いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

続編はなぜ、失敗するのか

今テニスのウインブルドンが行われていて、NHKの深夜の放送を見たり見なかったりするのだが、女子のウィリアム姉妹である。
いきなり女性の顔の話で恐縮だが、初めて姉妹を見たときに僕は、姉ビーナスのほうがきれいだと思っていた。しかし今では、妹のセリーナのほうがきれいである、という意見に行き着いている。もちろんこれは、始終僕の主観的な価値判断だ。しかし、それでもなお、僕の主観的判断はなぜ最初にビーナスをセリーナよりきれいだという判断を下していたのか、あるときに起こった価値の逆転には疑問が残る。


考えてみると、端的にいってそれは彼女ら二人を見た順番にすぎない。ビーナス・ウィリアムスという男顔負けのパワーで勝負するテニスの強豪がいるというのを知って、最初に見たのはビーナスである。そしてしばらくして、そんな彼女には同じくらいパワフルでテニスの強い妹がいる、という事実を知った。
このように、ビーナスの顔を見た後にセリーナのそれを見た場合、何がおきるか。血がつながっている二人だから、セレーナの顔を「姉との違いはどこか?」というビーナスとの差異の上で評価してしまうわけだ。そこで無意識のうちに僕の中に、いわば「ビーナス基準」におけるセリーナの評価ができてしまったわけだ。こうなると、セリーナの顔の姉のそれからの違いというのはすべて、「マイナーチェンジ」にしかなりえない。だからこそ、僕はセリーナの顔を、不当に低く評価を下してしまっていたわけだ。


関係のある二つのもの(たとえば姉妹)の場合、先に見たもの(ビーナス)が、後に見たもの(セリーナ)の主観的な評価基準になるということがある。これは、映画にもいえるのではないかと、思ったのである。


映画の“続編”というのは、たいていポシャる。なぜだかわからないけど、僕らは“続編”を観終わって映画館を出るときはたいてい、苦々しい顔で「1は超えられなかったな」と思うのが落ちである。もちろん「例外」はある。『ゴッドファーザー』シリーズはほとんど誰に聞いてもベストは『part2』だし、『バックトゥーザフューチャー』などはいったいどれが一番面白いかの評価は、人それぞればらばらだ。しかし、明確に1が完結しており、数年後に「2つくろっかな」という企画の作品、つまり1と2が完全に独立している作品に関していえば、そのほとんどが評価を落とすというのに妥当する。
しかし、これはよく考えていれば変な話だ。おそらくたいていの続編というのは、1が面白かったからこそ作られたはずだ。だから制作費でもキャストでもそれほど期待されてなかった1よりも大きいはずであり、それでもなお2という名のつく続編の多くが劣ったものに見えてしまうのは、なぜか。


それはおそらく、1の価値基準でしか、2は評価できないからだろう。たとえば、井筒和幸の『パッチギ』はあれだけ評価されたのに、その続編的内容の『パッチギ2Love&Piece』というのは、少なくともネットでは完膚なきまでに批判された。僕が思う限り、後者は前者に劣りはするものの、日本映画の中でもそこまで劣った部類のそれではないはずだ。ここにあるのは、『パッチギ2』が初代『パッチギ』を見たわれわれが作り上げた「パッチギ性」においてのみでしか評価されない、という構造的問題だろう。
2と名のつく以上、それは初代の作り上げた「初代性」においてしか勝負できない。初代自身の「初代性」における評価は、当たり前の話であるが「100点満点」なのであるから、続編がそれに勝つ、というのはきわめて困難な営みとなる。


では、僕たちが1の評価に惑わされず続編映画を「客観的」に評価するには、どうすればいいか。
簡単な話だ。セリーナをビーナスより先に見ればいいのだ。
つまり続編を初代より先に見ればいい。だがそのとき、1、2をあべこべに見たからストーリーがわけわからなくなったと、僕を批判するのはやめてほしいと、あらかじめ書いておく。