いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ロッククライマー映画だと思ったら激アツ“バディ・ムービー”『ドーンウォール』

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The Dawn Wall [Blu-ray]

ロッククライマーといえば、

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これとか、

 

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これのイメージしかないド素人で、トミー・コールドウェルのトの字も知らない人間だったが、何の気なしに見た彼のドキュメンタリー映画『ドーンウォール』が凄まじかったので紹介したい。

 

本作は彼がロッククライミングの聖地という、米ヨセミテ国立公園のエル・キャピタンという巨大な岩のドーンウォールというルート制覇のプロセスを追う作品だ。

難しい説明をすっ飛ばすと、ドーンウォールとは、頂上への数あるルートの中でも、一番困難で、誰も登ったことがない文字通り「前人未到」のルートだ。

 

この時点でふむふむなるほど、と思うのだが、やはりド素人としてまずやられるのは数百メートルの絶壁に体一つで張り付いている様だ。一度だけ、寄せばいいのにボルダリングに挑戦し、次の日手の握力を失った身からしたら、あれがどれだけすごいのかが分かる。指と腕の筋肉どうなんてんの? という感じ。リアルスパイダーマン

 

そして、高所恐怖症の人でもそうでない人でも卒倒するであろう、絶壁での野営は背筋が寒くなる。あのテントを考えて、初めて使った人、コンタクトレンズを初めて使った人と同じぐらい尊敬したい。

 

てな感じで、気合いと根性のロッククライミング映画…かと思えば、看板に少々偽りありだ。

 

そもそも、このトミーコールドウェルという人。これまでの人生までが壮絶である。本作はその人生も寄り道して紹介してくれる。

 

まず、10代のころにクライミングで訪れたキルギスにて、友人(のちの奥さんも含め)らとともに、地元の反政府ゲリラに拉致られてしまう。トミーはそこで、その一人を崖から突き落として殺し、友人たちと共に難を逃れる。

さらに、帰国後の彼を悲劇が襲う。チェーンソーで誤って指を切り落としてしまう! クライマーにとって大事な指を! しかも一番使いそうな人差し指を! クライミングを諦めかねないような事故だが、彼は壮絶な特訓を経て、「左手人差し指のないクライマー」として復活を果たす。

さらにさらに、神は彼に試練を与える。妻が他に好きな人ができた、として、離婚を言い渡されてしまう!

 

・反政府ゲリラに拉致される

・指を切り落とす

・離婚する

 

どうだろう。一般的に、人生でどれか一つでもごめんだわ、という試練が、この人の人生一周に全部降り掛かってきているのである。なかなかではないか。ちなみに、筆者もこのうちのどれか一つを体験しているが、それがどれなのかは想像に任せよう。

 

ちなみに、トミーは今回の挑戦の下準備や練習をしている最中は「離婚のことを忘れられた」といっている。分かる分かる。離婚って、精神的に来るよな…。

 

そんなこんなで、数年の下準備と練習を経て、ついにエル・キャピタン、ドーンウォールへ!

 

ここからは、高所恐怖症の人なら泡吹いて倒れるような映像がずーっと続く。

観ていると最初は、高所がそんなに怖くない自分でも「高いところ、怖い…」という4ビットの感想しかでてこないのだが、画面の中の人々がそんな事言わないもんだから、次第に「超高いところへの恐れ」は薄れ、出演者らの飽くなき挑戦そのものに気持ちが集中していく。

 

難しいながらも、順調に登り進めていたトミーと、彼が挑戦のパートナーに選んだケビン・ジョージソン。

 

和気あいあいと上り進めていた2人だったが、ピット15と名付けた難所にて、事態は急変。激アツのバディ・ムービーにシフトチェンジする。

 

それまでの上への動きから一転し、横移動するピット15。トミーはこの難関を何度目かの挑戦でなんとかクリアする。

以下が、実際にトミーがピット15をクリアする映像。

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しかし、ケビンはなかなかクリアできない。彼はもともと、ボルダリングが専門(ロッククライミングとは少し勝手が違うらしい)トミーに同行を志願。トミーとケビンは、いわば師匠と弟子みたいな関係だ。

 

それまで、交互にピット(全部で32個ある)をクリアしていた2人だが、ピット15をクリアし、次々と先をいくトミーと、ピット15でつかえ、先に進めないケビンとの間に距離ができてしまう。

すでにボロボロで、血がにじんでいる指。ケビンは一日挑戦を休み、回復につとめ、再度挑戦してもやはり途中で失敗してしまう。

 

