観たのは渋谷・ユーロスペースだったが、観終わったあと、劇場の明かりがついてもしばらく座ったまま考え込んでしまった。誰かと話したいことが山ほど出てくる。いい映画を観終わったあとに襲われる感覚だ。
本作『さよならテレビ』は、2018年に制作された東海地方のローカル局・東海テレビのドキュメンタリー番組をもとにした同名の劇場版。同局の報道部の姿を撮影したドキュメンタリー番組である。
普段はものごとを撮って編集する側が、撮られて編集される側に回る。それが本作の何よりもの特異点で、撮るのは慣れているが、撮られるのは慣れていないテレビマンたちのおっかなびっくりな姿も微笑ましいのだが、当初は多少のフリクションも起こす。観客からみても頼りなさそうで、おぼつかないように見えたドキュメンタリー取材班だったが、観終わった今にしてみれば、その印象すら観客を油断させるための仕掛けだったのかもしれない、とさえ思えていく。それぐらい、細部まで考え抜かれている。
本作が切り取る報道部は、多面的な問題を抱えている。視聴率の低迷、それゆえに視聴率優先の「報道」の内容、異常な残業量を抱えながら「労働問題」を報じる矛盾、定型文みたいなことしか言えない司会アナの葛藤などなど…。
映画はそれらを、冴え渡る編集技術で整理し、観客にわかりやすく提示していく。本作ではナレーションは全く使われず、テロップさえほとんど使われない。こうした手法は何も新しいことではなく、「ナレーションを使わないことで解釈に幅をもたせ、観客それぞれに考えさせる」という定型的な説明がくっついて回るのだが、本作は違う。
本作はそのさらに上をいき、ナレーションを使っていないにもかかわらず、映像の編集技術によって、意図した場所に観客をスムーズに案内してしまうところだ。観客はまるで、自分が考えてそこにたどり着いた、と錯覚するだろうが、そうではない。知らぬ間に、優れた編集技術のアテンドを受けているのだ。
それだけではない。本作は硬軟のバランスが絶妙で、多少重苦しいシリアスなシーンが続きすぎたら、次のシーンはこんなの笑うしかないというシーンを持ってくる。このバランス感覚がすばらしい。この笑えるパートについては、途中からでてくる「とんでもない逸材」のキャラクター性、作品性にもだいぶ助けられていると思うが、彼をどのように使うかというところでも、本作の技術力は疑いようがない。もうここまでくると、冒頭のおぼつかなさはどこへやら、だ。
一方で、目の前で繰り広げられていくそうした「ドキュメンタリー」に、ある「違和感」を覚えている自分にも気づく。いやそれは、正しく言えば「『違和感を覚えないこと』への違和感」というのか。あまりにも話が綺麗にまとまりすぎているのだ。本作を観ていると、そうした「ドキュメンタリーならでは淀み」のようなものがない。その事自体への違和感である。
中盤で報道部と、そしてあるアナウンサーが葛藤を抱えることになったある大きな放送上の事故(この話に移ったとき、ぼくはようやく「ああ、あれやっちゃったの東海テレビだったか」と思い出すのだが)が開示されることによって、そのドラマ性は余計に際立つ。言ってはなんだが、本作よりストーリーがつまらないストーリー映画なんていくらでもある。
ぼくの感じていた「違和感」が予告していたように、最後の最後に待っているのはある種のどんでん返しである。これ以上言うと確実にネタバレの領域を侵犯してしまいそうなので踏みとどまりたいのだが、最後に一言言わせてもらえば、本作は東海テレビ報道部という題材を選びつつも、「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であった、ということだ。その真意は、ぜひ劇場で確認してもらいたい。
ただし、メタ目線(形式)では「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であったとしても、ベタ目線(内容)で「テレビ局、報道部、アナウンサーとしての葛藤」の数々がすべてフィクションだった、とも言い切れない。つまり、終局にたどり着くまでに描かれてきた内容が、「ドキュメンタリーのドキュメンタリー」のための手段で、真っ赤な嘘だった、とはどうしても思えないのだ。
では、本作をどうとらえればいいのか。ノンフィクションなのか、それとも、フィクションなのか。あるいは、どこまでが真実でどこまでが脚色なのか。それを考えるための補助線として、この映画を観たあとに読み始めた森達也の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を挙げたい。
この本を読むまで、森さんについては『A』などの実際の映像作品は観たことがあったが、テレビでたまに観る際には、何が言いたいのかイマイチ分かりにくい、要領を得ない話し方をするオッサンだなあというイメージぐらいしかなかった。そんな森さんにやら本著は、彼のドキュメンタリー作家としてのマニュフェストとして分かりやすくまとめたものになっている。
これを読むと、森自身はドキュメンタリーをはなから「ジャーナリズム」とは考えていないことが分かる。
撮らないことには作品は成立しない。当たり前だ。そしてこの「撮る」という意志と行為が、ドキュメンタリーの本質だ。フィクションかノンフィクションかという明確の区分けは不可能だし、実は意味はない。なぜなら「撮る」という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ。
別の箇所で森は、撮ること自体が対象の人物に変化を与えることであるとも語る。そもそも「中立で公平なドキュメンタリー」などない、と断言している。
森の論の側に立てば、本作について「フィクションなのか、ノンフィクションなのか」と考えることが意味のないことになる。
そしてさらにいえば、「フィクションかノンフィクションか」という二元論を招く本作のいかがわしさは、そのジャンルの起源とともに存在する「ドキュメンタリーの本質」である気がする。そもそも、ドキュメンタリーとは、現実かニセモノかの間で揺れる「いかがわしさ」が醍醐味だった。そして、そのどちらもが正しいのだ。
少なくともいえるのは、この映画を観たあと、ぼくらはきっと「ドキュメンタリー」という言葉を、この映画を観る前と同じ手触りで安易に使うことはできなくなるだろう。そして、これまでうかつに使っていた「ドキュメンタリー」という語句を恥じ入りたくなってくる。「ドキュメンタリー」をめぐって、観る前/観た後の世界を変えてしまう。そんな強烈な一撃だ。