いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

俺たち“ショボいホワイトカラー”は必見! 6年遅れでも激推ししたい『SHIROBAKO』

SHIROBAKO』というアニメが面白いのである。全24話、一気に観てしまった。

「明日に向かって、えくそだすっ!」 

 

2014年の作品である。何を今さら、と言いたいのは分かっている。

アニメには詳しくないが、映画に置き換えてみるとよく分かる。「今田くん、いいこと教えてあげようか? 『ゴーン・ガール』って映画知らないでしょ? 面白いから観てごらん」と、2020年のナウに勧められるようなもんである。何をいまさらである。

でも、この面白さを今語りたいのである。語らせてくれ。

 

SHIROBAKO』の面白さ。一言で言うと、仕事、とくにクリエイティヴには属さない、われわれヒラの会社員、手に職なしの“ショボいホワイトカラー”の「仕事」が凝縮されているのだ。

 

舞台は架空のアニメプロダクション武蔵野アニメーション」、通称ムサニ。入社1年そこそこのヒロイン・宮森は、実際に絵を描くアニメーターでも、ストーリーを作る脚本家でも、ましてや監督でもない。制作進行という、仕事の段取りを作り、各クリエイティヴ部門の制作ペースを管理し、クリエイティヴクリエイティヴを橋渡しするセクションである。クセが強いクリエイティヴたちの間に入って右往左往する彼女の姿に「あ~、これ仕事~」と、何度声に出してしまったことか。

 

SHIROBAKO』が教えてくれるのは、我ら“ショボいホワイトカラー”の仕事とは畢竟、「報告」「トラブルシューティング(もしくはその予防)」「伝え方」、これらに尽きるということだ。

困ったことが起きたら、できるかぎり早く上に「報告」する。自分が上の立場になったら、「トラブルシューティング」の能力と、過去の経験から未然に防ぐ方策も求められる。ときに、同僚や社外スタッフに無茶をお願いする必要もあり、そういうときは「(波風を立てない、できれば相手を気持ちよく仕事させるための)伝え方」も大事だ。

 

マジな話、新入社員は下手な研修をリモートで受けるより、NetflixAmazonプライム・ビデオで、『SHIROBAKO』を観た方がよっぽどためになるぞ。「矢野さんとか井口さんみたいな先輩ほしい(なりたい)〜」とか「メールベースの確認、大事」だとか、「藁をも掴む思いで外注先見つけて発注したけど、納品がクソすぎてかえって仕事が増えた(怒)」といった「仕事あるある」の宝庫なのだ。

 

もちろん、仕事の「現実」だけが延々続くなら、最後には血反吐を吐いて死にたくなるような代物になっているだろう。GWにわざわざ観なくてもいい。

SHIROBAKO』には、制作進行のほかにもアニメーターや声優、脚本家、3DCGクリエイターといったさまざまなクリエイティヴの人々の葛藤と成長も併せて描かれる。

「現実」にいい塩梅で、「アニメーションのお仕事」という、われわれ一般視聴者にはなじみのない「ファンタジー世界」が合体しており、そのバランスが絶妙なのである(一方、アニメ業界人からしたら「アニメあるある」として楽しめるらしい)。

 

TVシリーズは全24話ある。前半の12話はムサニが久しぶりに元請けとなるオリジナルアニメを作る過程だが、後半12話ではムサニが人気コミックスのアニメ化の制作幹事となってプロジェクトを動かすことになり、宮森たちの「仕事」はより混迷を極める。前半では主に社内の「ヤバイやつ」に対処しておけばよかったのに、後半になると、社外の「(気を使わないとならない)ヤバイやつ」「仕事が雑なやつ」「言ってたことを反故にするやつ」「直接連絡とれないやつ」などが次々と宮森の前に立ちはだかるのだ。

 

観ていると、“ショボいホワイトカラー”もいるだけの存在ではない、という不思議な高揚感が湧いてくる。手に職なし、上等である。クリエイティヴクリエイティヴの点と点を、線で繋いでいく役割も、立派なクリエイティヴではないか。

コロナ禍で、ここ2ヵ月ほど「会社員」っぽくなくなっている自分に、「“ショボいホワイトカラー”とはなんぞや」をリマインドしてくれる貴重な作品だ。

鬼才だって仕事は不安と心配でいっぱい!映画『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』

在宅勤務がもう2ヵ月以上続いており、働いているのか働いてないんだか分からないような感覚になってきたのだが、今回紹介する『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』は、仕事について考えさせられる一作だ。

 