「ケビンには無理だ。ここからはトミーだけでてっぺんを目指せばいいのに…」そんな風に関係者の誰もが思った。ケビン自身も、ここで挑戦を諦め、以降はトミーのサポートに回ると言い出す。

 

しかし、トミーはケビンがピット15をクリアするまで待つ、と決断する。

「僕が一人で完走するより、どんなに最悪な状況でも2人で完走したい」。

 

熱い…熱すぎるぜ、トミー。

 

ケビンはトミーに見守られる中、ついにピット15をクリア。そして、2人は前人未到のルート、ドーンウォールを制覇するのであった。

挑戦が開始した19日前には、岩のふもとにはモノ好きな地元の写真家ぐらいしかいなかった。しかし、挑戦に成功したその日、ふもとには多くのファンがかけつけ、全米中が彼らの成功を祝福した。

 

ドキュメンタリーのはずだが、特に後半起きるドラマの起伏はフィクションではないかと疑いたくなるほど。言葉少なだが、お互いを思っているトミーとケビンの関係性がたまらない。そんじょそこらのバディ・ムービーでは叶わないだろう。

おかしい。「ロッククライミングのドキュメンタリー」を観始めたはずなのに、観終わってみたら「バディ・ムービーの快作」だった。

映画鑑賞をだらだら何年も続けていると、たまにこういう不思議な、でも最高な体験ができるのである。

ポカリのCMが憎い

ポカリスエットのCMが新しくなった。
これが、外出自粛期間でただでさえテレビをつけっぱなしにしていることが多くなったぼくにとって悩みの種なのだ。このCMがテレビから不意に流れ出すと動機が高鳴り、全身の毛という毛が逆立っているのが自分でも分かる。完全に野生の動物が外敵と遭遇したときの臨戦態勢である。要するに、嫌いである。憎しみすら感じる。まあ、見てほしい。

 

 

中高生(おそらく高校生)の男女が、リモートワークさながらに、それぞれの自宅(らしき場所)で別々に歌を歌う姿を自撮りしている。一人ひとりは個別に歌っているのだが、音声と映像を合わせることで、それは合唱となっていく。最後は全員が一斉に青い空にカメラを向けたところで、CMは終わる。

この空はポカリスエットのブルーを模していると同時に、「離れ離れでも同じ空の下、ぼくら、私たちはつながっているよ」と言いたげなようだ。

 一説によると、今回の外出自粛の状況の中で、急きょ内容を変更して、このような内容にしたという。まさにピンチをチャンスに変える機転の利かせ方であり、見事としか言いようがない。

しかし、そうしたプロセスとは別問題で、できあがったものが悲しいかな「嫌い」であることも成り立つのであり、以下の文章について、もしもCM関係者の目に入ったとしても、悲しまないでほしい。別にあなたは全く悪くないし、これはぼく個人の完全な逆恨みである、というフォローはしておく。


なぜぼくはこのCMが嫌いなのか。その理由を自己分析していくと、「若い男女が楽しげにキャッキャしていること」自体に対する本源的な嫌悪感に加えて、自分の中学時代の個人的な記憶に遡る。

ぼくの中学時代にも文化祭というものがあった。ご多分に漏れず、そうした学校行事を取り仕切るのは、クラスのイケてる男子、イケてる女子ら、クラスの中心人物たちである。彼らとは生きる世界が違う、リアルすみっこぐらしのぼくのような人間は、彼らが勝手にいろいろ決めていき、降りてきたものを、「あ、これやって」と言われて、「あ、はい」と返事し、粛々と進める奴隷のような身分であった。

いわゆるスクールカーストというやつで、それ自体が唾棄すべきクソ文化であることに異論はないが、まだ中学時代であり、この手のカースト迫害者の思い出など、五万とあるだろう。俺が大人になった時にお前らに復讐してやると闘志だけはたぎらせていたが、同時に、まだ未熟な中学生のやることである、と変に大人じみた納得感もあった。

しかし、なによりもむかっ腹が立ったのは、その文化祭のテーマが「絆」だったことである。正確には、ぼくが2年生のときが「絆」で、3年生のときが「絆~ともに生きる~」だった。何を気に入ったのか、翌年にサブタイトルを追加してきやがった。今でもそんなことを覚えているのは、相当憎しみがあったからだろう。

