いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

痴漢についての覚え書き


最近話題になっている痴漢について(話題になること自体不幸なことなのだが)、思ったことを2、3。

話題の発端となったのは、先週に判決の出た、痴漢の冤罪判決。この冤罪、とりわけ痴漢についてのそれに向き合うとき、僕らは必要以上に注意が必要だ。そんな重要な指摘を、id:shisokanさんがしてくれている。

痴漢問題になると毎回そうなのですが、痴漢冤罪のことも言いながら、痴漢でっち上げ事件のことには言及しないし、あるいは区別が付いていないのか、不思議なことです。
痴漢問題と新聞報道とネット言説 - 別館

「痴漢をでっち上げること」と、「痴漢が実際にはなかった」ということには、実は千里の径庭がある。
痴漢という問題において、被害者側がはっきりとそれを告発できないのには、法的な場所にそれを訴えでもして、もしそれが痴漢として認められなかった場合(つまり冤罪に認定されたとき)、今度はこっちが罪人にようにあつかわれる危険性があるという、まさにギャンブルを強いられてしまうからではないだろうか。向こうが勝手に触ってきて、なぜ自分がそんなバクチを打たなければならないのか。理不尽にもほどがある。痴漢の告発が被害者にとってギャンブルになりかねないのは、その冤罪の決定がイコール「被害者と加害者のリバーシブル」という世間の認識によるところが多いだろう。


痴漢という問題の困難さは、「痴漢をされた」という被害者の抱く主観的認識と、「実際には痴漢がなかった」という客観的事実の分裂、これである。そして、僕は痴漢に関して言えば、後者(事実)が前者(認識)に優越するとは、必ずしも思わない。
もちろん、「痴漢をされた」という感覚が被害者にあれば相手は即痴漢ヤロー、と言いたいわけでもない。実際には痴漢がなかったにも関わらず、法的、社会的制裁が加えられることはどう考えても間違っている。十分に吟味された上で、もし痴漢をしていないのならば、その人は無罪であり、法的には「痴漢はなかった」ということとなる。だが法的に痴漢がなかったとの証明がなされても、被害者の内面において「痴漢をされた」、「性的に蹂躙された」という確たる認識、心の傷を負ったという事実もまた、尊重されるべきなのだ。
つまり「痴漢はなかった」と、「痴漢をされた」は両立するのである
法的には痴漢はなかった。法のレベルではそこで終わる。されど、痴漢をされたという認識は現にある。その被害者の傷ついた心を周囲の人が、ちゃんと認めてあげて、なぐさめ、癒してあげるということぐらいはできるのではないか。「痴漢はなかった」でも、本人は傷ついているのだから。


痴漢冤罪において、悪者はいない。何度も言うが、「痴漢がなかった」という事実と、「痴漢をされた」という感覚は、両立するし両立されるべきなのだ。では、被害者がその肌で感じた、相手の指先に宿った悪意とは、いったい誰の悪意だろうか。それはおそらく誰のものでもない、持ち主不在の悪意だ。

いや、そうとは言い切れないのかもしれない。

男性不信の女性の目が悪を探すかぎり、どんな接触も痴漢である。が、判決はそのような目を「合理的疑いが残る」ものとして退ける。そこで彼女は問うだろう、私の目をつくったのは男性社会ではないか、それをも退けるのは、あまりにも酷ではないか、と。これを翻訳すれば、だって誰が見てもあれは痴漢です、ということになる。

男性不信の女性にとって、身体の接触に意図があったかどうかではなく、接触したこと自体が問題である。意図を問題化したいのであれば、男性不信の原因である男性社会を是正する方が先だろう。
男性不信の女性‐続・自我闘病日記

miyata1さんが書くとおり、もとをたどれば痴漢の冤罪の向こうには男性不信の影がある。そして、女性を男性不信に仕立て上げたのは、当の男性優位の世の中、男性社会なのだ。木を見て森を見ず、ではないが、痴漢は痴漢として完結して考える類の問題ではない。そのヒモを引っ張っていくと、ものすごくでっかい敵に、不可避的に出くわすことになる。