いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

芸能人の不祥事が起きるたび、ぼくがミスチル桜井に感謝する理由

 f:id:usukeimada:20200220205814p:plain

芸能人が不祥事を犯し、刑罰や社会的制裁を受けるたびに、同時に彼らが出演した作品、奏でた音楽などの「処遇」の扱いまでもが話題に及ぶようになって久しい。

実際、SNS上には「彼の出ている作品はもう見ない」「反吐が出る」などと罵っている声を目撃することは少なくないし、「自粛」の名のもとに作品が配信停止になってしまうのが現状だ。

どんなに素敵な作品を手がけたとしても、人間的に未熟な人はいくらでもいる。作品とその人本人は別物である。多くに批判者の人々はそれを分かっているのだろうが、生理的に無理なのだろう。

 

ぼくはこうした現象を目にするたびに、Mr.Children桜井和寿に感謝するのである。

 

「桜井さんって、不倫してるらしいよ」。

今でも、そのときの光景をありありと思い出せる。場所は中学校の技術教室。中学1年、当時ミスチルファン真っ只中だったぼくは、友達がさりげなく放った情報があまりに唐突で、衝撃的すぎて、持っていたカンナを落としそうになった。あの桜井さんがそんなことをするわけない。当時、チンコの毛も生えそろっていなかった13歳のぼくには、「桜井和寿」という偶像と、「不倫した男」という畜生を重ね合わすことができなかった。

 

あの特徴的な歌声、温和な顔、J-POPの表通りを仁王立ちで突き進むメロディセンス、小林武史風味たっぷりのアレンジ、そしてなにより、ポップでありつつ刺さるメッセージ性を秘めた歌詞。すべてに惹かれていた。ぼくがファンになった97~98年当時はちょうど、活動休止を挟んだこともありメディア露出が減少し始めていた。露出の少なさが渇望を生み、偶像崇拝をさらに加速させた。

 

そんな風に、当時ぼくが神とさえ崇めていた桜井さんが、まさか不倫という、そんな陳腐なことをするはずがない。不倫なんて、チンポコに支配されたバカな男がするものだとばかり思っていた当時のぼくに、それは辛すぎるストーリーだった。

 

その日は部活のソフトテニスの練習も手につかず、気もそぞろで帰宅するや否や、夕飯を作っていた母に問いただした。「桜井さんって、不倫してるの?」。口にしたくもない言葉だったが、「友だちから聞いた噂」という宙ぶらりんのままのほうが、よりいっそう気持ちが悪く、耐えられなかった。ぼくがとったのは、「その手の芸能ゴシップにはめっぽう強い母親に真偽を尋ねる」という行動だった。

 

帰宅したばかりのぼくの問いに、まな板に向かってネギを切っていた母親の包丁を握る手は止まる。美容室の女性誌を読み倒して皇室の真偽不明の怪しい噂まできちんとフォローしているうちの母親は、顔色ひとつ変えもせず「ほうよ? 下積み時代から支えてくれとった奥さん捨てて、若い女に乗り換えたんよ」。コテコテの広島弁で、すでに精神的にフラフラの状態のぼくをさらに追い打ちをかける。

さらに母はこう続けた、「相手はちょっといやらしいグループの…確かギリギリガールズとかいう…」。当時、すでにそのグループは活動しておらず、まだ中学校入りたてだったぼく自身は存在すら知らなかった。そして、今のようにすぐにググるような習慣もない。当時、自宅リビングの隅には、ウインドウズ95を搭載し、インターネットの世界につながっているはずのパーソナルコンピュータが鎮座していたが、そのときはホコリを被って久しかった。 

しかし、いくらぼくがそのグループを知らなくても、ネットで検索するという選択肢がなくても、「ギリギリガールズ」について、以下のことは直感的に分かった。

 

たぶん、とてもとても、浮ついた組織だ…。

 

すべてがガタガタガタと崩壊していく音が聞こえる。もうこの時点で、ぼくの中での聖人君主のアイドル、桜井和寿偶像崇拝は崩壊寸前だった。あんなにいいメロディー、あんないい歌詞を書くことができる桜井さんがいる一方、下積み時代を支えてくれた妻を裏切り、浮ついた組織の女性と逢瀬を重ねるなんて…。ぼくのなかで、桜井さんという人物がよくわからなくなった。一体どれが本当の桜井さんなのだろう。ぼくは何を信じればいいのだろう。

 