どうだろうこの偽善的なコピーは。普段はまるで物語の背景のように扱う側、扱われる側の間柄である。にも関わらず、大人の注目を集める晴れの舞台では、やれ「絆」だのやれ「ともに生きる」だの「共生」をのたまうのである。その欺瞞性が、ぼくは許せなかったのである。

いけしゃあしゃあとよくもまあそんな友達ごっこができるな? とむかっ腹がたったのである。普段の他者の(すなわちぼく)の扱い方以上に、自分たちのその「罪」に向き合わない彼らの「無知の罪」に腹がたったのである。

別にぼくは、「絆」の中に入れてほしかったわけではない。肝心なときに「絆」の中に組み込まないでほしい、それだけなのだ。

ポカリのCMに戻る。ここまで書いてみて気づいたが、自分の主張は、ポカリのCMとそれを作った人々には何の関係もない。ほとんど言いがかりに近いものだろう。

しかし、ぼくは切に願う。あのCMから嗅ぎ取ってしまった「離れていても、みんなの心と心は一緒だよ」という大変おめでたいメッセージの「みんな」の中に、頼むから「ぼく」は含めないでほしい、と。そして、CMの最後に出てくる青空。空と空がつながっていると思いがちであるが、実は違う。いつまでたっても、どんなにがんばっても「つながらない空」があるのである。

そういうことを書いていたら、今の外出自粛の状況下でも、毎日のように嫌な言葉に出くわす。「一丸となって」とか、「みんなで協力して」と、少し前にはスポーツ競技にかこつけて「ONE TEAM」なんてていうのも流行った。どうやら、普段は赤の他人であるのに、急場になって「絆」「みんな」「一丸」などとのたまうのは、子どもも大人も変らない。内実は、「自粛を要請する」という語義矛盾の一億総圧力である。

日本を「和の国」と評する向きがあるのだが、これもとても欺瞞的な言い方だ。その和の内実は、弱い者が泣き寝入りさせられている、それだけなのである。それは、「絆」でつながっていないのに、「絆」の神輿を担がされた中学時代のぼくと同じだ。

別にぼくは、「絆」の中に入れてほしかったわけではない。都合のいいときにだけ「絆」の中に組み込まないでほしい、それだけなのだ。

【ほとんど『ザ・ノンフィクション』】荒れに荒れまくる『テラハ』最新回が暴いてしまったベール

動画配信サービス「Netflix」で配信中の人気リアリティーショーシリーズの最新シリーズ『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』が、急激に面白くなっているとぼくの中で話題だ。

普段は熱心な視聴者でなく、飛び飛びで観ているのだけど、先週配信された回は配信直後からSNS上で「一人で見ないほうがよい」「こんなの見たくなかった」といった不穏な感想が飛び交っており、気になったので中断したところから最新話までイッキ観した。

 

面白かった、とは軽々しく言えないようなガツンとくる衝撃映像だった。

テラスハウス』(以下『テラハ』)そのものは説明不要だろう。都会のおしゃれな若い男女6人がおしゃれなシェアハウスで共同生活し、恋だとか夢だとかに花咲かせながらわーわーやっているチャラいコンテンツである。

 

そんな『テラハ』最新回、第38話では女子プロレスラーの花が、スタンダップコメディアンを志す青年・快にブチギレてしまう。

そのブチギレぐあいが、もはやプロレスというよりガチ、かなりドキュメントであり、ほかメンバーのドン引きぐあいも含めて『テラスハウス』というフォーマットを一瞬だけ超えて社会派ドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』に接近してしまった。

だから、ぼくのようなライト層が「おお、面白いドキュメンタリーやんけ」と目を輝かせる一方で、旧来の『テラスハウス』のコアファンほど「こんな『テラハ』観たくなかった」と落ち込んでいるようである。実際、『テラハ』をこれまで見届けてきた友人に聞いても、かつてここまで荒れたことはなかったとのこと。

 

とりあえず、先に本編を見ておいてほしい。オススメは、快と花の事件前の関係性を味わえるという意味で、第36話からだが、時間がないという人は、第37回からでも問題ないだろう。

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怒りの原因は些細なことだ。きっかけは、些細な共同生活上のトラブルである。


しかし、そこまでのプロセスを知っていたら、このトラブルはトリガーにすぎないことが分かってくる。

では、何が原因だとするならば、ぼくは「経済問題」だと感じた。

 

