いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

脱ニートして約半年のオレが働いてみた感想を書くよ

というわけでね、ぼくもうニートじゃないんですよ、ええ。黙っててごめんなさい。


半年くらい前にアルバイトで採用されて、シレっと働いてます。
プロフィールとかはめんどくさくてイジんなかったんです。
偶然にも、そのころからBlogosさんに転載されはじめまして。
転載されるとけっこうコメント書かれることがあるんですが、なかには「ニートのくせに」みたいな捨て台詞もあります。プロフィールにそう書いてあるからしかたないですし、落ち込みはしませんが、人物と意見は別じゃね? という腑に落ちない気持ちはありましたよね。脱ニートしてみて、ニートがいかに迫害されているかを改めて実感したという。
それは別にいいんですが、反対に文章に賛同してくれる方まで「ニートでもこんな正しいこと言っている!」と書かれることがたまにあって、そういう人をダマすのは胸が痛むので、白状します。ぼく働いてしまったんですよ。


それでですね。半年がたったんですよ。最初は、2週間くらいでバックれるんじゃないかとか、バックれたついでにバックパッカーになるんじゃないかとか、旅先からSNSに謎のポエムを垂れ流すんじゃないかとか、2週間しか働いてないのに日本の労働環境批判とかおっぱじめるんじゃないかとか、そんな不安でいっぱいでした。なにせ、働くということにおいて自分で自分を信じれなかったんですから。今のところ無遅刻無欠勤。自分でもびっくりですよ。


働いていて、理不尽だなーとか、納得いかねーなーということもそりゃありますよ。でもそれって、許容できる「理不尽さ」というか、たぶんそれを受け入れないと社会自体が回っていかないレベルの理不尽さであって、それはスルーしようぜって言う話なんですよね、たぶん。たとえば、非人道的なレベルの満員電車に運悪く出くわすこともありますが、あれに抗議する人っていないじゃないですか。まあそこは仕方ねーなーと渋々受け止めるしかない。


それでですね、僕自身働くことについて考えると、モチベーションの一つはもちろん自活です。
けれどもう一つ、けっこうデカいと自分でも思うのは、「迷惑をかけたくない」っていうモチベーションなんですよ。たまたまぼくがそういう仕事に従事しているからというのもありますが、「仕事に穴を空けたくない」というモチベーションが、意外なほど大きい。

でもこれ、別に「人に必要とされているという実感!」みたいな意識の高いことを言っているじゃないんです。「いいとも!」にとってのタモさんレベルで自分が必要とされている人材だと豪語したいわけでもございません。
けれど、チームでやっている上で、そこにいるべき人がいないと周りの人がけっこう大変になるというのがわかっているから、毎日めんどくせーなと思いながらでも出社できる。消極的で、後ろ向きなモチベーションだと思いますが、でもそれがあるから毎日会社にいける。

変な言い方になりますが、「自分のためだけじゃ頑張れない」「自分のことがそんなに可愛くない」という人にとって、会社勤めという働き方はかなり合っているんじゃないでしょうか。


そう考えると、「あなたがいなくても今日も何不自由なくまわる仕事」や「あなたがいなくても今すぐに代わりが見つかる仕事」に従事されている方は、大変だと思うんですよ。そういう人は賃金もびっくりするくらい安いでしょうし。

それから、フリーランスの人もですね。自由業の方は、いくら高賃金だとしても、どこまでいっても所詮は「自分のため」という円環から抜け出せない。いつだって辞めようと思えば辞められる。それを「自由」ととらえることもできますが、自由すぎる自由が不自由に反転することも多々あります。そう考えると、フリーランスの人というのはかなり自己愛が強くないとやっていけなくなるんじゃないだろうか、と推測します。


ところでこの「迷惑をかけたくない」というモチベーション――これ、実は危険な要素を含んでますよね。
というのも、「迷惑をかけたくない」というモチベーションは、極端に突き詰めていくと過労死にいきつくんです。肉体的、精神的にきつくても迷惑をかけたくなくて出社って、そりゃ死亡フラグたってますって。責任感の強い人ほど、過労でおかしくなっちゃうというのはよく聞きます。「迷惑をかけたくない」なんて、責任感の最たるものなのかもしれません。

そう、「迷惑をかけたくない」と過労死がつながっていることは、否定しません。けれど、同一でもない。どういうことかというと、つまり両者は何段階かのグラデーションによって繋がっているんじゃないかと思うんですよ。

ここで、さっきの仕事における「理不尽」の話に戻ってきます。
きっとこういうことなんだと思います。世の中にはたぶん、許容すべき「理不尽」と、許容してはいけない、許容するなんて到底不可能な「理不尽」の両方があって、2つはたぶん区別なく世の中に漂っている。
大切なのはどこまでを許容して、どこからは許容しないかを判断するその人の目利きの力と、プラス許容できないときにSOSを発信できるかってことだと思うんですよね。「断る力」なんていうのを、以前やたら目力の強いおばはんが言ってましたが。あの人どこへ行ってしまったんでしょうか。

今のところは、この働くという時に理不尽で、時に得体の知れない営みの総体に、とりあえず浸かっているぼくなのでした。


と、こんな風に偉そうに語ってみましたが、所詮はまだ半年ですからね。
このあとまた考え方ががらっと変わるかもしれません。
そのときの文章を、こうご期待。