いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

お父さんなんてもういらない、のか?〜岡田斗司夫『フロン』書評〜

フロン―結婚生活・19の絶対法則 (幻冬舎文庫 お 26-1)

フロン―結婚生活・19の絶対法則 (幻冬舎文庫 お 26-1)

――闇を秘めていない家族などほとんど存在しない。どんな家族も戸棚の中に骸骨を秘めている。


19世紀の小説家サッカレーの言葉らしいが、この言葉は今でも賞味期限切れしてないだろう。
今でも、家族は様々な問題の温床となっていて、未だに結婚という制度は人類に完全には馴染んでいない。それどころか、晩婚化や未婚化、少子化の進展は結婚が日本人にとってますます「めんどくさいもの」になっているということを象徴している。
みんな、口に出さないだけで薄々気づいてる。
結婚なんて、もはや用済みなんじゃないか。
家族って「オワコン」じゃないか、と。


本書はオタキングこと岡田斗司夫が書いた、恋愛や結婚について主に女性に向けて書かれたオピニオンだ。
ぼくはオタキングの熱心なフォロワーでないため、『オタク学入門』以降の仕事はあまり把握していないかったのだけど、この本を開いてびっくりした。彼はいまやオタクという狭い業界内だけでなく、社会思想家みたいな仕事もしていたのか…。

サブタイトルに「19の絶対法則」とあるけど、この数字はあまり意識しないでいいかもしれない。というのも、この本で岡田さんが言わんとしていることは一本の川のように流れを作っていて、それは壮大なスケールの海=結論へとたどりつく。

ずばりそれは、ろくに家族をできない父親なんて家族にいらないという結論。
本書は、結婚がなぜ「オワコン」化したのかという問題に答え、なおかつその処方箋として父親のリストラを説いているのだ。
タイトル『フロン』とは何を隠そう「父論」であり、もっといえばそれは父親リストラ論のことだ。


まず、岡田氏はなぜ現代において結婚は、家族はうまく機能しないのかという問題にスポットを当てる。
そのキーワードは「自分の気持ち至上主義」。
情報社会の現代では、この世界にはたくさんの人がいて自分はその中のちっぽけな一個人にすぎないんだということに、誰もが嫌でも気づかされる。本書の初出は2001年だが、Twitterが普及した2012年現在では、より一層そのことが実感できるだろう。世の中にはいろんな人がいる。
そしてそのことによってかえって唯一無二の自分の個性を、気持ちを大切にしようという「自分の気持ち至上主義」が立ちあがってくる、というのだ。これは自分の気持ちに現実を妥協しないということであり、ひと言で言ってしまえば、みんなわがままになってしまったってことを意味する。


そしてその「自分の気持ち至上主義」は当然、「恋愛」や「結婚」「育児」の局面でも猛威を振るっている。
たった一人の「好きな人」と「恋愛」したうえで「結婚」し「育児」する、という近代以降幾度となく繰り返されてきた家族という一つのシステムが、この「自分の気持ち至上主義」と齟齬を起こすのは当たり前だ。
なぜなら、「自分の気持ち」に忠実になれば、「恋愛、結婚、育児をするのに適した相手はそれぞれ違う」に決まっている。それなのに、結婚というのはそれを一人に絞れと強いてくるシステムだ。
現在の非婚化・晩婚化、そして少子化はすべて、このことが原因であるのだと著者は説く。


この事態への著者の処方箋は「シングルマザー・ユニット」、言い換えれば多夫一婦制だ。
「異性に対して持っている欲求を、複数の相手に分散してしまおう」というのだ。
この一環として、旧来「夫」として妻を独占していた者は家庭からリストラされる。あとは家庭に生活費を入れてくれれば、義務は果たされるというわけ。


ここまで読むと、特に男の読者はムカッ腹が立ってくるかもしれない。現にぼくも、だれかの父親でも何でもないのに「なんか嫌な感じ」を味わった。
それにこれは典型的な「言うは易し」で、実行に移すには並大抵の努力では敵わない。

しかし、そのような気持ちも「ちょっと長めのあとがき」を読んで吹っ飛んだ。
岡田氏は机上の空論になってはダメだと、この本の原稿を執筆中に実際に家に帰るのを週3日と制限し、あとの4日は事務所に寝泊まりできるスペースを作って泊まり始めたというのだ。ここまででもよくやっている方だと思う。でも岡田氏はそれでもまだ納得できなかった。

「こんな中途半端な状態じゃダメだ。ちゃんと離婚しようか」
 妻は穏やかに「別にいいよ」と答えてくれました。
 その瞬間、いきなりすごいショックが打ち寄せてきました。「夫はリストラされるべきだ」という結論にたどり着いたときと同じくらいの大きな衝撃でした。
 だって「自分の家」と思っていたのは、彼女の家なのです。自分の家へ帰るのではなく「彼女の家へ行く」なのです。彼女の家には、自分の子どもがいます。でも、その子どもの保護者は、私ではなくて彼女なのです。
 家庭にリストラされたときは、「安らぎのある家庭」がなくなったのですが、今度は「私の家庭」自体がなくなってしまったのです。

p.277

冒頭に書いたとおり岡田氏の動静について詳しくなかったので改めて調べたら、本当に離婚していた。

「フロン」連載執筆中に、子供も成長し婚姻関係を続ける利点が少ない事に気づき、妻と相談の上離婚し別居する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E6%96%97%E5%8F%B8%E5%A4%AB

一冊の本を書き上げながら、自分の実人生まで変えてしまう。言論人としてのその愚直なまでの真摯な彼の姿勢に、毀誉褒貶があるものの胸を打たれるものがある。


ただ、ぼく個人は「ギスギスしてて嫌だな〜」と感じ、実際にこういう生き方をしたいとは思えないわけだ。
というのも、ここには「契約」がからんでくる。

 でも、何よりもいちばん気になるのは、夫が毎月、いくらずつ家計に入れてくれるのか、という点でしょう。
 あなたの希望と、その理由を明確にしてみましょう。
 何にいくらかかるのか。それをやめると、どんな結果になるのか。
 育児以外にこんな計画があるから、毎月○円ずつ貯めたい。このようにはっきり、具体的に言葉にできるようにしましょう。
 その結果、お互いに、家庭に何を求め、何を提供するかを明文化し、お互いに「楽しく」やっていける方法で、契約を結びましょう。
pp.244-245

「契約」を結ぶということは、家庭という場がシビアな経済活動の場所になる、ということだ。
家庭が明確な経済活動の場所になる、そんなギスギスした空間を本来家庭と呼べるのだろうか?
うちの実家では、食卓で宗教や支持政党の話をするなと、子供のころから口酸っぱく教えられていた。兄弟間での物の売買やお金の貸し借りも禁止されていた。
家族というのは、そういった政治活動や経済活動、思想信条といったものが一時的に無効化される場所としてあるべきであって、ぼくはその点においては今でもうちの家庭の考え方を正しいと思っている。