第37話では、快と花を含むメンバー男女2対2で京都旅行に出かける模様が描かれる。

快くんはお金がないため、一度は旅行自体を辞退しようとしたが、結局、もうひとりの男に交通費・旅費をほぼ丸々だしてもらう形で行くことになる。

ところが、旅行先ではノリが悪い、お金を出してもらっているのに感謝の気持ちが見えない、といった理由から、快くんはせっかく男女の恋仲として上手くいきかけていた花ちゃんの機嫌を損ねてしまう。

発端となった京都旅行↓

 

ここから、雪だるま式に花の中で、快へのヘイトが溜まっていったように思える。そして、ついに先述したようなブチギレ事件に発展する。

 

今回の顛末を見て、ぼくは思ったね。カール・マルクスの言っていたことは正しかったよ。

マルクスは上部構造に先立って下部構造があると言っていた。下部構造とは「経済」のことであり、その上に「政治や宗教」といった経済以外の社会の営みが上部構造として建てられる。 下があっての上であり、その逆ではない。 つまり「社会の一番の基礎は経済である」というのだ。これがいわゆる、マルクスの「唯物史観」だ。

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経済学批判 (岩波文庫 白 125-0)

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これは社会の構造ととらえることもできるが、一人の人間としてもとらえることが可能ではないだろうか。

快くんはスタンダップコメディアンとして食べていけるほど成功していない。おそらくアルバイトもほとんどしていない。一言で言えばボンビーメンで、土台、ほかのメンバーと共に京都旅行を楽しめるような状態ではなかった。連れ(しかも、知り合ってそんなに経っていない)にほぼ全額を出してもらって行く旅行なんて、乗り気になれるはずがない。意中の女性が一緒ならば、なおさらだ。

経済という安定してなければ、心にゆとりはなくなるし、卑屈にもなってしまう。下部構造(経済状況)が、上部構造(気分、性格)を決めてしまっているのだ。

 

快くんが取るべき最善の策は、やはり旅行をキャンセルすることだった。それができないならば、旅先で徹底的に道化、幇間(場の盛り上げ役)を買ってでるべきだったのだが、彼の朴とつとしたキャラクターからしてそれは難しかったのだろう。結果、やはり旅行をキャンセルするのが一番だったのではないだろうか。もはや後の祭りだが。

 

貧困であり、徐々にほかのメンバー(特に女性陣)と精神的に距離が開いていってしまっている状況が、観ていて本当に痛々しい。最近、長かった髪を切り、敗戦間際の日本兵のようになってしまったビジュアルも悲壮感に拍車をかける。

 

道化、といえば、最新回では壊れてしまった(?)快くんのステージも一つのハイライトだ。

まるで上手くいかなかった京都旅行(そして、帰宅後に同居人ビビに鬼詰めされる)ショックが冷めやらない中、舞台上で失語症のように立ち尽くしてしまい、最後は狂ったように高笑いする。観劇に来ていた『テラハ』男性メンバー2人も固まる圧巻のステージングである。

貧困と孤立のスタンダップコメディアン。この組み合わせでホアキン・フェニックスの怪演が光る昨年の映画『ジョーカー』を思い出した人も少なかったようだ。

 

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Twitterで「快 ジョーカー」で検索すると…

 

『テラハ』の上部構造は「恋、夢、おしゃれ」であるが、そんな『テラハ』にも普段は隠れている下部構造として当然ながら「経済」が横たわっている。今回の京都旅行~花ブチギレ事件のプロセスは、今まで「恋、夢、おしゃれ」のベールに隠されていた「経済」の重要性を見事なまでに暴いてしまったのではないだろうか。

 

そして、このことはわれわれ傍観者たちにも「教訓」として返ってくる。もしも、目の前の恋に臆病になっているとすれば、それは自分の経済状態のせいではないか? 経済状態を安定させてから、恋に踏み出してもいいのではないか? 裏返せば、もしも経済的に安定してないなかでも、目の前の恋に全力投球できるという逸材がいたとしたら、その人はヒモとしての才能を有しているのかもしれない。

 

どちらにせよ、今夜24時に最新話が配信される。今から楽しみでしかたないのである。

“反”道徳と“非”道徳が激突し、後には何も残さない…暴力映画『ハングマンズ・ノット』の潔さ

ハングマンズ・ノット

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ここ最近のコロナの影響で、家にこもりがちとなり、ますますNetflixアマゾンプライム・ビデオへの依存が加速しているのだが、今回は掘り出し物の一作を紹介したい。

 

京都芸術大学在学中に阪元裕吾監督が撮った本作『ハングマンズ・ノット 』は、カナザワ映画祭2017「期待の新人監督」グランプリ受賞、インディペンデント・スピリットに溢れたバイオレンス・ムービーだ。

