いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

すばらしい日々

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というわけで、実は離婚していたのである。

離婚はおろか、まさか結婚できるなんて思っていなかったので、離婚させていただくなんて光栄だ。自分が離婚できるなんて思ってもみなかった。

そんなことで、本稿は「最近離婚した者による離婚の雑感」である。なお、ここから以下の文章は、このブログでも始めて元妻に「原稿チェック」をお願いしたので、あとになって醜い争いに発展することはないだろう。

離婚は疲れる

離婚するまで、離婚がここまで疲れるとは思ってもみなかった。

ぼくらの場合は、二者間での結論はすぐについてしまった。まるで、次の家の壁紙の色を決めるよりも早く、簡単に決まったと思う。

大変だったのはそのあとだった。双方の実家への報告だ。

離婚は二者間の問題であって、どこぞの皇族や華麗なる一族の政略結婚でもないかぎり、二者間以外は何人も干渉できないはずである。

しかし、現実には依然、「イエ」の問題としてとらえられているふしがある。うちもご多分にもれずに、双方の実家から反対活動にあった。そもそも、双方の実家には分かってもらう必要はなく、ただ、「離婚します」という報告ですむはずだったのだが、それでも猛烈な引き止めにあった。

その過程で双方の親も精神的にかなり消耗しただろうし、ぼくら夫婦、もとい元夫婦も精神的に疲弊した。

もちろん、結婚するときには、それなりに責任を持っていたはずだった。結婚が双方のイエとイエとのつながりである(と思われている)こと、恋愛のように軽々しく別れられないということ、重々承知で、それ相応の覚悟をもって踏み切ったはずだった。この人ならば、まあ一生やっていけるだろうな、というぐらいの気持ちはあった。

しかし、やはり、結婚してみないといろいろ分からないこともあるもので。それを指して「覚悟が足りなかった」と言われるのだとすれば、それまでなのだが。

 

離婚はバンドの解散に似ている

この問題の過程で、うちの離婚は、バンドやアイドルグループの解散に似ているかもしれない、と思ったことがある。夫婦=バンドととらえればいろいろ説明がしやすくなる。

ぼくらが離婚する理由は、どちらかの不倫やなんだという人様をワクワクさせるような劇的な部類のそれではない。今後の夫婦の方向性をめぐって折り合いがつかなかったわけだが、これはバンドで言えば「音楽性の違い」に該当するだろう。

また、これは人気バンドに限定されるが、本人たちが解散したがっていたとしても、人気が出てしまったらなかなか簡単には解散できなくなる。彼らの活動を通して仕事にありついている関係者や、心の支えにしているファンは容易には解散させてくれなくなる。

これは、ぼくら元夫婦になぞらえれば、前述したような「イエ」であるし、ぼくの周囲にいた「別れないほうがいいよ」と言ってくれた少数の友人に該当するだろう。

 

「離婚しない」のサンクコスト

イエとイエに気を使い、ガマンして結婚生活を続ける選択肢もあるのだろう。

しかし、たぶんそれだと「なんで離婚したいのに離婚できない人生なのだろう」、あるいは「なんで自分と離婚したがっている人と離婚できない人生なのだろう」という疑問がふつふつと湧いてくるはず。利己的なことに関して、ぼくら元夫婦は似かたよっているのだ。

それにお互い、まだ20代と30代である。ここでダラダラ続けるより、スパッと解消してよかったという気もしている。サンクコスト(埋没費用)というやつだ。

わずか3年弱の結婚生活だったが、大半は穏やかに暮らせていた。裏を返せば、結婚の一番旨味のある部分だけを味わい尽くした、という気もする。最高の部位だけ、贅沢に食べ尽くしたのだ。

 

もちろん、ぼくらの離婚がかなり特殊なケースであることは心得ている。円満離婚だし、二度と顔を合わせたくない、次会ったときは殺すとき、みたいな関係になったわけではない。それだけは、離婚の神様に感謝してもしきれない。

自分で離婚をバンドの解散になぞらえておいて言うのもなんだが、自分たちの「解散」が敬愛するユニコーンの比較的円満な解散に似ていなくもないのではないか?と、謎の誇らしさを感じることもある。

 

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もちろん、ユニコーンみたく「再結成」する気は、ぼくらにはサラサラないけれど。 

 

最後に、ぼくにとっての離婚の数少ないメリットを伝えておきたい。独りぼっちにはなったけど、同時に、誰よりもぼくのことを知る親友が勝手に1人増えたこと。それが何よりもの財産なのだ。

北欧メルヘン殺りく映画『ミッドサマー』が“ホラー映画”でない理由

映画チラシ『ミッドサマー』10枚セット+おまけ最新映画チラシ7枚

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話題の映画『ミッドサマー』を観てきた。すでに公開前からSNS上で話題となっている作品だが、アリ・アスター監督本人が、「ホラー映画でない」と話していたことが、すでに堪能した一部ファンから「どこがやねん(笑)」と、愛情込みのツッコミを浴びていることでも盛り上がっていた。

 

実際、観てみたところ、アスター監督の言っていることは、もってまわった表現でも、監督の特異な感覚を指し示すものでもなんでもなく、まっすぐに「正しい」と感じた。当然、ショッキングな描写はあるものの、『ミッドサマー』はホラー映画ではない。「ホラー映画とは何かというのを考えさせられる映画」だった。どういうことか?

