昨日たまたまこういうまとめスレを読んで。
http://alfalfalfa.com/archives/6917958.html
実際のところ、10倍大きくなると呼吸器官などの問題で生きていけないという説もあるが、それはおいておいて、10倍になった昆虫に勝てそうにないなぁと思わされるのは、最近こういう小説を読んだからだろう。
- 作者: 百田尚樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/07/15
- メディア: 文庫
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オオスズメバチの女王が君臨する「帝国」を舞台に、彼女のしもべとなる"ワーカー"たちの戦いを描いている。
ハチの擬人化といえばみなしごハッチじゃん!と思うなかれ。巻末の参考文献が物語るように、生物学的事実にきわめて忠実に書かれていると思われる。
この小説では、とにかく主人公のマリアを中心としたオオスズメバチのメスのワーカーたちがかっこよく描かれている。それはさながら、スパイ映画でよく描かれる、美しくかつ残酷なロシアの女性暗殺者のようだ。
一部を抜き出せばこんな感じ。
マリアの突き出す針を相手は素早くかわした。マリアもまた相手の針をよけた。二頭はいったん離れて空中で睨み合った。この相手は手強い、と思った。
「あんたは誰よ?」とその敵は言った。
「私はアステリッドの娘、疾風のマリアよ」
「私はルチアの娘、コルネリアよ。ルチアの剣と呼ばれているわ」
二頭のオオスズメバチは空中で互いに睨み合いながら円を描くように飛んだ。まりもコルネリアも腹を曲げて体をくの字にしている。針を相手に向けたヴェスパ最強の構えだ。pp.64-65
こんなかっちょいい会話をしている二頭だが、実際のオオスズメバチたちの姿というのは、こちら(閲覧注意)。
女王のことだけを一途に思い、冷酷なまでに獲物を駆る姿は、なんともいじらしい。
小説全体からは、なによりもこの著者自身が昆虫の世界にどっぷりハマっていることがありありと伝わってくる。
百田直樹という作家については、『輝く夜』での編集者による解説を引いた方が早いだろう。この編集者によると、百田氏は「とにかく好きになったこと、面白いと思ったことへののめり込みが半端ではない」らしく、いわば凝り性なんだそう。それにくわえて、ここからが大事。
これだけならうるさい趣味人といっただけなのだろうが、百田さんの場合、趣味が個人の趣味で終わらない一つの特技をもっていた。自分が興味をもったことを人に伝えるのがとにかく天才的に上手いのだ。具体的な情報がみっちりと詰まった話を独特の解釈を織り交ぜ、聞き手にとってまったく未知の領域の話でも飽きずに聞かせてしまう。
p.207
この趣味人であり、趣味を面白く伝えることが天才的に上手いという人物評は、まさに彼のエンタメ作家としての資質そのものにも当てはまるような気がする。
もちろん、本作で描かれるような「人格」めいたものは昆虫には実際はないはずだ。けれど、生物学的な事実と事実の点と点を、人格のようなものをもったキャラ同士のおりなす物語という線に仕立て上げていることで、門外漢の(というか元来虫嫌いの)ぼくのような人間にもとっつきやすく、頭に入ってくるのだ。
ちなみに、百田氏のデビュー作『永遠のゼロ』は、一部で「右翼エンタメ」とレッテルを張られているが、読んでみるとそう即断するにはもったいない。こちらの作品も、何冊もの文献をもとに構築されたもので、単純なナショナリズム高揚や零戦賛美、あるいは死を恐れぬ狂信的な特攻隊員の美化、といったものではなく、むしろそうしたものと真逆のことを伝えている箇所もある
閑話休題。というわけで今作は、物語としてのみならず、実際の昆虫たちのおどろくべき生態が明かされている。
一例をあげれば、ニホンミツバチの蜂球。単体ではオオスズメバチに歯が立たないニホンミツバチが、大群でオオスズメバチを囲み、なんと上昇した体温でもって熱死させてしまうというのだ。
作中ではカメムシさんが解説してくれているが、彼らミツバチが耐えれる温度が48度なのに対し、オオスズメバチはわずか2度低い46度で死んでしまうそう。この2度の違いを利用した攻撃、というわけ。
ただ、あくまでもこれは長い時間をかけて彼らが偶然的にかちえた「進化」なわけで、彼らの考えた「戦略」ではない。それはわかっていても、子どもの頃一緒に動物番組を観ていたオカンが「エライねぇ」と感心していたようなニュアンスで、ほぇーと感心してしまうのも事実。
一方、こうした擬人化によっても、人間と異なってくる部分もある。それは「生きる意味」を確信している、ということだ。主人公たちオオスズメバチのワーカーは、原則的に子供を産まない。このことについて、彼女らはほとんど何の逡巡もない。それはあらかじめインストールされた本能だからだ。
そんな彼女らの信じていた「生きる意味」も、次第に揺らいでいき、ついには大きな価値観の逆転を迎えてしまうときがくる。けれどもその逆転と彼女らの勇敢な決断も、あらかじめインストールされたものであり、生命として繰り返される壮大な円環の小さな歯車にすぎないというのは、なんともはかない。
その一方で、岸田秀いわく「本能が壊れた」われわれ人間である。ぼくらはいったい何のために生きているんでしょうね?