そんな心のもやもやを抱えながら、ぼくはその後もMr.Childrenを聴き続けた。『DISCOVERY』のバンドサウンドを聴き込み、続く『Q』ではその音楽性の幅に圧倒されながら、年月は過ぎていった。

DISCOVERY

DISCOVERY

 
Q

Q

 

しかし、その間に、ついに届いてほしくなかった報が届く。桜井さんが前妻と離婚し、不倫相手と再婚した、というのだ。

 

桜井さんが手掛けた曲に聴き惚れれば聴き惚れるほど、「なぜ?」「どうして?」と疑問符が脳内で反響する。どうしてこんなにいい歌詞が書ける人が、いい歌を歌える人が、不倫なんてするのだろう? 妻を捨て、乗り換えることができるのだろう?

尊敬は畏怖へ。10代半ばのぼくの中で、桜井さんという存在は、もはや理解の範疇を超えた、得体のしれないモンスターへと変わっていた。

 

そんなモヤモヤを抱えていた数年後、ある転機が訪れる。

2001年の秋、ミスチルがベスト盤の『Mr.Children 1992-1995』、『Mr.Children 1996-2000』をひっさげ、久々の全国ツアー「Mr.Children CONCERT TOUR POPSAURUS 2001」を開催した。ぼくの地元、広島にもやってきたのだ。

Mr.Children 1992-1995

Mr.Children 1992-1995

 
Mr.Children 1996-2000

Mr.Children 1996-2000

 
CONCERT TOUR POP SAURUS 2001 [DVD]

CONCERT TOUR POP SAURUS 2001 [DVD]

 

チンコの毛がようやく生えそろいつつあった16歳、高校1年生のぼくは、友達のミスチルファン仲間とチケットを手に入れ、生ミスチルを参拝する権利を得ていた。

その友達、Nくんは脳みその容量の9割近くをミスチルとK-1、PRIDEにとられてしまっていた底しれぬアホで、案の定、高校は地元の底辺校にかろうじて受かったが、3日で辞めた逸材である。当時、まだ高校になじめなかったぼくのほとんど唯一の友達がこのNであった。

 

そんな彼と、シャトルバスで数時間揺られてたどり着いたのが、会場の備北丘陵公園だった。

 

初めての野外ライブにして、初めての生ミスチル。期待と緊張に体がこわばる。空が紫色に変色したころ、ステージに灯りがともりライブは始まった。サポートメンバー、JENさん、中川さん、田原さんが続々と登場し、そのたびに割れんばかりの拍手がオーディエンスから起きる。そして最後、一番大きな拍手に出迎えられ、満を持してステージに現れたのが桜井さん。ぼくの当時のアイドルにして、不倫をして前の奥さんを捨てた男だ。

 

初めての生ミスチル。期待と興奮を胸に始まったライブは、最高だった。

 

そんな中で、ライブ中盤のMCのときだった。桜井さんは、バックステージの紅葉豊かな景色を話題に出した。そこで次のように言ったのだ。「きれいな小川もあってね。そこでしょんべんもしたんですけど」。 ここで、会場はややウケ。女性ファンの面々からは「もう、やだー(笑)」という、例の全然嫌だとは思っていない、媚態の込められた悲鳴もあがった。隣のNもアホみたいなゲラゲラ笑っていたと記憶している。

 

そんな会場でただ1人、おそらくぼくだけは、桜井さんの「しょんべん」発言で、カミナリに打たれたような衝撃を受けていた。

 

桜井さんが、きれいな小川に向かってチンコを出してしょんべんをする。そのとき、ぼくの中で、いい歌詞、いい歌を歌う桜井さんと、不倫をし、離婚し、再婚し、きれいな小川にしょんべんをする桜井さんがガッチリと結びついたのだった。

 

なんだ、そういうことだったか。

あれも桜井さん、これも桜井さん。人間なにも一面的ではない。多面的なのだ。清濁併せ呑むのが人間であり、美しい作品を描き、演じ、歌い、作る人だって、人を騙すこともあれば、良くない薬を服用することも、そして結ばれてはならない人と結ばれることだってある。もちろん、小川に向かってチンコを出すことだって。

これを読んでいるあなたには、そんなささいなことでか、と思われるかもしれない。たしかに、「小川にしょんべんする」はささいなきっかけかもしれないが、偶然か必然か、そのエピソードがぼくの中で実感として2人の似て非なる桜井和寿を接続させたのだ。

