いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

意味の真空状態に耐えること 

そうだよなぁー、なるほどなーというエントリーを読む。
 

たとえばあるブロガーが「わたしは在日朝鮮人です」と書いたとする。

 これがもし対面で言われていたら、言われたほうは相手の「在日である」という属性以外の情報も同時に手に入れるのだけども(たとえば性別、だいたいの年齢、美醜、身なり/身だしなみ、体型、声質や声色、口調、態度、表情、背丈)、ネットではそうした情報は届かなくて、ただ「在日である」という情報だけが届けられ、つまり先鋭化されるわけだ(そのブロガーに対して初見であれば、その属性ひとつが全人化しちゃうことだってあるわな)。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090418


ネットの民主主義とか、ネグリ=ハートの提唱するマルチチュードとかが、どうも上手くいくように思えないのには、まさにそういう問題があるからだろう。性別も民族も人種も宗教も年齢もその他諸々に関係なく、意見を忌憚なく発信できるという意味ではインターネットは人間にとって最適なツールなのかも知れない、その受け手までもが同じ人間という生き物でない限りは。
人間というのは、「意味の真空状態」にあまり耐性がない。ネット上で出会う限り、相手の属性は相手の表明したもの以外、こちらが知りうることはできない。わからない、ということはそれ以上でも以下でもないのだけれど、そういう空白地帯に我慢ならない、という人の方が多いだろう。我慢ならないとなるとどうするか。知っているもので補うしかないではないか。

ネット上でコミュニケートする相手の属性は、情報が何も明かされていない限りベールに包まれている。でもそこにもし、直感的なイメージを喚起しやすい何ものかが与えられたら、そのベールは一挙にその属性一色によって染められていくことになるのだろう。
これって、構造主義言語学に似ている。

もし狼という言葉が無くなったら・・・。現実的にはあり得ないが、もしそうなったら何が起こるのか。意味の真空状態は許されない。ただちに他の隣接する動物の名前が、以前は狼と呼ばれていた動物を表象することになるだろう。


機械のように考えれば、ネット上で「在日朝鮮人」という表明することは、それ以上でも以下でもない。それはその人のたった一部分の情報でしかない。
だがしかし、その人の見解は、意見は、判断はすべて、「在日としての」見解、「在日としての」意見、「在日としての」色眼鏡を通してしかうけとられない可能性がある。そして、概してそういった恣意的な読みというのは人間を、より悪意ある解釈へとたぐり寄せていく。さらにそういった悪意ある解釈を積み重ねていけば、生まれるのは当然「悪意ある在日朝鮮人像」でしかないだろう。それが偏見というものだ。


サッカーの下手なブラジル人もいれば、あまり情熱的でないイタリア人もいるだろう。僕はちなみに、お好み焼きが大嫌いな元広島県人だ。それらは、まず意味の真空状態に耐え、相手と親密にコミュニケートしていかなければ手に入れることのできない、各人固有の「個性」という名の情報だ。
意味の真空状態を我慢強く耐えること。実はそれがネットで有益な交流を深めるときに不可欠なことの一つなのかもしれない。