映画『ドライヴ』という大傑作を撮ったデンマークの鬼才ニコラス・ウィンディング・レフンが、その次に撮った『オンリー・ゴッド』の撮影過程を追ったドキュメンタリー。

ドライヴ(字幕版)

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  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: Prime Video
 

 

撮っているのはレフンの奥さん リブ・コーフィックセンさん。タイトルは、カタカナで書くとひたすら読みにくいが、直訳すると「ニコラス・ウィンディング・レフンディレクションされる私の人生」。「私の人生」とはおそらく、リヴさんのことなのだろう。

ディレクトには「監督する」のほかに、管理する、指図する、命令するといった意味がある。『オンリー・ゴッド』はバンコクで撮られた。リヴさんは子ども共々デンマークからバンコクまでレフンについて来たのだが、そのように夫の仕事に自分の人生を「ディレクト」されることへの奥さんの不満が、劇中でもぶつけられている。

 

さて、『オンリー・ゴッド』の撮影過程を追った、とは書いたが、これは単なるメイキングではない。メイキングと呼べる場面は少ない。本作の多くを占めるのは、リヴさんが撮る「レフンの素顔」だ。

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ときに耽美で難解な作風と、インテリジェンスな見た目からして、一見気難しい人なのかと思えるレフンさん。しかし本作をみると、「ありふれた二児のお父ちゃん」であることが分かる。短パン、寝癖丸出しの状態でだらしなくベッドに寝そべる姿など、素の姿にどこか安心させられる。

 

メイキングではないと先述したが、本作の大部分を占めるのは、レフンの仕事への不安、愚痴である。

そりゃそうだ。大傑作『ドライヴ』の次に撮る作品なのである。世界が注目し、期待する。そのプレッシャーにさいなまれるレフン。冒頭から「『ドライヴ』ほどは売れないだろう」「成功するか不安だ」とかなり弱気である。

 

見ていると、ひたすら不安、心配、不安、心配と、繰り返し口にする。

ときに、「うまく行かないかもしれない」と言ったところで、リヴさんがさり気なく「分かる」と相づちを打ったところ、「うまく行かないと思ってるのか!?」と半ギレになって噛み付いてくる。

 

め、めんどくせえ夫。これが『ドライヴ』の呪縛なのか。相当ナーバスになっているのが分かる。

 

でも、現場では絶対にそういう素振りは見せない。わけを聞くと、「不安や疑問を見せるわけにはいかないだろ。みんなが不安がる」。監督は虚勢を張らなければならないものなのか。逆に言えば、本作で見せるレフンの素顔は、唯一ベッドルームを共にする妻だから撮れた貴重なものと言えるかもしれない。

終いには、いつも不機嫌な夫に奥さんが逆ギレ。カメラを回しながら、突然夫婦げんかがぼっ発するなど、ほぼプライベートフィルムである。

 

撮影が始まってからもしばらくはナーバスなレフンさん。

ところが転機が訪れる。編集に入って、「え、なんか、思ってたよりいいかも…」という感覚になってきたのか、最後の方では「『ドライヴ』よりもいい。思わない?」とアツい掌返し。ここでも、奥さんの言葉尻が気に食わなかったのか、少し突っかかるめんどくささを発揮。かと思えば、「6ヵ月(撮影期間)を無駄にしてしまった」と突然急降下。このあたりの躁鬱ぶりがやばい。

 

オンリー・ゴッド』はカンヌ映画に出品され、レフンさんと共に奥さん、子どもたちも来仏。本作ではそのときの模様までを収めている。カンヌでの試写会を終えたら、今度は何も言わないでも、満足げなのが分かるレフンのニヤケっぷりである。最後はデンマークの自宅。「新たな冒険に出ないと」と、次回作を撮る気満々のレフンの穏やかな表情で幕を閉じる。

 

本作、『オンリー・ゴッド』を見ているだけで興味深いし、家庭のあり方だとか、いろいろな論点があるのだが、ぼくが一番おもしろかったのは仕事という観点だ。

別に、自分がレフンのような偉大な映画監督に並び称されるような逸材だとは思わないし、彼のような偉大な仕事をしているとも思わない。

けれど、一般論として、仕事って手を付けるまではめんどくさくて、不安で、心配で、そういったひたすら楽しくない感情だけに苛まれている、ということは共通すると思うのである。逆に言えば、「映画監督のようなクリエイティブで自由な仕事であっても、やり遂げるまでは不安で心配で憂うつなんだから、おまえのやってるクソみたいな仕事がそうでないわけないだろ」という悲しい結論も導き出せるのだが。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、すべて終わって見たら、どうってことない。むしろその出来に満足して、またやろうと思う自分がいる。

