いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「誰がため」を生きるための子作り


正直結婚とか興味は無く、別に生涯一人で生きていこうと思っていた。
でもやっぱり無理かも。
こんな糞みたいな日常があと40年も続くと思うと絶望しかない。
結婚して子供いるやつが偉いとは思わないが、やっぱり次の代に血を繋ぐという事はすごく大事で必要な事だと思う。
そうしないと人類が滅びる。
そういう観点から見ると俺は世間から全く必要とされていない存在だ。
40代独身の会社員です


これを読んだとき、ああ、自分に子供が生まれるというのには、こういう気持ちを回避する効用があるのか、と思った。
子供を手段にするわけじゃない。子供が生まれたからには、その子に自分の人生のある程度をささげないといけない。
子供はそういう意味で、手段でなく目的だ。けれど、その目的を持たせてもらうことそのものに、ひとつの効用があるということだ。


まえに、会社に務めるというのは、自分のためだけには頑張りきれない人にとって向いている生き方なんじゃないか、と書いた。
子供ができるのも同じことなんじゃないか。
死にたくはない。けれど生きるということに積極的に取り組む意欲もないという人は一定層いる。没頭できる趣味を探せばいいと人はいう。けれど、何かに没頭できるのも一つの才能だ。
そういうの人でも、我が子を「生かしてあげたい」というモチベーションだけで、毎日生きれているということがあるのかもしれない。


にもかかわらずである。世の中には毎日のように、我が子を虐待する事件が伝えられている。
中には「生かしてあげたい」というそのモチベーションに押しつぶされたという人もいるかもしれない。けれど、一定数は独りよがりな親による独りよがりな行為だろう。
なぜそうしたことことが起きるのだろう。たぶん、彼らは「だれがため」より先に「自分のため」に生きるモチベーションが強くあったのである。
この40代の会社員が「だれがため」の生き方ができる人を羨む一方で、自分のために生きたいがために子供を傷つける人もいるのだと思う。
どちらがいい、悪いという話ではない。
しいていうならば、局所適材じゃなかったということだろうか。
思えばそれは、セックスという営みそのものにまつわる根源的な矛盾だ。
子供の誕生という「だれがため」のスタート地点であるはずの多くのセックスが、実は自分本位な営みなのである。これは人間に課せられた大いなる皮肉である。


投稿者は我々に結婚を勧めてくれている。
結婚しないというのが選択の先送りではないというのは、何度強調してもしすぎることにはならないだろう。選択の先送りならば、またあとで同じ選択肢を同じ条件で選べるだろう。けど我々は、結婚しないという選択を選ぶたびに年を取る。

年を取れば体力は落ちるし、性的魅力も失われる。子育てだってより大変なものとなるだろう。
つまり、毎回毎回我々は、結婚しないと回避しながらも、鈍く重層的に選び続けているのだ。そしてその鈍く些細な選択の積み重ねが、ある日取り返しの効かない「選択」になるのだと思う。


はい、だんだん鬱っぽくなってきましたね。それでは今日のところはこのへんで。