 

フローレンス・ピューが演じる女子大生のダニーは、家族が非業の死を遂げたショックから立ち直れない。そんなとき、恋人のクリスチャンとその仲間たちに誘われ、スウェーデンの山奥の集落“ホルガ”で執り行われる夏至祭を訪れることになる。

 

友好的な「交流」…からの壮絶な儀式へ

現地を訪れ、当初はおっかなびっくりで交流していたダニ―たちも、異文化に対して次第に打ち解けていく。

ところが、慣れてきたところでまず最初のショックシーンが待っている。ダニーたちは、取り返しのつかない、とんでもない光景を「儀式」として目撃することになる。

 

ここから、未鑑賞の人になるべくネタバレを避けて語りたいのだが、ぼくはこのシーンから、未開民族「ヤノマミ」を映した伝説的なNHKのドキュメンタリーを思い出した。

『ミッドサマー』は、いわば未開社会におけるサクリファイスの話だ。自然・神と人間のつながりが信じられている未開社会では、死ぬことは恐れることでも悲しいことでもないとされる。

ところがこれは、人権思想が支配的な文明社会からしたら、到底受け入れられない。れっきとした「殺人」だからだ。

これがホラー映画ならば、実は未開社会側にシリアルキラーや快楽殺人者が潜んでいて…というありふれた筋書きになってくるが、本作にはそれに該当する村民は出ていない。ホルガの人々はみな真っ直ぐな目をして、眼前で起きる光景を受け入れている。彼らに「人を殺す」という意志はない。それは「当たり前」の光景なのだ。だから、本作は「ホラー映画ではない」といえるのだ。

 

本作が描いているのはいわば、未開社会と文明社会の遭遇であって、それを「ホラー」と呼ぶのはあくまでも「こちら側の視点」にすぎない。「あちら側の視点」にあえて寄り添うならば、(これは観た人でないと分からないだろうが)「立ちション」のシーンのほうがよっぽどホラーになるだろう。

クリスチャンと、その友人は文化人類学を専攻し、(おそらく)異文化に対して寛容な姿勢の持ち主たちだ。そんな彼らを恐怖させる異文化、というのが皮肉が効いていてよい。

 

2種類の「死」の描き方

本作が未開社会と文明社会の遭遇を描いているということの証拠の一つは、「死」の描き方だ。

先述したように、ダニーの家族は冒頭で不幸な死を遂げるが、その描かれ方はいかにもホラーチックである。これはダニーが住まう世界での死が、恐ろしく、悲しいものであることを示している。

一方、ホルガでの死の描かれ方はそれとは全く違う。たとえば、先述した「サクリファイス」の撮り方など、まるで食事のシーンを撮っているような平静さを装う。肉片が飛び散り、血しぶきが上がろうと、淡々と当たり前のことが起きているように描かれる。ダニーの家族の死が描かれるシーンとは、まるで正反対だ。

 

文明と文明の「失恋」

アリ・アスターは本作についてて、「ホラー映画ではない」発言とは別に、自身の失恋を描く術として使った、とも語っている。

www.cinemacafe.net

 

たしかに、ダニーとクリスチャンという上手くいっていない倦怠期のカップルをとおして、「失恋」は直接的に描かれているのはうなづけるが、本作ではもう一つの重要な「失恋」が描かれている。

それは、上記のような未開社会と文明社会の「失恋」だ。

本作は、大まかに評すると「他者と分かりあえそうになったところで、信じがたい“相違”を目の当たりにして失望し、再び他者に戻る」という展開が2回繰り返される。

心と心が通じ合い、分かり会えそうと期待した矢先、些細なことで断絶を感じて失望するのは恋愛につきもの。本作は文化と文化の「失恋」とも言えるだろう。

 

 

多くの観客は、ダニ―たち文明社会からの訪問者の側の視点から観るからこそ、本作を「ホラー映画」と断定してしまう。でも本作は「ホラー映画」ではない。本作を「ホラー映画」たらしめているのは、ぼくたちの頭の中にある価値観なのである。

