いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ドラマ「光とともに・・・」への不満足

最近気づいたのは、どう考えてもここ数年の僕の夕方の再放送ドラマ視聴率の方が、リアルタイムドラマ視聴率を上回っているということ。これはコンテンツそのものの優劣ではないと思う。夕方やっているのも夜やっているのも同じくらいに、つまらん。ではなぜ夜ではなく夕方になるのかというと、これは端的にいって毎日続きが追えるからだろう。逆に言えば、今のドラマに視聴者を一週間待ちこがれさせるだけの「耐久力」がないってことでもある。たしかに「続きが気になるぅーー!」というドラマも中にはある。しかしその「気になるぅーー!」ってのは、来週までずぅーっと保つことのできるものではなく、よく保って「明日まで」のものなのだ。


そんな中最近再放送されている、日テレ系「光とともに・・・」である。

篠原涼子演じる幸子とTOKIO山口演じる夫・雅人の間に生まれた、自閉症を持つ少年・光を巡る物語だ。僕が視たのは、おそらく初回か二回目の回だろう。場面は光の小学校の入学式。クラス写真を撮る段になって、それまで大人しく座っていた光がカメラマンの服に縫われていたイギリス国旗のマークに反応し、そのカメラマンに突進、押し倒してしまい小さな騒ぎになってしまう。僕が気になったのは、その直後の教室に戻ってからのシーン。

担任(武田真治)と障害児学級の担任秀美(小林聡美 )、光、幸子がまるで、立たされているかのように教壇に一列にたたずみ、そんな彼らに相対するのは席に座る健常の児童たち、さらにその後ろの教室の最後尾に陣取る、児童の父兄ら。場内は、先ほどの騒ぎがあったということもあり、どことなくピリピリした雰囲気になっているが、これではまるで両者がはなから対立しているかのようである。そんな中、幸子が恐る恐る、我が子のことと自閉症という障害について説明する。


それが終わってからである。教室後ろに陣取る、ある児童の母親から飛び出したヒステリックな詰問、「もしうちの子が(光に)暴力を振るわれたらどうするんですか!?」

おいおいそりゃないぜベイベ、とここで僕は思うのだ。
だれにって?もちろん、それはその無神経な女、にではない。脚本家である。ここにあるのはこの手の(どの手かはわからんが)ドラマにありがちな、無理解な周囲の人たち(悪)と、それに苦しむ主人公たち(善)、というわっかりやすいあからさまな二項対立。でもこれって、虚構じゃないだろうか。


言ってしまえば、さきの詰問をしたようなわかりやすい親が現実にいれば、その人はある意味善人である。おそらく、我が子が通う学校の安全を苦慮した結果に出た発言なのだろう(多少言い方は変えた方がいいと思うが・・・)。
だが、現実にこんなやついやしない。いないのは、みなが何も思っていないからというわけではない。みな不満やわだかまりを思っていても、単にそれを言わないだけなのだ。当事者のいる間ではそれを言わないで寛容なふりをして、いないところで言う。周りだけで回っていく陰口になるから、それはドーナツ型の強固なコミュニティになる。負のコミュニティだ。そしてこの「理解したふりをした無理解」というのは、子供が入学してから卒業するまで、あわーい空気のようでいて、ジメジメと永遠に続く。だからこそ、このように入学式というごく最初の段階で不満や思いの丈を口にする人は、ある意味善人だ。
だからといって、リアルは敵だらけ、と言いたいわけではない。敵と味方がその都度かわる。だからこそ難しいわけで、そのことこそがこの手の二項対立図式を演出するドラマを空虚にさせる一因なのだ。実社会では、相手を敵と思って撃てば不可避的にその人の「味方の部分」を傷つけることになるし、味方だと思って背後を許していれば、その人の「敵の部分」に寝首を掻かれることだってある。そのような斑目状の関係性を生きている人間からすれば、この手の対立構図は、寓話以上の意味をなさない。


原作マンガがそうだからかもしれないが、このドラマは自閉症という障害と自閉症児を持つ家族の姿を克明に描いているのかもしれない。でもその周辺、自閉症児に不可避的に関わらなければならなくなった人々の描写に関して言えば、はっきりいってフィクションの域を出ていない。障害そのものを知ることは、もちろん重要だ。でも僕ら健常者が最も直面するのは、「障害者の周囲の人物」としてなのであって、この手のドラマ(また言った)に社会的意義なるものが問われるのであれば、その意義とはきっとその関係性を描ききることなのだ。