いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「大人」と名指す人たち

教育テレビなどではよく、貧困や虐待によって親元を離れて施設で育った不幸な少年少女の特集が組まれる。そういった番組で取り上げられる人たちというのは、概して「大人」という言葉を使う。

僕は彼ら彼女らが「大人」という言葉を口走る度に、新鮮な驚きを覚える。


「大人」という言葉や意味を、知らないわけではなし使うことだってある。でもそれは、飲みの席などで「これができれば大人だ」「あれをしてるうちは、まだ大人じゃない」とか、そういった理念としての「大人」であって、具体的な他者としての大人ではない。「大人」という言葉で名指す存在を、僕は知らないのだ。


もちろん「大人」と呼ぶからには、おおむね彼らよりも年長者を指していることが多い。だが、彼らの口走る「大人」とは、単なる年長者を指しているというよりも、憎しみを込められていて、まるで敵を名指しているかのようにさえ、聞こえる。
「『大人』は都合がよい」「『大人』はすぐ嘘をつく」。
彼ら彼女らは、もちろん自分とは異なるもの、他者に対して「大人」をつかうのだけれど、それは概して自分を苦しめ不幸な人生に陥れた人、あるいはこれから先苦しめ陥れるかもしれない人のことをさす。彼らの敵はまさしく大人であり、大人こそが彼らの敵なのだ。それが、彼らの世界認識の一部だ。


認識というのは、もともとそこにあったものを後から来て受け入れるというような受動的な経験ではない。もちろんそこにあったのに違いはないのだけれど、それをどう解釈するか、そこにどのような「線」を引くかはその人に委ねられた、いたって能動的な経験だ。白と黒、善と悪、男と女、昼と夜、賢さと愚かさ。それらは、認識する者が引く「線」の本数とその複雑さによって、いくらでも変容する。


だから、その人にとっての「世界」はこの「線」の本数で決まると、僕は思う。
それはテレビと同じだ。ほら、矢沢の永ちゃんも言っているではないか、画素が増えるほど画面は色鮮やかになるんだって。世界認識にしたって、その人が世界にどれくらい「線」を引いているかで決まる。その本数がより多く、より複雑に絡み合っている人ほど、善だって悪だって、その人にはより色鮮やかでより多面的なものとなる。反対に本数が乏しく、単純な構造にしかなっていなければ、当然その人の善悪も、単純なものに成らざるを得ない。世界も単純なものになっていくだろう。同じ世界を生きているのに、この人の状況認識のなんてお粗末なんだと呆れてしまう人と、逆にその状況認識の深遠さに舌を巻いてしまう人がいるのだけれど、それは突きつめていけばこの「線」の本数なのだと、僕は思う。


彼ら彼女らの世界には、自分たちと憎むべき対象「大人」の間に、一本の線しかない。でも世の中には、愚かなも大人がいれば、賢い大人だっている。上品な大人がいれば、下品な大人もいる。子どもっぽい大人もいれば、大人っぽい大人も当然いる。それらを一括りに「大人」と名指し、敵として措定するのには、あまりにも「画数」が足りなすぎやしないか。


勿論僕は、彼ら彼女らの不遇な子ども時代に同情する。同情した上で、その認識の乏しさこそが、あまり表だっては言われないけども、不幸だなと思うのだ。
彼らが子どもの頃に失ったものは、教育や親からの愛などと、数え上げれば切りがないだろう。でも僕はさらにその一つとして、子どもの頃に培われるはずだったこの世界の「線」の本数をも、カウントされるべきだと思う。それは「大人」を敵としてしか措定できなくなった、彼らの大きな不幸のひとつだ。
そして同時に、彼らの親の彼らに犯した罪として新たにカウントされるべきは、子どもたちの前に多面的な大人として(つまり彼らの一元的な敵としてしか)現れなかった、ということにほかならない。