芸能人の不祥事が起きるたび、ぼくがミスチル桜井に感謝する理由

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芸能人が不祥事を犯し、刑罰や社会的制裁を受けるたびに、同時に彼らが出演した作品、奏でた音楽などの「処遇」の扱いまでもが話題に及ぶようになって久しい。

実際、SNS上には「彼の出ている作品はもう見ない」「反吐が出る」などと罵っている声を目撃することは少なくないし、「自粛」の名のもとに作品が配信停止になってしまうのが現状だ。

どんなに素敵な作品を手がけたとしても、人間的に未熟な人はいくらでもいる。作品とその人本人は別物である。多くに批判者の人々はそれを分かっているのだろうが、生理的に無理なのだろう。

 

ぼくはこうした現象を目にするたびに、Mr.Children桜井和寿に感謝するのである。

 

「桜井さんって、不倫してるらしいよ」。

今でも、そのときの光景をありありと思い出せる。場所は中学校の技術教室。中学1年、当時ミスチルファン真っ只中だったぼくは、友達がさりげなく放った情報があまりに唐突で、衝撃的すぎて、持っていたカンナを落としそうになった。あの桜井さんがそんなことをするわけない。当時、チンコの毛も生えそろっていなかった13歳のぼくには、「桜井和寿」という偶像と、「不倫した男」という畜生を重ね合わすことができなかった。

 

あの特徴的な歌声、温和な顔、J-POPの表通りを仁王立ちで突き進むメロディセンス、小林武史風味たっぷりのアレンジ、そしてなにより、ポップでありつつ刺さるメッセージ性を秘めた歌詞。すべてに惹かれていた。ぼくがファンになった97~98年当時はちょうど、活動休止を挟んだこともありメディア露出が減少し始めていた。露出の少なさが渇望を生み、偶像崇拝をさらに加速させた。

 

そんな風に、当時ぼくが神とさえ崇めていた桜井さんが、まさか不倫という、そんな陳腐なことをするはずがない。不倫なんて、チンポコに支配されたバカな男がするものだとばかり思っていた当時のぼくに、それは辛すぎるストーリーだった。

 

その日は部活のソフトテニスの練習も手につかず、気もそぞろで帰宅するや否や、夕飯を作っていた母に問いただした。「桜井さんって、不倫してるの?」。口にしたくもない言葉だったが、「友だちから聞いた噂」という宙ぶらりんのままのほうが、よりいっそう気持ちが悪く、耐えられなかった。ぼくがとったのは、「その手の芸能ゴシップにはめっぽう強い母親に真偽を尋ねる」という行動だった。

 

帰宅したばかりのぼくの問いに、まな板に向かってネギを切っていた母親の包丁を握る手は止まる。美容室の女性誌を読み倒して皇室の真偽不明の怪しい噂まできちんとフォローしているうちの母親は、顔色ひとつ変えもせず「ほうよ? 下積み時代から支えてくれとった奥さん捨てて、若い女に乗り換えたんよ」。コテコテの広島弁で、すでに精神的にフラフラの状態のぼくをさらに追い打ちをかける。

さらに母はこう続けた、「相手はちょっといやらしいグループの…確かギリギリガールズとかいう…」。当時、すでにそのグループは活動しておらず、まだ中学校入りたてだったぼく自身は存在すら知らなかった。そして、今のようにすぐにググるような習慣もない。当時、自宅リビングの隅には、ウインドウズ95を搭載し、インターネットの世界につながっているはずのパーソナルコンピュータが鎮座していたが、そのときはホコリを被って久しかった。 

しかし、いくらぼくがそのグループを知らなくても、ネットで検索するという選択肢がなくても、「ギリギリガールズ」について、以下のことは直感的に分かった。

 

たぶん、とてもとても、浮ついた組織だ…。

 

すべてがガタガタガタと崩壊していく音が聞こえる。もうこの時点で、ぼくの中での聖人君主のアイドル、桜井和寿偶像崇拝は崩壊寸前だった。あんなにいいメロディー、あんないい歌詞を書くことができる桜井さんがいる一方、下積み時代を支えてくれた妻を裏切り、浮ついた組織の女性と逢瀬を重ねるなんて…。ぼくのなかで、桜井さんという人物がよくわからなくなった。一体どれが本当の桜井さんなのだろう。ぼくは何を信じればいいのだろう。

 

そんな心のもやもやを抱えながら、ぼくはその後もMr.Childrenを聴き続けた。『DISCOVERY』のバンドサウンドを聴き込み、続く『Q』ではその音楽性の幅に圧倒されながら、年月は過ぎていった。

DISCOVERY

DISCOVERY

 
Q

Q

 

しかし、その間に、ついに届いてほしくなかった報が届く。桜井さんが前妻と離婚し、不倫相手と再婚した、というのだ。

 

桜井さんが手掛けた曲に聴き惚れれば聴き惚れるほど、「なぜ?」「どうして?」と疑問符が脳内で反響する。どうしてこんなにいい歌詞が書ける人が、いい歌を歌える人が、不倫なんてするのだろう? 妻を捨て、乗り換えることができるのだろう?

