いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

国民栄誉賞授与式からどうしようもなく漏れ出ていた時代錯誤な「大正義」臭

見ましたよ。すでにぽつぽつと異論の狼煙がたっているわけですが、ぼくなんかも、ちょっと違ったんじゃないかと思うわけです。


感想を一言でいうと「祝いのための祝い」、みたいな。
まず、昨年末に引退した松井氏が国民栄誉賞をもらうのはともかく、長嶋さんがこのタイミングでもらう根拠はないわけですよ。もらうならとっくの昔にあげるべきであって。
さらにいうと、松井氏もなぜもらったのかわからない。そりゃ、MLBでシーズン30本打てる日本人スラッガーなんてこのさき出てくる見込みないですよ。ないですけど、認定基準があいまいなだけに、どうしても「雰囲気じゃね?」というイメージをぬぐいきれない。
それだと、AKBを「国民的アイドル」というときの「国民」と同じですよね。誰が決めたかわかんないけれど、誰もが言っているからそうなんだ、みたいな。

救われたのは、そういうところも包み隠さずふれた松井さんのスピーチでした。ほんと彼は推せる。ぼくのなかで「人格者」といえばまっさきにゴジラを思い浮かべますよ。


国民栄誉賞授与は「政治」だ、みたいな野暮なことはいまさら申しませんよ。けれどね、それにしても、読売のやりたい放題にさせすぎじゃないでしょうか。
これについては、日本唯一のメディア王ナベツネ氏がどこまで関わっていたのかが気になります。長嶋&松井の抱き合わせ授賞式というのは、一度薄れてしまった松井氏の「巨人の人間」という印象を強めたっかたのでは、と邪推してしまうところなのですが。ヤンキース移籍も、今考えたらよく許されたなと思うわけで。


くわえて、これに関してはプロ野球側もだらしないと思う。どうしてもレギュラーシーズン中の試合前にやらなければいけないことだったのか。
授与式の中継を一緒に観ていたサッカー好きの知人が、Jリーグならこういうことはないだろうとこぼしていました。
どういうことかというと、もしJリーグ関係者が授与されたとしても、授与式はオフシーズンにフレンドリーマッチなどをちゃんと別枠として設けてやっていたんじゃないか、ということなんです。この指摘にはなるほどたしかにと思いました。

プロ野球だって、たとえば松井氏の巨人在籍時メンバーとセ・リーグオールスターなんかでチャリティマッチをオフシーズンに組み、その試合前に授与式や始球式をやればよかったんですよ。その方が少しはクリーンじゃないですか。
逆にいえば、こういうのも目をつぶってもらえるだろうというプロ野球の「脇の甘さ」が露呈したんじゃないか。


昭和のプロ野球は巨人の歴史といって過言ではなかった、それはわかります。某掲示板スラングを借りれば、巨人こそがプロ野球の大正義で、他球団とは巨人にやられるための存在だった。
けれど、それでみなが満足していたわけではなかった。今でも印象に残っているのは、ぼくの子供のころ通っていた塾の先生が、「V9の時代の野球はつまらんかった。俺の子供時代を返してくれ」とたびたび怨嗟の声をもらしていたことです。マスメディアがとりあげなかっただけで、市井にはそういう人間も少なからずいたわけです。
こういうことをいうと、他球団にも「敵役」としての存在意義があったじゃないかという話になりますが、それは結果的にそうなっただけであって、巨人への一極集中が免罪されるわけではないですよね。現に、巨人の恩恵すらもらえないパリーグには長すぎる氷河期があった。

今や、街頭テレビで力道山の空手チョップにみんなして熱狂したり、全員集合の視聴率が50%を超える時代じゃないわけじゃないです。みんなが同じものを「楽しい」と思える時代じゃなくなった。「王が王の道を歩む」みたいなことを、あたかも国民的な祭事として言祝ぐ、その現象の時代錯誤さを、まざまざと見せつけられた気がしました。


こういうことを書くと、「また斜に構えて(笑)」みたいに思われるでしょうが、逆にこっちが聞きたいですよ。ぼくだって「そっち側」でまっすぐにお祝いしたいですよ。でもこういうことを感じてしまうだからしかたない。
むしろ「そっち側」に行く方法を教えてくださいよ、お願いします。