すべては多面的なのだ。ぼくはライブ中、そのことを初めて「実感した」のだ。数年のときを重ねて、そのことを桜井さんからぼくは教えてもらった。

 

カンナみたいにね 命を削ってさ 情熱を灯しては
また光と影を連れて 進むんだ

「終わりなき旅」より

終わりなき旅

終わりなき旅

 

 

それ以来、この歌詞が歌っているのが、桜井さんの自画像にしか思えなくなった。桜井さんは命を削りながら、光と影をあわせ持つ生き様を見せてくれたのだ。

 

だから、人物と作品を分けられない人をみるたびに、16歳のころのぼくを見るように思ってしまう。ぼくは16歳のそのとき以来、誰がどんな不倫をしようが、誰がどんな薬物でトリップしようが、なんのショックも受けない、強靭な精神を手に入れた。芸能人の不祥事を眺めるたびに、ぼくは桜井さんに感謝するほかないのである。

驚がくの全編ワンカット『1917』劇場で“従軍”すべき理由

1917

www.youtube.com

 

サム・メンデスの『1917 命をかけた伝令』を公開初日に観てきた。第一次大戦中、味方の兵士1600人の命を救うため、伝令に飛び出した若いイギリス軍兵士2人を描いた戦争映画だ。

すでに知れ渡っているとおり、本作は全編ざっと2時間あまりを、ワンカットで表現するという驚くべき手法が撮られている。実際のところ、本当にワンカットで撮ったわけえはないのだが、擬似的にそう見せようとしている。

そうした手法的な特異点があるために、観ているときはいつも以上にカメラワークに気をとられてしまうが、なめらかに動くカメラはまるでドキュメンタリー映画のようである。それが完璧に制御されているというのだから、「目には映らない技術」の厚みを感じざるを得ない。

 撮影については下記のインタビューが興味深かった。

theriver.jp

ワンカットがもたらす“従軍”体験

全編ワンカットという手法が鑑賞体験にもたらすもの、それは“従軍”体験だ。

ワンカットということは、観客の時間と、スクリーンの中の若者2人の時間が完全に同期する。かといって、ゲームでいうFPS(一人称視点シューティング)のように、主人公たちの視点から全く外れないわけでもない。ときにカメラから2人ともいなくなる瞬間もある。こうしたカメラワークにより、観客は“3人目”の兵士として、彼らと共に「従軍」しているかのような体験を得ることができるのだ。

それにさらに拍車をかけているのがカメラの高さだ。全編、カメラはほとんどの場面で主人公たちの目線の高さを逸脱しない。「疑似ワンカット」なのだから、どこかでつなぎ目をこしらえてドローン撮影もできたはずだが、本作ではそれをしていない(たぶん)。

 

ここで思い出してほしいのは、レオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント:蘇りし者』で、冒頭、先住民族の襲撃を受けるシーンだ。

iincho.hatenablog.com

あのシーンでも、カメラはレオ様たちと同じ目線を維持する。観客はレオ様と同じ目線を借りることで、どこから飛んでくるか分からない弓矢への恐怖を追体験できたわけだ。それと同じで、本作では「彼らと同じ目線の高さ」を獲得したことで、観客はより精度の高い「従軍」体験をすることができる。

 

ただ一点だけ、ストーリーにひねりがなさすぎる、という点は気がかりで。ワンカットという「形式」を際立たせるためにあえてそうしたのか、「形式」に拘泥しすぎるあまりそうなってしまったのかは定かではない。どちらにせよ、「起きそうなこと」しか起きないのは確かである。

絶対に劇場で観るべきもう一つの理由

それを鑑みても、今年劇場で観ておくべき1本であることに間違いない。

ただ、「劇場で観ておくべき理由」は「劇場ならではの鑑賞体験」だけではない。もし、本作の公開が終わり、しばらくしてVOD配信やレンタルが始まり、家で観るとするだろう。すると我々、誘惑に弱い現代の鑑賞者は確実に映像を一度は止める! スマホを観てしまう! ほかの映画ならまだよい。しかし、本作『1917』についてだけは、「一度も止めずに観る」ことそのものが、作品の“鑑賞要件”にビルトインされている(と、ぼくは勝手に思っている)。一度止めて、ツイッターを確認して、また再生する…みたいなのを繰り返していたら、そもそも観たことにならないのだ。だから「一気観」を強制される劇場が絶対的にオススメだ。