尊敬は畏怖へ。10代半ばのぼくの中で、桜井さんという存在は、もはや理解の範疇を超えた、得体のしれないモンスターへと変わっていた。

 

そんなモヤモヤを抱えていた数年後、ある転機が訪れる。

2001年の秋、ミスチルがベスト盤の『Mr.Children 1992-1995』、『Mr.Children 1996-2000』をひっさげ、久々の全国ツアー「Mr.Children CONCERT TOUR POPSAURUS 2001」を開催した。ぼくの地元、広島にもやってきたのだ。

Mr.Children 1992-1995

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Mr.Children 1996-2000

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CONCERT TOUR POP SAURUS 2001 [DVD]

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チンコの毛がようやく生えそろいつつあった16歳、高校1年生のぼくは、友達のミスチルファン仲間とチケットを手に入れ、生ミスチルを参拝する権利を得ていた。

その友達、Nくんは脳みその容量の9割近くをミスチルとK-1、PRIDEにとられてしまっていた底しれぬアホで、案の定、高校は地元の底辺校にかろうじて受かったが、3日で辞めた逸材である。当時、まだ高校になじめなかったぼくのほとんど唯一の友達がこのNであった。

 

そんな彼と、シャトルバスで数時間揺られてたどり着いたのが、会場の備北丘陵公園だった。

 

初めての野外ライブにして、初めての生ミスチル。期待と緊張に体がこわばる。空が紫色に変色したころ、ステージに灯りがともりライブは始まった。サポートメンバー、JENさん、中川さん、田原さんが続々と登場し、そのたびに割れんばかりの拍手がオーディエンスから起きる。そして最後、一番大きな拍手に出迎えられ、満を持してステージに現れたのが桜井さん。ぼくの当時のアイドルにして、不倫をして前の奥さんを捨てた男だ。

 

初めての生ミスチル。期待と興奮を胸に始まったライブは、最高だった。

 

そんな中で、ライブ中盤のMCのときだった。桜井さんは、バックステージの紅葉豊かな景色を話題に出した。そこで次のように言ったのだ。「きれいな小川もあってね。そこでしょんべんもしたんですけど」。 ここで、会場はややウケ。女性ファンの面々からは「もう、やだー(笑)」という、例の全然嫌だとは思っていない、媚態の込められた悲鳴もあがった。隣のNもアホみたいなゲラゲラ笑っていたと記憶している。

 

そんな会場でただ1人、おそらくぼくだけは、桜井さんの「しょんべん」発言で、カミナリに打たれたような衝撃を受けていた。

 

桜井さんが、きれいな小川に向かってチンコを出してしょんべんをする。そのとき、ぼくの中で、いい歌詞、いい歌を歌う桜井さんと、不倫をし、離婚し、再婚し、きれいな小川にしょんべんをする桜井さんがガッチリと結びついたのだった。

 

なんだ、そういうことだったか。

あれも桜井さん、これも桜井さん。人間なにも一面的ではない。多面的なのだ。清濁併せ呑むのが人間であり、美しい作品を描き、演じ、歌い、作る人だって、人を騙すこともあれば、良くない薬を服用することも、そして結ばれてはならない人と結ばれることだってある。もちろん、小川に向かってチンコを出すことだって。

これを読んでいるあなたには、そんなささいなことでか、と思われるかもしれない。たしかに、「小川にしょんべんする」はささいなきっかけかもしれないが、偶然か必然か、そのエピソードがぼくの中で実感として2人の似て非なる桜井和寿を接続させたのだ。

すべては多面的なのだ。ぼくはライブ中、そのことを初めて「実感した」のだ。数年のときを重ねて、そのことを桜井さんからぼくは教えてもらった。

 

カンナみたいにね 命を削ってさ 情熱を灯しては
また光と影を連れて 進むんだ

「終わりなき旅」より

終わりなき旅

終わりなき旅

 

 

それ以来、この歌詞が歌っているのが、桜井さんの自画像にしか思えなくなった。桜井さんは命を削りながら、光と影をあわせ持つ生き様を見せてくれたのだ。

 

だから、人物と作品を分けられない人をみるたびに、16歳のころのぼくを見るように思ってしまう。ぼくは16歳のそのとき以来、誰がどんな不倫をしようが、誰がどんな薬物でトリップしようが、なんのショックも受けない、強靭な精神を手に入れた。芸能人の不祥事を眺めるたびに、ぼくは桜井さんに感謝するほかないのである。