 

レフンについて、興味深いのは、カンヌのホテルのベッドでくつろぎながら、『オンリー・ゴッド』についての辛辣な評を読み上げるシーンだ。中には誹謗中傷に近いような内容もあるが、それも平気な顔をして声に出して読み上げている。撮っている最中まではあれだけ、期待されるのが怖いと言っていたのに。

仕事が不安で心配なのは、結果に対するプレッシャーではない。それは言い訳にすぎない。仕事は本源的に、不安や心配のタネであって、それを解消するのは「やりとげる」しかないのではないだろうか。

ただ、その過程での感情の起伏に振り回される周囲の人(本作における撮影者=奥さん)はたまったものではないだろうが。

 

なお、本作を観ていると間違いなく観たくなる『オンリー・ゴッド』もアマプラに入っているので、是非確認してもらいたい。

オンリー・ゴッド(字幕版)

オンリー・ゴッド(字幕版)

  • 発売日: 2014/05/14
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ロッククライマー映画だと思ったら激アツ“バディ・ムービー”『ドーンウォール』

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The Dawn Wall [Blu-ray]

ロッククライマーといえば、

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これとか、

 

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これのイメージしかないド素人で、トミー・コールドウェルのトの字も知らない人間だったが、何の気なしに見た彼のドキュメンタリー映画『ドーンウォール』が凄まじかったので紹介したい。

 

本作は彼がロッククライミングの聖地という、米ヨセミテ国立公園のエル・キャピタンという巨大な岩のドーンウォールというルート制覇のプロセスを追う作品だ。

難しい説明をすっ飛ばすと、ドーンウォールとは、頂上への数あるルートの中でも、一番困難で、誰も登ったことがない文字通り「前人未到」のルートだ。

 

この時点でふむふむなるほど、と思うのだが、やはりド素人としてまずやられるのは数百メートルの絶壁に体一つで張り付いている様だ。一度だけ、寄せばいいのにボルダリングに挑戦し、次の日手の握力を失った身からしたら、あれがどれだけすごいのかが分かる。指と腕の筋肉どうなんてんの? という感じ。リアルスパイダーマン

 

そして、高所恐怖症の人でもそうでない人でも卒倒するであろう、絶壁での野営は背筋が寒くなる。あのテントを考えて、初めて使った人、コンタクトレンズを初めて使った人と同じぐらい尊敬したい。

 

てな感じで、気合いと根性のロッククライミング映画…かと思えば、看板に少々偽りありだ。

 

そもそも、このトミーコールドウェルという人。これまでの人生までが壮絶である。本作はその人生も寄り道して紹介してくれる。

 

まず、10代のころにクライミングで訪れたキルギスにて、友人(のちの奥さんも含め)らとともに、地元の反政府ゲリラに拉致られてしまう。トミーはそこで、その一人を崖から突き落として殺し、友人たちと共に難を逃れる。

さらに、帰国後の彼を悲劇が襲う。チェーンソーで誤って指を切り落としてしまう! クライマーにとって大事な指を! しかも一番使いそうな人差し指を! クライミングを諦めかねないような事故だが、彼は壮絶な特訓を経て、「左手人差し指のないクライマー」として復活を果たす。

さらにさらに、神は彼に試練を与える。妻が他に好きな人ができた、として、離婚を言い渡されてしまう!

 

・反政府ゲリラに拉致される

・指を切り落とす

・離婚する

 

どうだろう。一般的に、人生でどれか一つでもごめんだわ、という試練が、この人の人生一周に全部降り掛かってきているのである。なかなかではないか。ちなみに、筆者もこのうちのどれか一つを体験しているが、それがどれなのかは想像に任せよう。

 

ちなみに、トミーは今回の挑戦の下準備や練習をしている最中は「離婚のことを忘れられた」といっている。分かる分かる。離婚って、精神的に来るよな…。

 

そんなこんなで、数年の下準備と練習を経て、ついにエル・キャピタン、ドーンウォールへ!