自分の中の「ドキュメンタリー観」のうかつさを恥じ入ってしまう映画『さよならテレビ』の衝撃

f:id:usukeimada:20200210203442j:image

観たのは渋谷・ユーロスペースだったが、観終わったあと、劇場の明かりがついてもしばらく座ったまま考え込んでしまった。誰かと話したいことが山ほど出てくる。いい映画を観終わったあとに襲われる感覚だ。

本作『さよならテレビ』は、2018年に制作された東海地方のローカル局東海テレビのドキュメンタリー番組をもとにした同名の劇場版。同局の報道部の姿を撮影したドキュメンタリー番組である。

sayonara-tv.jp

 

普段はものごとを撮って編集する側が、撮られて編集される側に回る。それが本作の何よりもの特異点で、撮るのは慣れているが、撮られるのは慣れていないテレビマンたちのおっかなびっくりな姿も微笑ましいのだが、当初は多少のフリクションも起こす。観客からみても頼りなさそうで、おぼつかないように見えたドキュメンタリー取材班だったが、観終わった今にしてみれば、その印象すら観客を油断させるための仕掛けだったのかもしれない、とさえ思えていく。それぐらい、細部まで考え抜かれている。

 

本作が切り取る報道部は、多面的な問題を抱えている。視聴率の低迷、それゆえに視聴率優先の「報道」の内容、異常な残業量を抱えながら「労働問題」を報じる矛盾、定型文みたいなことしか言えない司会アナの葛藤などなど…。

 

映画はそれらを、冴え渡る編集技術で整理し、観客にわかりやすく提示していく。本作ではナレーションは全く使われず、テロップさえほとんど使われない。こうした手法は何も新しいことではなく、「ナレーションを使わないことで解釈に幅をもたせ、観客それぞれに考えさせる」という定型的な説明がくっついて回るのだが、本作は違う。

本作はそのさらに上をいき、ナレーションを使っていないにもかかわらず、映像の編集技術によって、意図した場所に観客をスムーズに案内してしまうところだ。観客はまるで、自分が考えてそこにたどり着いた、と錯覚するだろうが、そうではない。知らぬ間に、優れた編集技術のアテンドを受けているのだ。

 

それだけではない。本作は硬軟のバランスが絶妙で、多少重苦しいシリアスなシーンが続きすぎたら、次のシーンはこんなの笑うしかないというシーンを持ってくる。このバランス感覚がすばらしい。この笑えるパートについては、途中からでてくる「とんでもない逸材」のキャラクター性、作品性にもだいぶ助けられていると思うが、彼をどのように使うかというところでも、本作の技術力は疑いようがない。もうここまでくると、冒頭のおぼつかなさはどこへやら、だ。

 

一方で、目の前で繰り広げられていくそうした「ドキュメンタリー」に、ある「違和感」を覚えている自分にも気づく。いやそれは、正しく言えば「『違和感を覚えないこと』への違和感」というのか。あまりにも話が綺麗にまとまりすぎているのだ。本作を観ていると、そうした「ドキュメンタリーならでは淀み」のようなものがない。その事自体への違和感である。

中盤で報道部と、そしてあるアナウンサーが葛藤を抱えることになったある大きな放送上の事故(この話に移ったとき、ぼくはようやく「ああ、あれやっちゃったの東海テレビだったか」と思い出すのだが)が開示されることによって、そのドラマ性は余計に際立つ。言ってはなんだが、本作よりストーリーがつまらないストーリー映画なんていくらでもある。

 

ぼくの感じていた「違和感」が予告していたように、最後の最後に待っているのはある種のどんでん返しである。これ以上言うと確実にネタバレの領域を侵犯してしまいそうなので踏みとどまりたいのだが、最後に一言言わせてもらえば、本作は東海テレビ報道部という題材を選びつつも、「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であった、ということだ。その真意は、ぜひ劇場で確認してもらいたい。

 

ただし、メタ目線(形式)では「ドキュメンタリー(というもの)のドキュメンタリー」であったとしても、ベタ目線(内容)で「テレビ局、報道部、アナウンサーとしての葛藤」の数々がすべてフィクションだった、とも言い切れない。つまり、終局にたどり着くまでに描かれてきた内容が、「ドキュメンタリーのドキュメンタリー」のための手段で、真っ赤な嘘だった、とはどうしても思えないのだ。

 