驚がくの全編ワンカット『1917』劇場で“従軍”すべき理由

1917

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サム・メンデスの『1917 命をかけた伝令』を公開初日に観てきた。第一次大戦中、味方の兵士1600人の命を救うため、伝令に飛び出した若いイギリス軍兵士2人を描いた戦争映画だ。

すでに知れ渡っているとおり、本作は全編ざっと2時間あまりを、ワンカットで表現するという驚くべき手法が撮られている。実際のところ、本当にワンカットで撮ったわけえはないのだが、擬似的にそう見せようとしている。

そうした手法的な特異点があるために、観ているときはいつも以上にカメラワークに気をとられてしまうが、なめらかに動くカメラはまるでドキュメンタリー映画のようである。それが完璧に制御されているというのだから、「目には映らない技術」の厚みを感じざるを得ない。

 撮影については下記のインタビューが興味深かった。

theriver.jp

ワンカットがもたらす“従軍”体験

全編ワンカットという手法が鑑賞体験にもたらすもの、それは“従軍”体験だ。

ワンカットということは、観客の時間と、スクリーンの中の若者2人の時間が完全に同期する。かといって、ゲームでいうFPS(一人称視点シューティング)のように、主人公たちの視点から全く外れないわけでもない。ときにカメラから2人ともいなくなる瞬間もある。こうしたカメラワークにより、観客は“3人目”の兵士として、彼らと共に「従軍」しているかのような体験を得ることができるのだ。

それにさらに拍車をかけているのがカメラの高さだ。全編、カメラはほとんどの場面で主人公たちの目線の高さを逸脱しない。「疑似ワンカット」なのだから、どこかでつなぎ目をこしらえてドローン撮影もできたはずだが、本作ではそれをしていない(たぶん)。

 

ここで思い出してほしいのは、レオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント:蘇りし者』で、冒頭、先住民族の襲撃を受けるシーンだ。

iincho.hatenablog.com

あのシーンでも、カメラはレオ様たちと同じ目線を維持する。観客はレオ様と同じ目線を借りることで、どこから飛んでくるか分からない弓矢への恐怖を追体験できたわけだ。それと同じで、本作では「彼らと同じ目線の高さ」を獲得したことで、観客はより精度の高い「従軍」体験をすることができる。

 

ただ一点だけ、ストーリーにひねりがなさすぎる、という点は気がかりで。ワンカットという「形式」を際立たせるためにあえてそうしたのか、「形式」に拘泥しすぎるあまりそうなってしまったのかは定かではない。どちらにせよ、「起きそうなこと」しか起きないのは確かである。

絶対に劇場で観るべきもう一つの理由

それを鑑みても、今年劇場で観ておくべき1本であることに間違いない。

ただ、「劇場で観ておくべき理由」は「劇場ならではの鑑賞体験」だけではない。もし、本作の公開が終わり、しばらくしてVOD配信やレンタルが始まり、家で観るとするだろう。すると我々、誘惑に弱い現代の鑑賞者は確実に映像を一度は止める! スマホを観てしまう! ほかの映画ならまだよい。しかし、本作『1917』についてだけは、「一度も止めずに観る」ことそのものが、作品の“鑑賞要件”にビルトインされている(と、ぼくは勝手に思っている)。一度止めて、ツイッターを確認して、また再生する…みたいなのを繰り返していたら、そもそも観たことにならないのだ。だから「一気観」を強制される劇場が絶対的にオススメだ。

自分の中の「ドキュメンタリー観」のうかつさを恥じ入ってしまう映画『さよならテレビ』の衝撃

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観たのは渋谷・ユーロスペースだったが、観終わったあと、劇場の明かりがついてもしばらく座ったまま考え込んでしまった。誰かと話したいことが山ほど出てくる。いい映画を観終わったあとに襲われる感覚だ。

本作『さよならテレビ』は、2018年に制作された東海地方のローカル局東海テレビのドキュメンタリー番組をもとにした同名の劇場版。同局の報道部の姿を撮影したドキュメンタリー番組である。

sayonara-tv.jp

 

普段はものごとを撮って編集する側が、撮られて編集される側に回る。それが本作の何よりもの特異点で、撮るのは慣れているが、撮られるのは慣れていないテレビマンたちのおっかなびっくりな姿も微笑ましいのだが、当初は多少のフリクションも起こす。観客からみても頼りなさそうで、おぼつかないように見えたドキュメンタリー取材班だったが、観終わった今にしてみれば、その印象すら観客を油断させるための仕掛けだったのかもしれない、とさえ思えていく。それぐらい、細部まで考え抜かれている。

 

本作が切り取る報道部は、多面的な問題を抱えている。視聴率の低迷、それゆえに視聴率優先の「報道」の内容、異常な残業量を抱えながら「労働問題」を報じる矛盾、定型文みたいなことしか言えない司会アナの葛藤などなど…。

 