 

ここからは、高所恐怖症の人なら泡吹いて倒れるような映像がずーっと続く。

観ていると最初は、高所がそんなに怖くない自分でも「高いところ、怖い…」という4ビットの感想しかでてこないのだが、画面の中の人々がそんな事言わないもんだから、次第に「超高いところへの恐れ」は薄れ、出演者らの飽くなき挑戦そのものに気持ちが集中していく。

 

難しいながらも、順調に登り進めていたトミーと、彼が挑戦のパートナーに選んだケビン・ジョージソン。

 

和気あいあいと上り進めていた2人だったが、ピット15と名付けた難所にて、事態は急変。激アツのバディ・ムービーにシフトチェンジする。

 

それまでの上への動きから一転し、横移動するピット15。トミーはこの難関を何度目かの挑戦でなんとかクリアする。

以下が、実際にトミーがピット15をクリアする映像。

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しかし、ケビンはなかなかクリアできない。彼はもともと、ボルダリングが専門(ロッククライミングとは少し勝手が違うらしい)トミーに同行を志願。トミーとケビンは、いわば師匠と弟子みたいな関係だ。

 

それまで、交互にピット(全部で32個ある)をクリアしていた2人だが、ピット15をクリアし、次々と先をいくトミーと、ピット15でつかえ、先に進めないケビンとの間に距離ができてしまう。

すでにボロボロで、血がにじんでいる指。ケビンは一日挑戦を休み、回復につとめ、再度挑戦してもやはり途中で失敗してしまう。

 

「ケビンには無理だ。ここからはトミーだけでてっぺんを目指せばいいのに…」そんな風に関係者の誰もが思った。ケビン自身も、ここで挑戦を諦め、以降はトミーのサポートに回ると言い出す。

 

しかし、トミーはケビンがピット15をクリアするまで待つ、と決断する。

「僕が一人で完走するより、どんなに最悪な状況でも2人で完走したい」。

 

熱い…熱すぎるぜ、トミー。

 

ケビンはトミーに見守られる中、ついにピット15をクリア。そして、2人は前人未到のルート、ドーンウォールを制覇するのであった。

挑戦が開始した19日前には、岩のふもとにはモノ好きな地元の写真家ぐらいしかいなかった。しかし、挑戦に成功したその日、ふもとには多くのファンがかけつけ、全米中が彼らの成功を祝福した。

 

ドキュメンタリーのはずだが、特に後半起きるドラマの起伏はフィクションではないかと疑いたくなるほど。言葉少なだが、お互いを思っているトミーとケビンの関係性がたまらない。そんじょそこらのバディ・ムービーでは叶わないだろう。

おかしい。「ロッククライミングのドキュメンタリー」を観始めたはずなのに、観終わってみたら「バディ・ムービーの快作」だった。

映画鑑賞をだらだら何年も続けていると、たまにこういう不思議な、でも最高な体験ができるのである。

ポカリのCMが憎い

ポカリスエットのCMが新しくなった。
これが、外出自粛期間でただでさえテレビをつけっぱなしにしていることが多くなったぼくにとって悩みの種なのだ。このCMがテレビから不意に流れ出すと動機が高鳴り、全身の毛という毛が逆立っているのが自分でも分かる。完全に野生の動物が外敵と遭遇したときの臨戦態勢である。要するに、嫌いである。憎しみすら感じる。まあ、見てほしい。

 

 

中高生(おそらく高校生)の男女が、リモートワークさながらに、それぞれの自宅(らしき場所)で別々に歌を歌う姿を自撮りしている。一人ひとりは個別に歌っているのだが、音声と映像を合わせることで、それは合唱となっていく。最後は全員が一斉に青い空にカメラを向けたところで、CMは終わる。

この空はポカリスエットのブルーを模していると同時に、「離れ離れでも同じ空の下、ぼくら、私たちはつながっているよ」と言いたげなようだ。

 一説によると、今回の外出自粛の状況の中で、急きょ内容を変更して、このような内容にしたという。まさにピンチをチャンスに変える機転の利かせ方であり、見事としか言いようがない。

しかし、そうしたプロセスとは別問題で、できあがったものが悲しいかな「嫌い」であることも成り立つのであり、以下の文章について、もしもCM関係者の目に入ったとしても、悲しまないでほしい。別にあなたは全く悪くないし、これはぼく個人の完全な逆恨みである、というフォローはしておく。


なぜぼくはこのCMが嫌いなのか。その理由を自己分析していくと、「若い男女が楽しげにキャッキャしていること」自体に対する本源的な嫌悪感に加えて、自分の中学時代の個人的な記憶に遡る。

ぼくの中学時代にも文化祭というものがあった。ご多分に漏れず、そうした学校行事を取り仕切るのは、クラスのイケてる男子、イケてる女子ら、クラスの中心人物たちである。彼らとは生きる世界が違う、リアルすみっこぐらしのぼくのような人間は、彼らが勝手にいろいろ決めていき、降りてきたものを、「あ、これやって」と言われて、「あ、はい」と返事し、粛々と進める奴隷のような身分であった。