 

本来、舞妓とお寺が専売特許のはずの京都を舞台に描かれるのは、2つの暴力の世界だ。

松本卓也演じる影山アキラと、安田ユウが演じるその兄・影山シノブの兄弟が支配するのは、目を覆いたくなるような非道な性と暴力の世界。

そこには慈悲はない。幸せそうなカップルは、ほんのささいな理由で彼女が犯され、彼氏は金属バットでボコボコにされる。帰宅途中の何の罪もない女子高生は、ワゴンで拉致られてクズリ漬けにされた挙句に輪姦される。当然のように、河原のホームレスの家が焼き討ちにあう。

 

対するのは、吉井健吾演じる大学生の柴田さん。柴田さんは群れない。いや、そんなにかっこいいものではない。他者とのコミュニケーションに難がある孤高のコミュ障だ。一見なんの変哲もない、ダッフルコートにメガネという出で立ちの男子学生なのだが、電車の中で奇行を繰り出し、乗客たちの注目を集める部類の人である。

さらに、その奇行を撮影していた同じ大学の女子学生が自分のことを好きなのだと思いこむ勘違いもぶり、迷惑甚だしい厄介者だ。コミュ障を通り越してサイコパス。彼もまた、影山兄弟とはまた別の意味で、生と死の境界を軽々と超えていってしまう恐ろしい男なのだ。

 

頭のおかしなヤンキーと頭のおかしなコミュ障。別の意味で「怖い」2組だが、両者は「道徳」への向き合い方において、定義づけられる。

影山兄弟の立場はいわば“反”道徳であり、道徳に徹底的に抗い続けている。対する柴田さんは“非”道徳だ。道徳に抗っているわけではない。彼は初めから道徳がない世界を生きている。

反道徳と非道徳。2つの勢力は、京都を舞台に別々に活写されるのだが、クライマックスで激突することになる。しかしそれは、あくまでも偶然の荒々しい衝突事故だ。

その先にあるのは、反道徳と非道徳の激突のすえに平和な世界が訪れる…という安易な結論では毛頭なく。

それまでと同じように、いや、それまで以上に、両者の激突で、心優しい人々やなんの罪もない(強いて言うなら運が悪かった!)普通の人々がまきこまれ、酷い目にあっていくのだが、ぜひそれは自らの目で確認してもらいたい。

 

最後には道徳が勝つ、みたいな安易な結末を一ミリも残さない、突き放したかのような終わり方もまたクールである。

 

この自粛期間に、騙されたと思って観ておいてほしい一作である。

東野幸治の”芸人ウォッチ術”が花開くエッセイ『この素晴らしき世界』

この素晴らしき世界

この素晴らしき世界

 

東野幸治は掴みどころのないお笑い芸人だ。

20代の頃には『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演し、放課後電磁波クラブ、パイマンといった名キャラクターを生み出したものの、番組内では「できない奴」「面白くない奴」「汚れ芸人」という扱い。おまけすぐに全裸になるような下品な芸風だったため、生前のぼくの父親は毛嫌いし、『ごっつ』に彼が出てくると舌打ちしていたものだ。

その後、今度は先輩、ダウンタウン松本らの証言により、死んだ亀をゴミ箱に捨てるなどの恐ろしい本性が続々と明らかとなり、「ヒトの心を持たない芸人」「サイコパス芸人」といった称号を得たのが2000年代。

しかし、この頃から徐々に風向きが変わっていく。いつのまにか「できない奴」でも「面白くない奴」でもなく、すぐ上の先輩・今田耕司と共にMC芸人として重宝され、急激に頭角を現していく。回される側、ではなく、実は回す側にその才能を有していたのだ。

そして2010年代、『アメトーーク!』に持ち込んだ「帰ろか・・・千鳥」「どうした!?品川」といった企画を成功させるなど、同業者がロックオンされることを恐れるほどの密度の高い「芸人ウォッチ術」において才覚を見せ始める。

さらに、年齢を重ねた近年では、「ヒトの心を持たない芸人」だったはずが、涙もろくもなってきている。昨年のよしもとの闇営業問題のときには、謹慎を食らった後輩たちを思い、テレビの生放送中に涙した姿が記憶に新しい。

かつて松本も自身のラジオ番組で東野のことを、「まだ、何回か変化しよる」と予想した。いったい、どれが本当の東野なのか。そして、どれが本当の彼なのか。

 