映画はそれらを、冴え渡る編集技術で整理し、観客にわかりやすく提示していく。本作ではナレーションは全く使われず、テロップさえほとんど使われない。こうした手法は何も新しいことではなく、「ナレーションを使わないことで解釈に幅をもたせ、観客それぞれに考えさせる」という定型的な説明がくっついて回るのだが、本作は違う。

本作はそのさらに上をいき、ナレーションを使っていないにもかかわらず、映像の編集技術によって、意図した場所に観客をスムーズに案内してしまうところだ。観客はまるで、自分が考えてそこにたどり着いた、と錯覚するだろうが、そうではない。知らぬ間に、優れた編集技術のアテンドを受けているのだ。

 

それだけではない。本作は硬軟のバランスが絶妙で、多少重苦しいシリアスなシーンが続きすぎたら、次のシーンはこんなの笑うしかないというシーンを持ってくる。このバランス感覚がすばらしい。この笑えるパートについては、途中からでてくる「とんでもない逸材」のキャラクター性、作品性にもだいぶ助けられていると思うが、彼をどのように使うかというところでも、本作の技術力は疑いようがない。もうここまでくると、冒頭のおぼつかなさはどこへやら、だ。

 

一方で、目の前で繰り広げられていくそうした「ドキュメンタリー」に、ある「違和感」を覚えている自分にも気づく。いやそれは、正しく言えば「『違和感を覚えないこと』への違和感」というのか。あまりにも話が綺麗にまとまりすぎているのだ。本作を観ていると、そうした「ドキュメンタリーならでは淀み」のようなものがない。その事自体への違和感である。

中盤で報道部と、そしてあるアナウンサーが葛藤を抱えることになったある大きな放送上の事故(この話に移ったとき、ぼくはようやく「ああ、あれやっちゃったの東海テレビだったか」と思い出すのだが)が開示されることによって、そのドラマ性は余計に際立つ。言ってはなんだが、本作よりストーリーがつまらないストーリー映画なんていくらでもある。

 

ぼくの感じていた「違和感」が予告していたように、最後の最後に待っているのはある種のどんでん返しである。これ以上言うと確実にネタバレの領域を侵犯してしまいそうなので踏みとどまりたいのだが、最後に一言言わせてもらえば、本作は東海テレビ報道部という題材を選びつつも、「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であった、ということだ。その真意は、ぜひ劇場で確認してもらいたい。

 

ただし、メタ目線(形式)では「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であったとしても、ベタ目線(内容)で「テレビ局、報道部、アナウンサーとしての葛藤」の数々がすべてフィクションだった、とも言い切れない。つまり、終局にたどり着くまでに描かれてきた内容が、「ドキュメンタリーのドキュメンタリー」のための手段で、真っ赤な嘘だった、とはどうしても思えないのだ。

 

では、本作をどうとらえればいいのか。ノンフィクションなのか、それとも、フィクションなのか。あるいは、どこまでが真実でどこまでが脚色なのか。それを考えるための補助線として、この映画を観たあとに読み始めた森達也の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を挙げたい。

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

 

この本を読むまで、森さんについては『A』などの実際の映像作品は観たことがあったが、テレビでたまに観る際には、何が言いたいのかイマイチ分かりにくい、要領を得ない話し方をするオッサンだなあというイメージぐらいしかなかった。そんな森さんにやら本著は、彼のドキュメンタリー作家としてのマニュフェストとして分かりやすくまとめたものになっている。

 

これを読むと、森自身はドキュメンタリーをはなから「ジャーナリズム」とは考えていないことが分かる。

  撮らないことには作品は成立しない。当たり前だ。そしてこの「撮る」という意志と行為が、ドキュメンタリーの本質だ。フィクションかノンフィクションかという明確の区分けは不可能だし、実は意味はない。なぜなら「撮る」という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ。

別の箇所で森は、撮ること自体が対象の人物に変化を与えることであるとも語る。そもそも「中立で公平なドキュメンタリー」などない、と断言している。

森の論の側に立てば、本作について「フィクションなのか、ノンフィクションなのか」と考えることが意味のないことになる。

そしてさらにいえば、「フィクションかノンフィクションか」という二元論を招く本作のいかがわしさは、そのジャンルの起源とともに存在する「ドキュメンタリーの本質」である気がする。そもそも、ドキュメンタリーとは、現実かニセモノかの間で揺れる「いかがわしさ」が醍醐味だった。そして、そのどちらもが正しいのだ。

 

少なくともいえるのは、この映画を観たあと、ぼくらはきっと「ドキュメンタリー」という言葉を、この映画を観る前と同じ手触りで安易に使うことはできなくなるだろう。そして、これまでうかつに使っていた「ドキュメンタリー」という語句を恥じ入りたくなってくる。「ドキュメンタリー」をめぐって、観る前/観た後の世界を変えてしまう。そんな強烈な一撃だ。 