では、本作をどうとらえればいいのか。ノンフィクションなのか、それとも、フィクションなのか。あるいは、どこまでが真実でどこまでが脚色なのか。それを考えるための補助線として、この映画を観たあとに読み始めた森達也の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を挙げたい。

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

 

この本を読むまで、森さんについては『A』などの実際の映像作品は観たことがあったが、テレビでたまに観る際には、何が言いたいのかイマイチ分かりにくい、要領を得ない話し方をするオッサンだなあというイメージぐらいしかなかった。そんな森さんにやら本著は、彼のドキュメンタリー作家としてのマニュフェストとして分かりやすくまとめたものになっている。

 

これを読むと、森自身はドキュメンタリーをはなから「ジャーナリズム」とは考えていないことが分かる。

  撮らないことには作品は成立しない。当たり前だ。そしてこの「撮る」という意志と行為が、ドキュメンタリーの本質だ。フィクションかノンフィクションかという明確の区分けは不可能だし、実は意味はない。なぜなら「撮る」という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ。

別の箇所で森は、撮ること自体が対象の人物に変化を与えることであるとも語る。そもそも「中立で公平なドキュメンタリー」などない、と断言している。

森の論の側に立てば、本作について「フィクションなのか、ノンフィクションなのか」と考えることが意味のないことになる。

そしてさらにいえば、「フィクションかノンフィクションか」という二元論を招く本作のいかがわしさは、そのジャンルの起源とともに存在する「ドキュメンタリーの本質」である気がする。そもそも、ドキュメンタリーとは、現実かニセモノかの間で揺れる「いかがわしさ」が醍醐味だった。そして、そのどちらもが正しいのだ。

 

少なくともいえるのは、この映画を観たあと、ぼくらはきっと「ドキュメンタリー」という言葉を、この映画を観る前と同じ手触りで安易に使うことはできなくなるだろう。そして、これまでうかつに使っていた「ドキュメンタリー」という語句を恥じ入りたくなってくる。「ドキュメンタリー」をめぐって、観る前/観た後の世界を変えてしまう。そんな強烈な一撃だ。 

“史上最強”ジェニファー・ロペスが股間も心も直撃! 映画『ハスラーズ』がマブすぎる

ポスター/スチール写真 アクリルフォトスタンド入り A4 パターン 1 ハスラーズ 光沢プリント

 

www.youtube.com

ジェニファー・ロペス史上最強のジェニファー・ロペス

ジェニファー・ロペスといえば、90年代後半から2000年代まで「エロくて強え女」の人類代表みたいなところがあるのだが、個人的にはここ十数年ほど鳴りを潜めていた印象は否定できない。

本作『ハスラーズ』は、そんな彼女の「ひさびさのジェニファー・ロペスっぽいジェニファー・ロペス」が拝めると思っていたが、鑑賞してみたところそれどころの騒ぎではなかった。ここに来て史上最強のジェニファー・ロペス、「ジェニファー・ロペスによるジェニファー・ロペスのK点超え」が垣間見られる一作である。

 

↓インスタグラムでは今もバリバリ現役なジェニファー・ロペスくん(←古臭いグラビア風キャプション)

 
 
 
この投稿をInstagramで見る

Jennifer Lopez(@jlo)がシェアした投稿 -

 

舞台はニューヨーク、欲望がむき出しになる場所、ストリップ・クラブ。女性ストリッパーたちが主役だ。『クレイジー・リッチ』のコンスタンス・ウーと共にダブル主演を務めるジェニファーの役どころは、クラブのダンサーでリーダー的な位置に立つラモーナだ。

観客の股間と心にファーストインパクトをぶちかますのは、眩すぎるジェニファー・ロペス50歳バージョンである。屋上でほぼ全裸に毛皮というマブすぎる姿でタバコを吹かせたかと思えば、キレキレのTバックで華麗にポールダンスを踊る。

肉体のお手入れやお直しといったものに筆者は詳しくないが、それらが施されていたとしても、まあ御年50には到底みえないパワフルな肉体は見事であるし、カリスマ性にあふれる振る舞いは、多くの観客の心を鷲掴みするだろう。

映画館で見るべき一作であることに間違いないが、さらに付け加えると、この映画に関してはできるだけ前方の座席で鑑賞するのがオススメ。スクリーンを見上げる座席に座れば、ジェニファー演じるラモーナ様の艶めかしいダンスを、まるでステージ下から見上げる観客の目線を追体験できるだろう。客の投げ入れた札束の中で恍惚とした表情もなんともセクシーだ。