いわゆるスクールカーストというやつで、それ自体が唾棄すべきクソ文化であることに異論はないが、まだ中学時代であり、この手のカースト迫害者の思い出など、五万とあるだろう。俺が大人になった時にお前らに復讐してやると闘志だけはたぎらせていたが、同時に、まだ未熟な中学生のやることである、と変に大人じみた納得感もあった。

しかし、なによりもむかっ腹が立ったのは、その文化祭のテーマが「絆」だったことである。正確には、ぼくが2年生のときが「絆」で、3年生のときが「絆~ともに生きる~」だった。何を気に入ったのか、翌年にサブタイトルを追加してきやがった。今でもそんなことを覚えているのは、相当憎しみがあったからだろう。

どうだろうこの偽善的なコピーは。普段はまるで物語の背景のように扱う側、扱われる側の間柄である。にも関わらず、大人の注目を集める晴れの舞台では、やれ「絆」だのやれ「ともに生きる」だの「共生」をのたまうのである。その欺瞞性が、ぼくは許せなかったのである。

いけしゃあしゃあとよくもまあそんな友達ごっこができるな? とむかっ腹がたったのである。普段の他者の(すなわちぼく)の扱い方以上に、自分たちのその「罪」に向き合わない彼らの「無知の罪」に腹がたったのである。

別にぼくは、「絆」の中に入れてほしかったわけではない。肝心なときに「絆」の中に組み込まないでほしい、それだけなのだ。

ポカリのCMに戻る。ここまで書いてみて気づいたが、自分の主張は、ポカリのCMとそれを作った人々には何の関係もない。ほとんど言いがかりに近いものだろう。

しかし、ぼくは切に願う。あのCMから嗅ぎ取ってしまった「離れていても、みんなの心と心は一緒だよ」という大変おめでたいメッセージの「みんな」の中に、頼むから「ぼく」は含めないでほしい、と。そして、CMの最後に出てくる青空。空と空がつながっていると思いがちであるが、実は違う。いつまでたっても、どんなにがんばっても「つながらない空」があるのである。

そういうことを書いていたら、今の外出自粛の状況下でも、毎日のように嫌な言葉に出くわす。「一丸となって」とか、「みんなで協力して」と、少し前にはスポーツ競技にかこつけて「ONE TEAM」なんてていうのも流行った。どうやら、普段は赤の他人であるのに、急場になって「絆」「みんな」「一丸」などとのたまうのは、子どもも大人も変らない。内実は、「自粛を要請する」という語義矛盾の一億総圧力である。

日本を「和の国」と評する向きがあるのだが、これもとても欺瞞的な言い方だ。その和の内実は、弱い者が泣き寝入りさせられている、それだけなのである。それは、「絆」でつながっていないのに、「絆」の神輿を担がされた中学時代のぼくと同じだ。

別にぼくは、「絆」の中に入れてほしかったわけではない。都合のいいときにだけ「絆」の中に組み込まないでほしい、それだけなのだ。

【ほとんど『ザ・ノンフィクション』】荒れに荒れまくる『テラハ』最新回が暴いてしまったベール

動画配信サービス「Netflix」で配信中の人気リアリティーショーシリーズの最新シリーズ『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』が、急激に面白くなっているとぼくの中で話題だ。

普段は熱心な視聴者でなく、飛び飛びで観ているのだけど、先週配信された回は配信直後からSNS上で「一人で見ないほうがよい」「こんなの見たくなかった」といった不穏な感想が飛び交っており、気になったので中断したところから最新話までイッキ観した。

 

面白かった、とは軽々しく言えないようなガツンとくる衝撃映像だった。

テラスハウス』(以下『テラハ』)そのものは説明不要だろう。都会のおしゃれな若い男女6人がおしゃれなシェアハウスで共同生活し、恋だとか夢だとかに花咲かせながらわーわーやっているチャラいコンテンツである。

 

そんな『テラハ』最新回、第38話では女子プロレスラーの花が、スタンダップコメディアンを志す青年・快にブチギレてしまう。

そのブチギレぐあいが、もはやプロレスというよりガチ、かなりドキュメントであり、ほかメンバーのドン引きぐあいも含めて『テラスハウス』というフォーマットを一瞬だけ超えて社会派ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』に接近してしまった。

だから、ぼくのようなライト層が「おお、面白いドキュメンタリーやんけ」と目を輝かせる一方で、旧来の『テラスハウス』のコアファンほど「こんな『テラハ』観たくなかった」と落ち込んでいるようである。実際、『テラハ』をこれまで見届けてきた友人に聞いても、かつてここまで荒れたことはなかったとのこと。