“史上最強”ジェニファー・ロペスが股間も心も直撃! 映画『ハスラーズ』がマブすぎる

ポスター/スチール写真 アクリルフォトスタンド入り A4 パターン 1 ハスラーズ 光沢プリント

 

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ジェニファー・ロペス史上最強のジェニファー・ロペス

ジェニファー・ロペスといえば、90年代後半から2000年代まで「エロくて強え女」の人類代表みたいなところがあるのだが、個人的にはここ十数年ほど鳴りを潜めていた印象は否定できない。

本作『ハスラーズ』は、そんな彼女の「ひさびさのジェニファー・ロペスっぽいジェニファー・ロペス」が拝めると思っていたが、鑑賞してみたところそれどころの騒ぎではなかった。ここに来て史上最強のジェニファー・ロペス、「ジェニファー・ロペスによるジェニファー・ロペスのK点超え」が垣間見られる一作である。

 

↓インスタグラムでは今もバリバリ現役なジェニファー・ロペスくん(←古臭いグラビア風キャプション)

 
 
 
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舞台はニューヨーク、欲望がむき出しになる場所、ストリップ・クラブ。女性ストリッパーたちが主役だ。『クレイジー・リッチ』のコンスタンス・ウーと共にダブル主演を務めるジェニファーの役どころは、クラブのダンサーでリーダー的な位置に立つラモーナだ。

観客の股間と心にファーストインパクトをぶちかますのは、眩すぎるジェニファー・ロペス50歳バージョンである。屋上でほぼ全裸に毛皮というマブすぎる姿でタバコを吹かせたかと思えば、キレキレのTバックで華麗にポールダンスを踊る。

肉体のお手入れやお直しといったものに筆者は詳しくないが、それらが施されていたとしても、まあ御年50には到底みえないパワフルな肉体は見事であるし、カリスマ性にあふれる振る舞いは、多くの観客の心を鷲掴みするだろう。

映画館で見るべき一作であることに間違いないが、さらに付け加えると、この映画に関してはできるだけ前方の座席で鑑賞するのがオススメ。スクリーンを見上げる座席に座れば、ジェニファー演じるラモーナ様の艶めかしいダンスを、まるでステージ下から見上げる観客の目線を追体験できるだろう。客の投げ入れた札束の中で恍惚とした表情もなんともセクシーだ。

 『バーレスク』から『ギャングース』へ

前半はまるでクリスティーナ・アギレラのド派手な歌唱が名物の『バーレスク』のような女性ダンサーの成り上がり譚が描かれるが、中盤に差し掛かるところでムードが一転。本作、前半のお気楽イケイケのムードから、中盤のシリアス展開、クライマックスの泣ける展開まで、絶妙な配合なのもミソである。

バーレスク [Blu-ray]

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2008年に世界を襲った金融危機は、当然ストリップ業界にも暗い影を落とす。一度は低賃金の昼の仕事に転職してやりくりしていたデスティニーやラモーナだったが、結局は上手くいかず。覚悟を持ってストリッパーに復帰するが、ストリップ業界も閑古鳥だった。

そこで、彼女たちは取り返しのつかない、ヤバい方法に手を染めていく。不況で私達はこんなに苦労しているのに、なんでウォール街の男たちはあんなに涼しい顔しているんだ。あいつらがちょっとぐらい酷い目にあっても困らないはず…。格差が拡大していく社会の中で、ビンボー人たちが富裕層を狙った犯罪に手を染めていってしまう、という構図では、最近紹介した『ギャングース』に構図は似ている。

 

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『パラサイト』と共鳴する瞬間

興味深いのは、デスティニーがインタビュアーに明かす夢の話だ。夢の中で彼女は気がつくと車の後部座席にいるが、走行中なのに車の運転席には誰も乗っていない。慌てて、自分で乗り出してハンドルを握ろうとするが、車を上手く操れないという。

貧困者の人生が「アンコントロール」であることを暗示するこの夢は、奇しくも、先月から公開され、ヒット中の映画『パラサイト 半地下の家族』とも共鳴する。

【映画パンフレット】パラサイト 半地下の家族 PARASITE

ソン・ガンホ演じる貧困一家の父親は「息子よ、何か“計画”があるのか」と尋ねるが、肝心のときになって全く逆のことを言う。「一番失敗しない計画は何か。それは計画しないことだ」。人生設計など最初からやっても無駄だ、という貧困者の諦念を描いたシーンだ。「貧困とはなにか」という点について、『ハスラーズ』と『パラサイト』は同意が取れている。それは、「貧困とは、自分の人生が自分でコントロールできない事態」ということである。