 『バーレスク』から『ギャングース』へ

前半はまるでクリスティーナ・アギレラのド派手な歌唱が名物の『バーレスク』のような女性ダンサーの成り上がり譚が描かれるが、中盤に差し掛かるところでムードが一転。本作、前半のお気楽イケイケのムードから、中盤のシリアス展開、クライマックスの泣ける展開まで、絶妙な配合なのもミソである。

バーレスク [Blu-ray]

バーレスク [Blu-ray]

 

 

2008年に世界を襲った金融危機は、当然ストリップ業界にも暗い影を落とす。一度は低賃金の昼の仕事に転職してやりくりしていたデスティニーやラモーナだったが、結局は上手くいかず。覚悟を持ってストリッパーに復帰するが、ストリップ業界も閑古鳥だった。

そこで、彼女たちは取り返しのつかない、ヤバい方法に手を染めていく。不況で私達はこんなに苦労しているのに、なんでウォール街の男たちはあんなに涼しい顔しているんだ。あいつらがちょっとぐらい酷い目にあっても困らないはず…。格差が拡大していく社会の中で、ビンボー人たちが富裕層を狙った犯罪に手を染めていってしまう、という構図では、最近紹介した『ギャングース』に構図は似ている。

 

iincho.hatenablog.com

『パラサイト』と共鳴する瞬間

興味深いのは、デスティニーがインタビュアーに明かす夢の話だ。夢の中で彼女は気がつくと車の後部座席にいるが、走行中なのに車の運転席には誰も乗っていない。慌てて、自分で乗り出してハンドルを握ろうとするが、車を上手く操れないという。

貧困者の人生が「アンコントロール」であることを暗示するこの夢は、奇しくも、先月から公開され、ヒット中の映画『パラサイト 半地下の家族』とも共鳴する。

【映画パンフレット】パラサイト 半地下の家族 PARASITE

ソン・ガンホ演じる貧困一家の父親は「息子よ、何か“計画”があるのか」と尋ねるが、肝心のときになって全く逆のことを言う。「一番失敗しない計画は何か。それは計画しないことだ」。人生設計など最初からやっても無駄だ、という貧困者の諦念を描いたシーンだ。「貧困とはなにか」という点について、『ハスラーズ』と『パラサイト』は同意が取れている。それは、「貧困とは、自分の人生が自分でコントロールできない事態」ということである。

「私たち、最強だったよね」

カクカクシカジカがあった後、やはり計画は頓挫し、主人公たちは挫折と痛手を負う。心身ともにボロボロになったあと、ジェニファーがウーを抱擁しながら、こう確認する――私たち、最強だったよね。お前ら「EGG」ガールかよとスクリーンの向こうにツッコみたくなりながらも、目頭が熱くなってくるのはなぜか。

 

egg(エッグ) 2019 令和 (POWER MOOK 70)

そこには、明確な悪事ではあるが、男性社会に一泡吹かせてやった彼女たちにどこか痛快な気分で共感してしまうところがあるからだろう。

何もかもが失われたあとでも、友情だけは残る。それは誰にも奪えなかった。それだけに、それだからこそ、もし2人が生まれや境遇に恵まれていたら、そして、もっと早く出会っていたら、結末は変わっていたのに。そう思わざるを得ないやるせなさとともに、映画は幕を閉じる。

 

ジェニファー・ロペスにメロメロにされ、ジェニファー・ロペスに泣かされる。彼女が多面的な魅力を放つ快作だ。

まるでドキュメンタリーの緊張感 “異端であり正統”な震災映画『風の電話』

映画ノベライズ『風の電話』 (朝日文庫)

東日本大震災からもうすぐ9年が経とうとしているが、先週公開された『風の電話』は、異色の「震災映画」だ。

 

3.11で家族を失った女子高生・ハルが、叔母と暮らす広島・呉から、故郷の岩手・大槌までをヒッチハイクして帰るロードムービーである。道中でさまざまな人たちと出会い、ハルは、失っていた生きる意味を取り戻す。

 

印象的なのは、全編にまるでドキュメンタリーのような生の雰囲気が漂っていることだ。それもそのはず、メガホンをとった諏訪監督は「即興演出」という手法の使い手だそうで、ぼくは監督の映画は初体験だったが、基本的には台本がない、現場で即興で作られていく絵作りは、息を呑むような雰囲気を演出し、観客に、演者の言葉を1つも聞き逃せない緊張感を与える。