この素晴らしき世界

この素晴らしき世界

  • 作者:東野 幸治
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本
 

 

『この素晴らしき世界』はそんな東野によるエッセイ集だ。所属するよしもとの先輩、後輩を一人ずつ紹介している、人物評伝集といえる。浅草キッド水道橋博士にも同様の『藝人春秋』というシリーズがあり、形式はそれに似ているが、博士が博覧強記でごりごりと対象人物の輪郭をかたどっていくとすれば、東野のそれはのほほんとした軽い言葉で、その芸人の実相に迫っていく。

 

さまざまな語り口を使い分ける。その芸人の身近な面白エピソード集の数々を紹介していきながら憎めない素顔を紹介(イジる)したかと思えば、その芸人の半生を丁寧に振り返りつつ、芸人人生の酸いも甘いもを読者に追体験させる、クオリティの高いルポタージュの様相を呈することもある。

前者(例えば「アホがバレた男、ココリコ遠藤」「度が過ぎる芸人、若井おさむ」「元気が出る男、トミーズ健」など)でガハハと声を出して笑ってしまったかと思えば、一転して、後者(例えば「お笑いに溺愛された男、三浦マイルド君」「執念と愛に満ちたコンビ、宮川大助・花子」「還暦間近のアルバイト芸人、リットン調査団水野」など)で、不意に泣かされそうになる。

 

そんな東野の筆致が光るのは、やはりどちらかといえばダメな芸人について語るときだ。

  彼の仕事がなくなろうとも、彼がバイトしようとも、のたれ死のうとも、世の中の人には一切関係ございません。

 彼自身も世の中に対して、恨み辛みは一切ございません。

 お笑いを続けながらお笑いに絶望し、お笑いの世界に居続ける――。彼とお笑いとは不思議な関係です。

 そして色んな先輩から「大丈夫?」と言われたら間髪をいれず、「心配ないさ~」と言い続ける。

 そんな心配しない男が大西ライオンです。

 

「心配しない男、大西ライオン」より

 

この文章に、お笑い芸人の、特に売れないお笑い芸人の悲哀が凝縮されているように思える。

 

また、サイコパス芸人の片鱗を見せることもある。ガンバレルーヤよしこについてつづった章では、よしこと相方まひるの出会いを描く。よしこが自身のマンションのエレベーターで、便秘に苦しむまひろを助けたところ、なんと2人はこれからNSCに入学する新入生同士で、意気投合してコンビ結成となった…という、すでにテレビ番組でも何度か披露されたエピソードだ。

しかし、これを紹介し終えた東野は、すかさず、

……とここまで書いていて、私は感じます。こんな話、あります? どこか嘘くさいですよねえ。

 

言われてみれば、たしかにうそっぽく思えてくるけど…別にそんなことわざわざ指摘しなくてよくね? と思うところに突っかかるのがやはり東野幸治という男なのだろう。しかし、別に東野は「うそが嫌い」なわけじゃない。先程の箇所でも、すぐに「でも、この嘘くささがお笑い芸人としてのとても大事な要素だと私は思っています」とフォローする。

「これ嘘だよね? 嘘だよね? やっぱり。嘘だと思ったんだよ」と、うそであることだけを確かめれば、咎めもせず去っていきそう。彼を突き動かすのは道徳心ではなく、「本当かどうか」という純粋な好奇心だけなのだ。

 

結局東野はどういう芸人で、どういう男なのか。

本書で、東野が自身について書く箇所は、当然ながらほとんどない。

しかし、やはり人間は自分について語らずとも、「何を語るか」「どう語るか」で、はからずも自分について語ってしまっているのだと思う。

明石家さんまダウンタウンといった大御所ではなく、どうしようもないダメな芸人にこそスポットを当てて、そのスキャンダルな素顔を容赦なく書ききってしまうのは、彼の暖かさであるとともに、冷酷さでもある。

冷静と情熱の間で芸人を愛し続ける芸人。きっと東野とはそういう男なのだ。

すばらしい日々

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というわけで、実は離婚していたのである。

離婚はおろか、まさか結婚できるなんて思っていなかったので、離婚させていただくなんて光栄だ。自分が離婚できるなんて思ってもみなかった。

そんなことで、本稿は「最近離婚した者による離婚の雑感」である。なお、ここから以下の文章は、このブログでも始めて元妻に「原稿チェック」をお願いしたので、あとになって醜い争いに発展することはないだろう。

