いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

北欧メルヘン殺りく映画『ミッドサマー』が“ホラー映画”でない理由

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話題の映画『ミッドサマー』を観てきた。すでに公開前からSNS上で話題となっている作品だが、アリ・アスター監督本人が、「ホラー映画でない」と話していたことが、すでに堪能した一部ファンから「どこがやねん(笑)」と、愛情込みのツッコミを浴びていることでも盛り上がっていた。

 

実際、観てみたところ、アスター監督の言っていることは、もってまわった表現でも、監督の特異な感覚を指し示すものでもなんでもなく、まっすぐに「正しい」と感じた。当然、ショッキングな描写はあるものの、『ミッドサマー』はホラー映画ではない。「ホラー映画とは何かというのを考えさせられる映画」だった。どういうことか?

 

フローレンス・ピューが演じる女子大生のダニーは、家族が非業の死を遂げたショックから立ち直れない。そんなとき、恋人のクリスチャンとその仲間たちに誘われ、スウェーデンの山奥の集落“ホルガ”で執り行われる夏至祭を訪れることになる。

 

友好的な「交流」…からの壮絶な儀式へ

現地を訪れ、当初はおっかなびっくりで交流していたダニ―たちも、異文化に対して次第に打ち解けていく。

ところが、慣れてきたところでまず最初のショックシーンが待っている。ダニーたちは、取り返しのつかない、とんでもない光景を「儀式」として目撃することになる。

 

ここから、未鑑賞の人になるべくネタバレを避けて語りたいのだが、ぼくはこのシーンから、未開民族「ヤノマミ」を映した伝説的なNHKのドキュメンタリーを思い出した。

『ミッドサマー』は、いわば未開社会におけるサクリファイスの話だ。自然・神と人間のつながりが信じられている未開社会では、死ぬことは恐れることでも悲しいことでもないとされる。

ところがこれは、人権思想が支配的な文明社会からしたら、到底受け入れられない。れっきとした「殺人」だからだ。

これがホラー映画ならば、実は未開社会側にシリアルキラーや快楽殺人者が潜んでいて…というありふれた筋書きになってくるが、本作にはそれに該当する村民は出ていない。ホルガの人々はみな真っ直ぐな目をして、眼前で起きる光景を受け入れている。彼らに「人を殺す」という意志はない。それは「当たり前」の光景なのだ。だから、本作は「ホラー映画ではない」といえるのだ。

 

本作が描いているのはいわば、未開社会と文明社会の遭遇であって、それを「ホラー」と呼ぶのはあくまでも「こちら側の視点」にすぎない。「あちら側の視点」にあえて寄り添うならば、(これは観た人でないと分からないだろうが)「立ちション」のシーンのほうがよっぽどホラーになるだろう。

クリスチャンと、その友人は文化人類学を専攻し、(おそらく)異文化に対して寛容な姿勢の持ち主たちだ。そんな彼らを恐怖させる異文化、というのが皮肉が効いていてよい。

 

2種類の「死」の描き方

本作が未開社会と文明社会の遭遇を描いているということの証拠の一つは、「死」の描き方だ。

先述したように、ダニーの家族は冒頭で不幸な死を遂げるが、その描かれ方はいかにもホラーチックである。これはダニーが住まう世界での死が、恐ろしく、悲しいものであることを示している。

一方、ホルガでの死の描かれ方はそれとは全く違う。たとえば、先述した「サクリファイス」の撮り方など、まるで食事のシーンを撮っているような平静さを装う。肉片が飛び散り、血しぶきが上がろうと、淡々と当たり前のことが起きているように描かれる。ダニーの家族の死が描かれるシーンとは、まるで正反対だ。

 

文明と文明の「失恋」

アリ・アスターは本作についてて、「ホラー映画ではない」発言とは別に、自身の失恋を描く術として使った、とも語っている。

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たしかに、ダニーとクリスチャンという上手くいっていない倦怠期のカップルをとおして、「失恋」は直接的に描かれているのはうなづけるが、本作ではもう一つの重要な「失恋」が描かれている。

それは、上記のような未開社会と文明社会の「失恋」だ。

本作は、大まかに評すると「他者と分かりあえそうになったところで、信じがたい“相違”を目の当たりにして失望し、再び他者に戻る」という展開が2回繰り返される。

心と心が通じ合い、分かり会えそうと期待した矢先、些細なことで断絶を感じて失望するのは恋愛につきもの。本作は文化と文化の「失恋」とも言えるだろう。

 

 

多くの観客は、ダニ―たち文明社会からの訪問者の側の視点から観るからこそ、本作を「ホラー映画」と断定してしまう。でも本作は「ホラー映画」ではない。本作を「ホラー映画」たらしめているのは、ぼくたちの頭の中にある価値観なのである。