 

当然、演者にも負荷がかかり、力量が試されるこの手法だが、本作において特にインパクトがあるのは、震災で多大な被害を受けた福島出身の西田敏行。西田が演じているのは、福島に住む男性なのだが、軽妙に東北弁を操り、福島の扱いへの不満を述べる姿を見ていると、まるでそれは西田敏行なのか、西田が演じている男なのかがよく分からなくなってくる。

西田と同様にインパクトがあるのは、ハルと西島秀俊演じる元原発作業員が訪れる在日クルド人宅のシーン。出演しているのは、実在のクルド人の人々で、日本での苦労をとうとうと語る姿はドキュメンタリーのよう…ではなく、そこは本当にドキュメンタリーなのである。

また、こうした無茶な(?)な演出方法に柔軟に対応し、ヒロイン・ハルに息を吹き込むモトーラ世理奈のポテンシャルの高さにも舌を巻く。特にハルが、突然いなくなった家族と、家族を突然奪っていった津波に対して放つ怒りの咆哮は圧巻の一言で、痺れてしまった。

 
 
 
この投稿をInstagramで見る

モトーラ世理奈(@sereeeenam)がシェアした投稿 -

 

フィクションとドキュメンタリー、本来交わらない2つのジャンルの間を架橋する本作。そうしたスタイルは、題材にも非常に合っている。そう思う理由は2つある。

1つ目は、これがロードムービーというジャンルであるためだ。ハルは道中、いろいろな場所に「寄り道」する。中でも、前述したような在日クルド人を尋ねるシーンは、本筋からかなり逸れ、すんなりとは飲み込みづらい。「俺は何を見せさせられているんだ」という気になってくるのだが、その「迷走」は、本作のドキュメンタリー性の部分を際さたせているし、いきあたりばったりの旅ってそういうものじゃんと思えてきて、かえってリアルである。

さらにもう1つ、本作が扱っている根底に、3.11という圧倒的な現実を扱っていることが大きい。

以前、園子温古谷実の『ヒミズ』を映画化した。その際、原作にはない震災を描写した件について、「仕方ないよね。あれだけ大きなことがあったんだから」と妙に納得してしまった記憶がある。

ヒミズ [Blu-ray]

ヒミズ [Blu-ray]

  • 出版社/メーカー: ギャガ
  • 発売日: 2020/01/08
  • メディア: Blu-ray
 

 

そんな風に、震災は良くも悪くもクリエイティブにさえ多大な影響を与えた外傷的経験であり、それをまっさらな「フィクション」として人工的に再構築する方が不自然な行為に思えてくる。

フィクションであろうと、演者の姿の記録(ドキュメンタリー)なのだ。本作のメインキャストは、22歳のモトーラを含め、全員が大なり小なり震災を「経験」している。本作が、演者の身体に依拠する多大に「即興演出」という手段を通して「震災」を描くのは、アクロバティックなようでいて、実は正統な手段の気さえしてくる。

 

何はともあれ、今日は映画ファンが月で一番好きな1日、ファーストデーである。どれか1作観ておこうと思っていたとして、本作が候補にも入っていないとしたら、それはあまりにも惜しいことだ。

芸能人の不倫叩きは”アンフェア”だ

寝ても覚めても

寝ても覚めても

寝ても覚めても

  • 発売日: 2019/03/06
  • メディア: Prime Video
 

芸能人の不倫が発覚して、ネット上でボッコボコになっている光景をみるたびに、つくづくアンフェアだなあという感情に襲われる。

そもそも、不倫について配偶者以外の第三者がガタガタ騒ぐことじゃない、という感情がある。

しかし、ここで書こうとしている「アンフェアだなあという感情」は、そうした「第三者がガタガタ騒ぐことへの違和感」とは別物だ。

 

「アンフェア」というのは、「そんなこと、誰も言ってなかったじゃん」ということだ。アコギな商売の代名詞である携帯ショップでさえ、わかりにくいなりにもうちょっと買う前にメリット・デメリットを説明してくれるだろう。一方、不倫バッシングについてはなんの最後通牒もなく、いきなりである。威嚇射撃もなくミサイルを撃ち込まれるようなものだ。

 

