2日続けて同じ男をテーマにするのは初めてかもしれない。書きたいことが多すぎるのだ。ということで山ちゃんである。
山ちゃんが逃げ続けていたもの
先週のこの日、山ちゃんは結婚会見を開くとともに、深夜ラジオで結婚を生報告していた。放送は意外なほど和やかに進んだが、相方のしずちゃん、ゲストのaikoを迎えた番組の終盤で、山ちゃんの思いが決壊したダムのように溢れ出す。
本当、僕、実は結婚は凄く悩んでて。っていうのも、ラジオでずっとそんなことの逆の人生の話をしてて。それで、そういう人たちを妬んできてて。幸せになることが、あんまり良くないかなぁと思って。
幸せになったら、リスナーのみんなが俺のラジオ聴く意味なんかなくなって、楽しくなくなるかなぁと、ずっと思ってて…ごめんなさい。結婚することが、怖くて…
文字に起こすと分かりにくくなるが、音声で聴くと、涙ながらの彼の語りは、「うれし涙」の色調を帯びながらも、ある種の「恐怖」が感じ取られた。
彼が何を怖がっていたのか。ずばりそれは幸せである。
山ちゃんは著書『天才はあきらめた』の「はじめに」でこう書いている。
僕はいつも自分にこういい聞かせている。
自分を「頑張れなくさせるもの」を振り切って、全力で走れ!
そんなものからは、逃げて逃げて逃げまくれ!
そのためのガソリンとして、自分が味わった苦しい感情を全部使え!
嫌いな奴を燃料にして、脳内で圧倒的な勝利を掴め!
今日も僕は、勝手に認定した敵やライバルを脳内で燃料にして走り続けている。p-4
山ちゃんが「逃げて逃げて逃げまく」っていたものこそ、幸せである。
山ちゃんはついに今回その幸せに捕まってしまった。あんなに逃げていたのに。
山ちゃんの結婚を目の当たりにしても思うが、ぼくらは幸せになれないのではない。逆である。むしろ、放っておけば勝手に、容易に幸せになってしまうのである。幸せになれる可能性を0にすることのほうが難しいとさえいえる。
これは間違っても、なにかポジティブなことを言おうとしているわけではない。客観的にみて、幸せを全く味合わないのほうが“難しい”のである。
間違ってはならないのは、山ちゃんの結婚を、単純な因果論としてとらえてはならないということ。山ちゃんがお笑いという仕事を頑張った「ご褒美」で、今回のような幸せが提供された、というわけではないのだ。あくまでもこれは確率論なのだ。
ぼくがこういことを考えるようにいたったきっかけは、三島由紀夫の小説『金閣寺』にある。
『金閣寺』には、柏木という印象的な登場人物が出てくる。彼は先天的な「強度の内飜足」(ないほんそく)という足が湾曲する病気をもつ障害者だ。
柏木はニヒリストで、足の障害があるゆえに自分が「絶対に女から愛されないことを信じていた」のだという。その「愛されないという確信」が、彼と彼の障害に存在意義を付与していたのだ。
そのため、彼は「商売女」も買わない。障害者も何者も平等に扱う「商売女」を前にしては、自分の存在がなくなってしまうと考えるのだ。
しかし、そんな彼に「信ずべからざる事件が起」こる。ある「裕福な娘」が彼に愛を告白をしたというのだ。柏木はその求愛を拒むが、彼女は引き下がらない。むしろますます彼を追いかけてくる。彼女が彼の前で「体を投げ出」したとき、彼が「不能」だったことによって「愛していないこと」が証明され、ようやく彼女は彼の元から去っていったのだという。
この出来事は柏木をひどく狼狽させる。彼は誰にも「愛されないという確信」があるからこそ、愛を夢を見れていたという。障害のために今風に言えば恋愛市場から完全に閉め出されたことで、彼は完全な外部から、安心して恋愛を夢見られたのだ。柏木を愛する女性の登場は、そんな彼の「世界」に亀裂を生じさせたのだ。
「ある」ことの証明より「ない」ことの証明の方が難しい
われわれが本当に恐るべきは「絶対に幸せになれない」ことではない。むしろ、「あなたは幸せに絶対になれない」というお墨付きをもらえれば、どんなに楽になれることか。
恐ろしいのは、どんなに人を妬んで、どんなに人を呪っていようとしても、ときに幸せになれたり、そうでなくても幸せになれる余地が見え隠れすることだ。
そして生じるのが、幸せなときと不幸せなときの落差。その落差こそがぼくらは精神を蝕んでいく。
人間は普通にしていれば、勝手に幸せになってしまう。山ちゃんの結婚はそのことを教えてくれるのだ。繰り返すが、これはまったくポジティブシンキングではない。事実としてそうなのである。