 

とりあえず、先に本編を見ておいてほしい。オススメは、快と花の事件前の関係性を味わえるという意味で、第36話からだが、時間がないという人は、第37回からでも問題ないだろう。

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怒りの原因は些細なことだ。きっかけは、些細な共同生活上のトラブルである。


しかし、そこまでのプロセスを知っていたら、このトラブルはトリガーにすぎないことが分かってくる。

では、何が原因だとするならば、ぼくは「経済問題」だと感じた。

 

第37話では、快と花を含むメンバー男女2対2で京都旅行に出かける模様が描かれる。

快くんはお金がないため、一度は旅行自体を辞退しようとしたが、結局、もうひとりの男に交通費・旅費をほぼ丸々だしてもらう形で行くことになる。

ところが、旅行先ではノリが悪い、お金を出してもらっているのに感謝の気持ちが見えない、といった理由から、快くんはせっかく男女の恋仲として上手くいきかけていた花ちゃんの機嫌を損ねてしまう。

発端となった京都旅行↓

 

ここから、雪だるま式に花の中で、快へのヘイトが溜まっていったように思える。そして、ついに先述したようなブチギレ事件に発展する。

 

今回の顛末を見て、ぼくは思ったね。カール・マルクスの言っていたことは正しかったよ。

マルクスは上部構造に先立って下部構造があると言っていた。下部構造とは「経済」のことであり、その上に「政治や宗教」といった経済以外の社会の営みが上部構造として建てられる。 下があっての上であり、その逆ではない。 つまり「社会の一番の基礎は経済である」というのだ。これがいわゆる、マルクスの「唯物史観」だ。

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経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)

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これは社会の構造ととらえることもできるが、一人の人間としてもとらえることが可能ではないだろうか。

快くんはスタンダップコメディアンとして食べていけるほど成功していない。おそらくアルバイトもほとんどしていない。一言で言えばボンビーメンで、土台、ほかのメンバーと共に京都旅行を楽しめるような状態ではなかった。連れ(しかも、知り合ってそんなに経っていない)にほぼ全額を出してもらって行く旅行なんて、乗り気になれるはずがない。意中の女性が一緒ならば、なおさらだ。

経済という安定してなければ、心にゆとりはなくなるし、卑屈にもなってしまう。下部構造(経済状況)が、上部構造(気分、性格)を決めてしまっているのだ。

 

快くんが取るべき最善の策は、やはり旅行をキャンセルすることだった。それができないならば、旅先で徹底的に道化、幇間(場の盛り上げ役)を買ってでるべきだったのだが、彼の朴とつとしたキャラクターからしてそれは難しかったのだろう。結果、やはり旅行をキャンセルするのが一番だったのではないだろうか。もはや後の祭りだが。

 

貧困であり、徐々にほかのメンバー(特に女性陣)と精神的に距離が開いていってしまっている状況が、観ていて本当に痛々しい。最近、長かった髪を切り、敗戦間際の日本兵のようになってしまったビジュアルも悲壮感に拍車をかける。

 

道化、といえば、最新回では壊れてしまった(?)快くんのステージも一つのハイライトだ。

まるで上手くいかなかった京都旅行(そして、帰宅後に同居人ビビに鬼詰めされる)ショックが冷めやらない中、舞台上で失語症のように立ち尽くしてしまい、最後は狂ったように高笑いする。観劇に来ていた『テラハ』男性メンバー2人も固まる圧巻のステージングである。

貧困と孤立のスタンダップコメディアン。この組み合わせでホアキン・フェニックスの怪演が光る昨年の映画『ジョーカー』を思い出した人も少なかったようだ。

 

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Twitterで「快 ジョーカー」で検索すると…

 

『テラハ』の上部構造は「恋、夢、おしゃれ」であるが、そんな『テラハ』にも普段は隠れている下部構造として当然ながら「経済」が横たわっている。今回の京都旅行~花ブチギレ事件のプロセスは、今まで「恋、夢、おしゃれ」のベールに隠されていた「経済」の重要性を見事なまでに暴いてしまったのではないだろうか。

 

そして、このことはわれわれ傍観者たちにも「教訓」として返ってくる。もしも、目の前の恋に臆病になっているとすれば、それは自分の経済状態のせいではないか? 経済状態を安定させてから、恋に踏み出してもいいのではないか? 裏返せば、もしも経済的に安定してないなかでも、目の前の恋に全力投球できるという逸材がいたとしたら、その人はヒモとしての才能を有しているのかもしれない。