離婚は疲れる

離婚するまで、離婚がここまで疲れるとは思ってもみなかった。

ぼくらの場合は、二者間での結論はすぐについてしまった。まるで、次の家の壁紙の色を決めるよりも早く、簡単に決まったと思う。

大変だったのはそのあとだった。双方の実家への報告だ。

離婚は二者間の問題であって、どこぞの皇族や華麗なる一族の政略結婚でもないかぎり、二者間以外は何人も干渉できないはずである。

しかし、現実には依然、「イエ」の問題としてとらえられているふしがある。うちもご多分にもれずに、双方の実家から反対活動にあった。そもそも、双方の実家には分かってもらう必要はなく、ただ、「離婚します」という報告ですむはずだったのだが、それでも猛烈な引き止めにあった。

その過程で双方の親も精神的にかなり消耗しただろうし、ぼくら夫婦、もとい元夫婦も精神的に疲弊した。

もちろん、結婚するときには、それなりに責任を持っていたはずだった。結婚が双方のイエとイエとのつながりである(と思われている)こと、恋愛のように軽々しく別れられないということ、重々承知で、それ相応の覚悟をもって踏み切ったはずだった。この人ならば、まあ一生やっていけるだろうな、というぐらいの気持ちはあった。

しかし、やはり、結婚してみないといろいろ分からないこともあるもので。それを指して「覚悟が足りなかった」と言われるのだとすれば、それまでなのだが。

 

離婚はバンドの解散に似ている

この問題の過程で、うちの離婚は、バンドやアイドルグループの解散に似ているかもしれない、と思ったことがある。夫婦=バンドととらえればいろいろ説明がしやすくなる。

ぼくらが離婚する理由は、どちらかの不倫やなんだという人様をワクワクさせるような劇的な部類のそれではない。今後の夫婦の方向性をめぐって折り合いがつかなかったわけだが、これはバンドで言えば「音楽性の違い」に該当するだろう。

また、これは人気バンドに限定されるが、本人たちが解散したがっていたとしても、人気が出てしまったらなかなか簡単には解散できなくなる。彼らの活動を通して仕事にありついている関係者や、心の支えにしているファンは容易には解散させてくれなくなる。

これは、ぼくら元夫婦になぞらえれば、前述したような「イエ」であるし、ぼくの周囲にいた「別れないほうがいいよ」と言ってくれた少数の友人に該当するだろう。

 

「離婚しない」のサンクコスト

イエとイエに気を使い、ガマンして結婚生活を続ける選択肢もあるのだろう。

しかし、たぶんそれだと「なんで離婚したいのに離婚できない人生なのだろう」、あるいは「なんで自分と離婚したがっている人と離婚できない人生なのだろう」という疑問がふつふつと湧いてくるはず。利己的なことに関して、ぼくら元夫婦は似かたよっているのだ。

それにお互い、まだ20代と30代である。ここでダラダラ続けるより、スパッと解消してよかったという気もしている。サンクコスト(埋没費用)というやつだ。

わずか3年弱の結婚生活だったが、大半は穏やかに暮らせていた。裏を返せば、結婚の一番旨味のある部分だけを味わい尽くした、という気もする。最高の部位だけ、贅沢に食べ尽くしたのだ。

 

もちろん、ぼくらの離婚がかなり特殊なケースであることは心得ている。円満離婚だし、二度と顔を合わせたくない、次会ったときは殺すとき、みたいな関係になったわけではない。それだけは、離婚の神様に感謝してもしきれない。

自分で離婚をバンドの解散になぞらえておいて言うのもなんだが、自分たちの「解散」が敬愛するユニコーンの比較的円満な解散に似ていなくもないのではないか?と、謎の誇らしさを感じることもある。

 

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もちろん、ユニコーンみたく「再結成」する気は、ぼくらにはサラサラないけれど。 

 

最後に、ぼくにとっての離婚の数少ないメリットを伝えておきたい。独りぼっちにはなったけど、同時に、誰よりもぼくのことを知る親友が勝手に1人増えたこと。それが何よりもの財産なのだ。

北欧メルヘン殺りく映画『ミッドサマー』が“ホラー映画”でない理由

映画チラシ『ミッドサマー』10枚セット+おまけ最新映画チラシ7枚

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話題の映画『ミッドサマー』を観てきた。すでに公開前からSNS上で話題となっている作品だが、アリ・アスター監督本人が、「ホラー映画でない」と話していたことが、すでに堪能した一部ファンから「どこがやねん(笑)」と、愛情込みのツッコミを浴びていることでも盛り上がっていた。

 

実際、観てみたところ、アスター監督の言っていることは、もってまわった表現でも、監督の特異な感覚を指し示すものでもなんでもなく、まっすぐに「正しい」と感じた。当然、ショッキングな描写はあるものの、『ミッドサマー』はホラー映画ではない。「ホラー映画とは何かというのを考えさせられる映画」だった。どういうことか?

