪いのは、「城島キモイ」と声高に叫んでいる人たちが、それを「正義」だと誤解している可能性があることだ。「生理的な嫌悪」は必ずしも「正義」や「公正」と並走しない。そのことをぼくは今回の件から学んだのだった。