 

どちらにせよ、今夜24時に最新話が配信される。今から楽しみでしかたないのである。

“反”道徳と“非”道徳が激突し、後には何も残さない…暴力映画『ハングマンズ・ノット』の潔さ

ハングマンズ・ノット

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ここ最近のコロナの影響で、家にこもりがちとなり、ますますNetflixアマゾンプライム・ビデオへの依存が加速しているのだが、今回は掘り出し物の一作を紹介したい。

 

京都芸術大学在学中に阪元裕吾監督が撮った本作『ハングマンズ・ノット 』は、カナザワ映画祭2017「期待の新人監督」グランプリ受賞、インディペンデント・スピリットに溢れたバイオレンス・ムービーだ。

 

本来、舞妓とお寺が専売特許のはずの京都を舞台に描かれるのは、2つの暴力の世界だ。

松本卓也演じる影山アキラと、安田ユウが演じるその兄・影山シノブの兄弟が支配するのは、目を覆いたくなるような非道な性と暴力の世界。

そこには慈悲はない。幸せそうなカップルは、ほんのささいな理由で彼女が犯され、彼氏は金属バットでボコボコにされる。帰宅途中の何の罪もない女子高生は、ワゴンで拉致られてクズリ漬けにされた挙句に輪姦される。当然のように、河原のホームレスの家が焼き討ちにあう。

 

対するのは、吉井健吾演じる大学生の柴田さん。柴田さんは群れない。いや、そんなにかっこいいものではない。他者とのコミュニケーションに難がある孤高のコミュ障だ。一見なんの変哲もない、ダッフルコートにメガネという出で立ちの男子学生なのだが、電車の中で奇行を繰り出し、乗客たちの注目を集める部類の人である。

さらに、その奇行を撮影していた同じ大学の女子学生が自分のことを好きなのだと思いこむ勘違いもぶり、迷惑甚だしい厄介者だ。コミュ障を通り越してサイコパス。彼もまた、影山兄弟とはまた別の意味で、生と死の境界を軽々と超えていってしまう恐ろしい男なのだ。

 

頭のおかしなヤンキーと頭のおかしなコミュ障。別の意味で「怖い」2組だが、両者は「道徳」への向き合い方において、定義づけられる。

影山兄弟の立場はいわば“反”道徳であり、道徳に徹底的に抗い続けている。対する柴田さんは“非”道徳だ。道徳に抗っているわけではない。彼は初めから道徳がない世界を生きている。

反道徳と非道徳。2つの勢力は、京都を舞台に別々に活写されるのだが、クライマックスで激突することになる。しかしそれは、あくまでも偶然の荒々しい衝突事故だ。

その先にあるのは、反道徳と非道徳の激突のすえに平和な世界が訪れる…という安易な結論では毛頭なく。

それまでと同じように、いや、それまで以上に、両者の激突で、心優しい人々やなんの罪もない(強いて言うなら運が悪かった!)普通の人々がまきこまれ、酷い目にあっていくのだが、ぜひそれは自らの目で確認してもらいたい。

 

最後には道徳が勝つ、みたいな安易な結末を一ミリも残さない、突き放したかのような終わり方もまたクールである。

 

この自粛期間に、騙されたと思って観ておいてほしい一作である。

東野幸治の”芸人ウォッチ術”が花開くエッセイ『この素晴らしき世界』

この素晴らしき世界

この素晴らしき世界

 

東野幸治は掴みどころのないお笑い芸人だ。

20代の頃には『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演し、放課後電磁波クラブ、パイマンといった名キャラクターを生み出したものの、番組内では「できない奴」「面白くない奴」「汚れ芸人」という扱い。おまけすぐに全裸になるような下品な芸風だったため、生前のぼくの父親は毛嫌いし、『ごっつ』に彼が出てくると舌打ちしていたものだ。

その後、今度は先輩、ダウンタウン松本らの証言により、死んだ亀をゴミ箱に捨てるなどの恐ろしい本性が続々と明らかとなり、「ヒトの心を持たない芸人」「サイコパス芸人」といった称号を得たのが2000年代。

しかし、この頃から徐々に風向きが変わっていく。いつのまにか「できない奴」でも「面白くない奴」でもなく、すぐ上の先輩・今田耕司と共にMC芸人として重宝され、急激に頭角を現していく。回される側、ではなく、実は回す側にその才能を有していたのだ。

そして2010年代、『アメトーーク!』に持ち込んだ「帰ろか・・・千鳥」「どうした!?品川」といった企画を成功させるなど、同業者がロックオンされることを恐れるほどの密度の高い「芸人ウォッチ術」において才覚を見せ始める。