「私たち、最強だったよね」

カクカクシカジカがあった後、やはり計画は頓挫し、主人公たちは挫折と痛手を負う。心身ともにボロボロになったあと、ジェニファーがウーを抱擁しながら、こう確認する――私たち、最強だったよね。お前ら「EGG」ガールかよとスクリーンの向こうにツッコみたくなりながらも、目頭が熱くなってくるのはなぜか。

 

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そこには、明確な悪事ではあるが、男性社会に一泡吹かせてやった彼女たちにどこか痛快な気分で共感してしまうところがあるからだろう。

何もかもが失われたあとでも、友情だけは残る。それは誰にも奪えなかった。それだけに、それだからこそ、もし2人が生まれや境遇に恵まれていたら、そして、もっと早く出会っていたら、結末は変わっていたのに。そう思わざるを得ないやるせなさとともに、映画は幕を閉じる。

 

ジェニファー・ロペスにメロメロにされ、ジェニファー・ロペスに泣かされる。彼女が多面的な魅力を放つ快作だ。

まるでドキュメンタリーの緊張感 “異端であり正統”な震災映画『風の電話』

映画ノベライズ『風の電話』 (朝日文庫)

東日本大震災からもうすぐ9年が経とうとしているが、先週公開された『風の電話』は、異色の「震災映画」だ。

 

3.11で家族を失った女子高生・ハルが、叔母と暮らす広島・呉から、故郷の岩手・大槌までをヒッチハイクして帰るロードムービーである。道中でさまざまな人たちと出会い、ハルは、失っていた生きる意味を取り戻す。

 

印象的なのは、全編にまるでドキュメンタリーのような生の雰囲気が漂っていることだ。それもそのはず、メガホンをとった諏訪監督は「即興演出」という手法の使い手だそうで、ぼくは監督の映画は初体験だったが、基本的には台本がない、現場で即興で作られていく絵作りは、息を呑むような雰囲気を演出し、観客に、演者の言葉を1つも聞き逃せない緊張感を与える。

 

当然、演者にも負荷がかかり、力量が試されるこの手法だが、本作において特にインパクトがあるのは、震災で多大な被害を受けた福島出身の西田敏行。西田が演じているのは、福島に住む男性なのだが、軽妙に東北弁を操り、福島の扱いへの不満を述べる姿を見ていると、まるでそれは西田敏行なのか、西田が演じている男なのかがよく分からなくなってくる。

西田と同様にインパクトがあるのは、ハルと西島秀俊演じる元原発作業員が訪れる在日クルド人宅のシーン。出演しているのは、実在のクルド人の人々で、日本での苦労をとうとうと語る姿はドキュメンタリーのよう…ではなく、そこは本当にドキュメンタリーなのである。

また、こうした無茶な(?)な演出方法に柔軟に対応し、ヒロイン・ハルに息を吹き込むモトーラ世理奈のポテンシャルの高さにも舌を巻く。特にハルが、突然いなくなった家族と、家族を突然奪っていった津波に対して放つ怒りの咆哮は圧巻の一言で、痺れてしまった。

 
 
 
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フィクションとドキュメンタリー、本来交わらない2つのジャンルの間を架橋する本作。そうしたスタイルは、題材にも非常に合っている。そう思う理由は2つある。

1つ目は、これがロードムービーというジャンルであるためだ。ハルは道中、いろいろな場所に「寄り道」する。中でも、前述したような在日クルド人を尋ねるシーンは、本筋からかなり逸れ、すんなりとは飲み込みづらい。「俺は何を見せさせられているんだ」という気になってくるのだが、その「迷走」は、本作のドキュメンタリー性の部分を際さたせているし、いきあたりばったりの旅ってそういうものじゃんと思えてきて、かえってリアルである。

さらにもう1つ、本作が扱っている根底に、3.11という圧倒的な現実を扱っていることが大きい。

以前、園子温古谷実の『ヒミズ』を映画化した。その際、原作にはない震災を描写した件について、「仕方ないよね。あれだけ大きなことがあったんだから」と妙に納得してしまった記憶がある。

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そんな風に、震災は良くも悪くもクリエイティブにさえ多大な影響を与えた外傷的経験であり、それをまっさらな「フィクション」として人工的に再構築する方が不自然な行為に思えてくる。

フィクションであろうと、演者の姿の記録(ドキュメンタリー)なのだ。本作のメインキャストは、22歳のモトーラを含め、全員が大なり小なり震災を「経験」している。本作が、演者の身体に依拠する多大に「即興演出」という手段を通して「震災」を描くのは、アクロバティックなようでいて、実は正統な手段の気さえしてくる。

 

何はともあれ、今日は映画ファンが月で一番好きな1日、ファーストデーである。どれか1作観ておこうと思っていたとして、本作が候補にも入っていないとしたら、それはあまりにも惜しいことだ。