 

フローレンス・ピューが演じる女子大生のダニーは、家族が非業の死を遂げたショックから立ち直れない。そんなとき、恋人のクリスチャンとその仲間たちに誘われ、スウェーデンの山奥の集落“ホルガ”で執り行われる夏至祭を訪れることになる。

 

友好的な「交流」…からの壮絶な儀式へ

現地を訪れ、当初はおっかなびっくりで交流していたダニ―たちも、異文化に対して次第に打ち解けていく。

ところが、慣れてきたところでまず最初のショックシーンが待っている。ダニーたちは、取り返しのつかない、とんでもない光景を「儀式」として目撃することになる。

 

ここから、未鑑賞の人になるべくネタバレを避けて語りたいのだが、ぼくはこのシーンから、未開民族「ヤノマミ」を映した伝説的なNHKのドキュメンタリーを思い出した。

『ミッドサマー』は、いわば未開社会におけるサクリファイスの話だ。自然・神と人間のつながりが信じられている未開社会では、死ぬことは恐れることでも悲しいことでもないとされる。

ところがこれは、人権思想が支配的な文明社会からしたら、到底受け入れられない。れっきとした「殺人」だからだ。

これがホラー映画ならば、実は未開社会側にシリアルキラーや快楽殺人者が潜んでいて…というありふれた筋書きになってくるが、本作にはそれに該当する村民は出ていない。ホルガの人々はみな真っ直ぐな目をして、眼前で起きる光景を受け入れている。彼らに「人を殺す」という意志はない。それは「当たり前」の光景なのだ。だから、本作は「ホラー映画ではない」といえるのだ。

 

本作が描いているのはいわば、未開社会と文明社会の遭遇であって、それを「ホラー」と呼ぶのはあくまでも「こちら側の視点」にすぎない。「あちら側の視点」にあえて寄り添うならば、(これは観た人でないと分からないだろうが)「立ちション」のシーンのほうがよっぽどホラーになるだろう。

クリスチャンと、その友人は文化人類学を専攻し、(おそらく)異文化に対して寛容な姿勢の持ち主たちだ。そんな彼らを恐怖させる異文化、というのが皮肉が効いていてよい。

 

2種類の「死」の描き方

本作が未開社会と文明社会の遭遇を描いているということの証拠の一つは、「死」の描き方だ。

先述したように、ダニーの家族は冒頭で不幸な死を遂げるが、その描かれ方はいかにもホラーチックである。これはダニーが住まう世界での死が、恐ろしく、悲しいものであることを示している。

一方、ホルガでの死の描かれ方はそれとは全く違う。たとえば、先述した「サクリファイス」の撮り方など、まるで食事のシーンを撮っているような平静さを装う。肉片が飛び散り、血しぶきが上がろうと、淡々と当たり前のことが起きているように描かれる。ダニーの家族の死が描かれるシーンとは、まるで正反対だ。

 

文明と文明の「失恋」

アリ・アスターは本作についてて、「ホラー映画ではない」発言とは別に、自身の失恋を描く術として使った、とも語っている。

www.cinemacafe.net

 

たしかに、ダニーとクリスチャンという上手くいっていない倦怠期のカップルをとおして、「失恋」は直接的に描かれているのはうなづけるが、本作ではもう一つの重要な「失恋」が描かれている。

それは、上記のような未開社会と文明社会の「失恋」だ。

本作は、大まかに評すると「他者と分かりあえそうになったところで、信じがたい“相違”を目の当たりにして失望し、再び他者に戻る」という展開が2回繰り返される。

心と心が通じ合い、分かり会えそうと期待した矢先、些細なことで断絶を感じて失望するのは恋愛につきもの。本作は文化と文化の「失恋」とも言えるだろう。

 

 

多くの観客は、ダニ―たち文明社会からの訪問者の側の視点から観るからこそ、本作を「ホラー映画」と断定してしまう。でも本作は「ホラー映画」ではない。本作を「ホラー映画」たらしめているのは、ぼくたちの頭の中にある価値観なのである。