さらに、年齢を重ねた近年では、「ヒトの心を持たない芸人」だったはずが、涙もろくもなってきている。昨年のよしもとの闇営業問題のときには、謹慎を食らった後輩たちを思い、テレビの生放送中に涙した姿が記憶に新しい。

かつて松本も自身のラジオ番組で東野のことを、「まだ、何回か変化しよる」と予想した。いったい、どれが本当の東野なのか。そして、どれが本当の彼なのか。

 

この素晴らしき世界

この素晴らしき世界

  • 作者:東野 幸治
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本
 

 

『この素晴らしき世界』はそんな東野によるエッセイ集だ。所属するよしもとの先輩、後輩を一人ずつ紹介している、人物評伝集といえる。浅草キッド水道橋博士にも同様の『藝人春秋』というシリーズがあり、形式はそれに似ているが、博士が博覧強記でごりごりと対象人物の輪郭をかたどっていくとすれば、東野のそれはのほほんとした軽い言葉で、その芸人の実相に迫っていく。

 

さまざまな語り口を使い分ける。その芸人の身近な面白エピソード集の数々を紹介していきながら憎めない素顔を紹介(イジる)したかと思えば、その芸人の半生を丁寧に振り返りつつ、芸人人生の酸いも甘いもを読者に追体験させる、クオリティの高いルポタージュの様相を呈することもある。

前者(例えば「アホがバレた男、ココリコ遠藤」「度が過ぎる芸人、若井おさむ」「元気が出る男、トミーズ健」など)でガハハと声を出して笑ってしまったかと思えば、一転して、後者(例えば「お笑いに溺愛された男、三浦マイルド君」「執念と愛に満ちたコンビ、宮川大助・花子」「還暦間近のアルバイト芸人、リットン調査団水野」など)で、不意に泣かされそうになる。

 

そんな東野の筆致が光るのは、やはりどちらかといえばダメな芸人について語るときだ。

  彼の仕事がなくなろうとも、彼がバイトしようとも、のたれ死のうとも、世の中の人には一切関係ございません。

 彼自身も世の中に対して、恨み辛みは一切ございません。

 お笑いを続けながらお笑いに絶望し、お笑いの世界に居続ける――。彼とお笑いとは不思議な関係です。

 そして色んな先輩から「大丈夫?」と言われたら間髪をいれず、「心配ないさ~」と言い続ける。

 そんな心配しない男が大西ライオンです。

 

「心配しない男、大西ライオン」より

 

この文章に、お笑い芸人の、特に売れないお笑い芸人の悲哀が凝縮されているように思える。

 

また、サイコパス芸人の片鱗を見せることもある。ガンバレルーヤよしこについてつづった章では、よしこと相方まひるの出会いを描く。よしこが自身のマンションのエレベーターで、便秘に苦しむまひろを助けたところ、なんと2人はこれからNSCに入学する新入生同士で、意気投合してコンビ結成となった…という、すでにテレビ番組でも何度か披露されたエピソードだ。

しかし、これを紹介し終えた東野は、すかさず、

……とここまで書いていて、私は感じます。こんな話、あります? どこか嘘くさいですよねえ。

 

言われてみれば、たしかにうそっぽく思えてくるけど…別にそんなことわざわざ指摘しなくてよくね? と思うところに突っかかるのがやはり東野幸治という男なのだろう。しかし、別に東野は「うそが嫌い」なわけじゃない。先程の箇所でも、すぐに「でも、この嘘くささがお笑い芸人としてのとても大事な要素だと私は思っています」とフォローする。

「これ嘘だよね? 嘘だよね? やっぱり。嘘だと思ったんだよ」と、うそであることだけを確かめれば、咎めもせず去っていきそう。彼を突き動かすのは道徳心ではなく、「本当かどうか」という純粋な好奇心だけなのだ。

 

結局東野はどういう芸人で、どういう男なのか。

本書で、東野が自身について書く箇所は、当然ながらほとんどない。

しかし、やはり人間は自分について語らずとも、「何を語るか」「どう語るか」で、はからずも自分について語ってしまっているのだと思う。

明石家さんまダウンタウンといった大御所ではなく、どうしようもないダメな芸人にこそスポットを当てて、そのスキャンダルな素顔を容赦なく書ききってしまうのは、彼の暖かさであるとともに、冷酷さでもある。

冷静と情熱の間で芸人を愛し続ける芸人。きっと東野とはそういう男なのだ。