いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】虐殺者に虐殺を再現してもらう話題作「アクト・オブ・キリング」

インドネシアで1965年に起きた軍事クーデターに端を発する9月30日事件で、共産主義者共産主義が疑われた人々の約100万人超が、1年あまりで虐殺された。本作『アクト・オブ・キリング』は、民兵組織として虐殺に加担し、未だ英雄視される通称「プレマン」(インドネシア語でヤクザ、ごろつき、無法者の意)の男アンワル・コンゴとその周辺を追ったドキュメンタリ映画。


なんといってもこの映画の特徴は、虐殺の加害者らに自分たちがかつて行った虐殺を映画という形で再現してもらい、そのプロセスを追っているというその手法だろう。
こうした手法が取り得たのは、否、取らざるを得なかったのは、虐殺の加害者らがいまもインドネシア国内で平穏無事に暮らしているからであり、なおかつ同国では未だに事件について語ることがタブー視され、犠牲者の遺族が口をつぐんでいるという状況があるからだろう。


虐殺を悪びれもせず嬉々として語るコンゴら加害者のそぶりに、怒りや呆れよりもまず先に驚かされる。映画で再現することについても彼らは乗り気で、自分たちの行いがさらに知れ渡り、威信が高まるだろうとさえ豪語する。
不思議なのは、そうした彼らの態度を温存するインドネシアという国のあり方の方である。プレマンの民兵組織は、事件から50年が経とうとしている今も新陳代謝をしながら存続し、街で幅を利かせているのだ。華僑の商店に現れ、笑顔で金をゆすっていく彼らは同時に、政界にも進出している。
虐殺以後、スハルト政権の開発独裁によって国は発展し、民兵組織も社会的な実権を得て行く。こちらのブログによると、インドネシアでは2002年に「自主的警備組織」が法的に認められ、「暴力の民営化が法的に正当性を与えられた」という。一方で、映画では触れられていないが、1998年の政権交代期にはプレマンが暴動の過激化を防いだそうだ。彼らは、現代インドネシアが抱える「諸刃の剣」といえるのかもしれない。


拷問による殺害を、それも実際に使った現場で再現し、その映像を実の孫に喜びながら見せていたコンゴたちであったが、製作の過程で徐々に彼にも変化が訪れる。
虐殺に悪びれもしていないはずのコンゴだが、実は悪夢にうなされることがあるとも吐露する。また製作陣の中で、虐殺を再現することよって自分たちへの評価が覆されるのではないか、と危惧する声も上がり始める。彼らプレマンの中にも、虐殺への「負い目」や「罪悪感」が少なからずあったことが、次第に明らかになっていく。
印象的なのは、虐殺の犠牲者を継父にもつという、コンゴの隣人男性の話だ。「批判するつもりはない」と断りながら、声を絞り出すようにして語る彼の声を聞くコンゴの表情が次第に曇っていくのは、ぼくの錯覚ではないはず。


作品の感興をそぐので詳しくは語らないが、コンゴが虐殺被害者を演じるクライマックスにおいて観客は、ある種のカタルシスに遭遇する。そこで我々は気づくのである。監督自身は意図していないと否定するが、この虐殺の再現という試みは結果的に、欧米からやってきた映画監督がもたらした「ロールプレイング」という心理療法の側面があったということを。殺される立場にたったときコンゴの身に一体何が起きるのか、自身の目で確かめてほしい。


繁栄を謳歌しながらも結局は過去の虐殺に苦しめられているコンゴの姿はそのまま、プレマンや民兵組織を抱え、その暴力によって発展した側面もあるインドネシアという国の特殊なあり方の縮図になっているような気がした。
インドネシアという国に、これまでの何倍も興味がわいてくることは、間違いない映画だろう。