いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

大人になると友だちは減るけど、減りすぎるのも問題です

小田嶋隆氏が、成人式にこぞって参加する若者に吠えて、賛否を呼んでいる。

私の世代の者の感覚からすると、20歳になろうという男女が一箇所に集まって同じ格好をしたがること自体、端的に言って、薄気味の悪い出来事ということになる。

 でなくても、若い人たちが、揃いの衣装を身につけたがる傾向は、バカげだ風俗だと思っている。

 もっと言うなら、彼らが大切に思っている仲間意識自体が、私の目から見るとどうにも子供っぽく映るということだ。
 大人になったら、友だちはいなくなるものだ。

 私自身が、そうだったからということもあるが、まわりを見回してみても、われわれの時代の人間は、おしなべて、そんなふうに考えながら年齢を重ねてきたものなのだ。
 大人には友だちなんかいないぞ、と。
友達が減っていくのが、大人の証です。:日経ビジネスオンライン

全共闘運動が吹き荒れた後」というご自身の育った時代的背景があるだろうし、また後半のブラック企業や『永遠の0』を持ち出しての話は、「友だち」の一側面ではあるけれど、それだけでもない気がする。

ただそれにも増して、このコラムには「わかるなぁ」という感情の方が強かった。

人間は「友だち」といると「バカ」になる

経験則でいうと、人間は友だちといると「バカ」になる。そしてその「バカ」さ加減は、その友だちと仲がよければよいほど、そして、その集団の人数が多ければ多いほど、強度を増す。
ここでいう「バカ」には2種類の意味がある。
1つ目は、文字通り「頭を使わない」という意味での「バカ」だ。
気のおけない仲間となら、共通の話題、共通の思い出だけで、何時間も話に花が咲く。しかも、当時の言い回しや難しい話もツーカーで伝わり、それだけで笑える。成人式とはその最たる現場だろう。
そうした場は楽しい。けれど、同時に一抹の疾しさもおぼえる。さっきからオレ、何にも考えていないな、と。そこに思考はない。なじみの記号を口にし合っているだけだ。ストックフレーズを口にするだけでギャーギャー盛り上がれてしまい、内実は何も考えていないのに、自分でも気づいている。


だれにも迷惑をかけないから別にいいではないか、とあなたは思うかもしれない。
けれど、そうではないのだ。この「バカ」は他人に迷惑をかける可能性もある。それが2つ目の意味での「バカ」だ。
仲のよすぎる集団は、公共のマナーが著しく低下するのである。ある社会学者が「仲間以外はみな風景」といっていたが、言いえて妙だ。公共の空間で、他の人がまるで存在しないかのようにふるまい、獣のように喚き散らす。
ようは、見ず知らずの他人を不快にしない、あるいは見ず知らずの他人にどう思われるか、ということへの配慮が、「仲のいい集団」では著しく低下するのである。

ちなみに、この2種類の「バカ」をかねそなえた典型的な「集団」がバカップルである。

でも、友だちが減りすぎるのもちがう気がする


では、友だちが少なっていけば少なくなっていくだけいいのか。その理屈でいうと、誰一人友だちがいなくなるのが、「大人」としての完成系ということになる。
だが、それはそれで問題がある気がする。

というのも、人は一人ぼっちで思考をしていたら、ちょいちょいドクサ(独断による思い込み)に迷い込みがちだからだ。自分で確かめようにも、その自分自身が間違っているのだから確かめようがない。だから、たまには自分の思考に他者の介入を許して、間違いを指摘してもらい、修正を加えなければならない。
完全な孤独に陥るということは、その機会を失うことを意味する。

他人の介在を許さない末にできあがるのが誰かと言うと、それは端的にいうと「ガンコジジイ」なのだと思う。


「ガンコジジイ」は、公共のマナーも低下する傾向がある
個人の観測範囲の話だが、ぼくのよくいく市立図書館では、たまにスタッフを怒鳴りちらす利用者をみかける。ほぼ100%、それは年配の男性だ。理にかなったクレームもあるだろうが、中には閉館時間になっても新聞を置かないなど、わかりやすい迷惑行為もある。反対に、スタッフに注意されたり、食って掛かったりという若者というのは、ほとんど見たことがない。
勝手に推測するのもあれだが、そうした社会マナーの低下も、友達が少ないということが一因にあるのではないだろうか。彼らにしたら、自分以外の「他者はいない」のだから、怒り散らしてストレスを発散しても、別にかまわないのだ。反対に、友達がある程度いて、社会と繋がっている人たちは、そんなことできない。知り合いにその場を目撃され、失望されるのが怖いからだ。


こうしてみると、興味深いことに気づく。
気のおけない仲間とつるんでギャーギャー騒ぐ集団も、孤独な「ガンコジジイ」も、プロセスはちがえど共通の問題を抱えていることになる。
「仲間」とつるんでいる奴らは、仲がよすぎること、集団になりすぎることで知性が低下し、孤独な「ガンコジジイ」は人とつるまなすぎることで、自分以外に「他人」がいないことで知性が低下するのである。プロセスは正反対だが、行きつく場所は同じということになる。

つまり「新しい友だち」と出会い続けるしかない

では、どうすればよいのだろうか。
コラムとして最低最悪のつまらない結論であるが、「中庸」ということになろう。

おなじみのメンツで集まってだらだら喋る「ぬるま湯」につかるのは適度にして、ときには冬場の洗面所のような寒い「孤独」を味わってみる。けれど、いつまでも1人ぼっちで知的に「凍死」する。つねに「新しい友だち」を待望しなければならない
「新しい友だち」は、あなたの知的なパフォーマンスを格段にあげてくれる。
1つには、相手があなたの知らないことを教えてくれるかもしれないから。
もう1つは、あなたが相手と会話する際、物事を「原理的」に考えることが必要になるからだ。「新しい友だち」は、ツーカーで通じていた「仲間」とはことなり、事細かに説明しないと、あなたの言っていることを理解してくれない可能性が高いのだ。他人に言葉を尽くして何かを説明するというのは、実は手っ取り早く頭を使うのに最適な行為だ。


そうして「新しい友だち」も、いずれ気心の知れた「友だち」になる。だからあなたは、その「友だち」を大切にしながらもまた「新しい友だち」と出会い、対話をしつづけなければならない。大変なのだ、生きるのは。

つまり「大人」として知性を保ち続けるには、つねに「新しい友だち」を作り続けなければならないのである。


おかしい。小田嶋さんのコラムに賛同したはずなのに、まったく正反対の結論に行きついてしまった。