ちょっとわかりにくいかもしれない。

どういうことかというと、不倫でここまで叩くのなら、結婚したときにもうちょっと「そういうことへの留意」を持ち出す視点があってもいいのではないか、ということだ。結婚するときは「理想の夫婦だ」「本当におめでとう」「羨ましい」だなんだと祝福をしておいて、いざ不倫が発覚したら、手のひらお返して怒り散らすのが本邦の世論、マスメディアである。

 

以下が、2人が結婚したときの記事の一例である。

 杏と東出昌大の結婚式が4日、東京の愛宕神社で行われ、その際に撮影された二人の幸せショットの数々が反響を呼んでいる。同写真は、杏と親交があり雑誌での対談経験もある漫画家の渡辺多恵子が5日にTwitterで紹介したもので、白無垢姿の杏と紋付き袴を着た東出の写真は、まるでドラマのワンシーンを切り取ったかのようだ。

 杏と東出は2013年~2014年に放送されたNHK連続テレビ小説ごちそうさん」で夫婦を演じ、今年の元日に入籍。実生活でも夫婦となった二人の結婚式の様子は幸せそのもので、同写真を見たファンからは「本当にすてきな写真」「末長く幸せになってほしい」など二人を祝福するコメントが相次いでいる。(強調引用者)

 https://www.cinematoday.jp/news/N0077165

 

ほら、「一度結婚したら、他の人との交際が発覚した際に、とんでもない目にあいますよ」という説明はどこにもないではないか。結婚に対して人はポジティブな面しか見ない。引用する記事の問題かもしれないが、芸能人の結婚に際しては、たいていこうした「祝福ムード」が演出されるものだ。

不倫の原因は何を隠そう結婚である。結婚という行為自体に、そもそも不倫というリスクが内包されているのだ。

しかし、いざ不倫が発覚したら、恐ろしい「私刑」が待っている。結婚したときにあれだけ祝福していたのに。そのギャップについて、違和感があるのだ。

 

たとえば、以下のような記事があったら、納得できる。

 ファンからは「本当にすてきな写真」「末長く幸せになってほしい」など二人を祝福するコメントが相次いだ。
 一方で、結婚という決断を選んだ以上、今後2人は他の人との交際が発覚すると、バッシングされることが確実。そのため、ファンからは「そんなに安易に結婚して大丈夫なんですか?」という心配の声や、「もう二度と、他の異性と肉体関係を持たないということですね?」という確認の声、「すごい覚悟だ」という称賛の声が寄せられた。

 さらには、「もし不倫したら、絶対に叩きますからね?」「もし不倫なんかしたら、芸能界にいられなくしてやる」といった、見方を変えればただの脅迫でしかないコメントも散見された。

これぐらい結婚に関するネガティブな情報もあっていいはずだ。

結婚という入口の部分でやたら目尻を下げる人々が、不倫が発覚した途端、二重人格のように鬼の形相になる。

このギャップが、ぼくはただただ恐ろしいのである。

 

必見のドキュメンタリー『M-1アナザーストーリー』 「横の線」と「縦の線」の凄み

ケロッグ コーンフロスティ 徳用袋 395g×6袋

見よう見ようと思っていた昨年の『M-1グランプリ2019』の舞台裏を追ったドキュメンタリー番組『M-1アナザーストーリー』をようやく観た。

M-1好き、いや、お笑い好きは全員正座して観るべきドキュメンタリーだった。今月26日まで観られる。

 

tver.jp

史上最多5040組がエントリーしたM-1グランプリの決勝戦は“史上最高レベル”と評される激闘となった。観客を爆笑させ、審査員をうならせたのは、王者ミルクボーイだけではない。
密着カメラが捉えたのは、わずか4分間の漫才に夢を馳せた“芸人たちの生き様”だった。

今大会の決勝進出組決定から、その9組+敗者復活組によって繰り広げられた本番、そして雌雄が決したあとまでを追いかけたドキュメンタリーである。

詳しい内容はぜひ観てほしいのだが、内容とは別で圧倒されるのは、制作のABCテレビM-1にかける思いがあらわれた「横の線」と「縦の線」である。

 

ミルクボーイが優勝したので、もちろん彼らがドキュメンタリーでも主軸になるのだが、番組のカメラはまるで「ミルクボーイが優勝するのをはじめから分かっていた」かのように、彼らを取材している。

これはどういうことかというと、何もM-1八百長を告発したいのではない。

優勝候補にあげられるでもない、全国区ではほぼ無名だったミルクボーイを優勝前から丹念に取材していた、ということは、裏を返せば残りの(敗者復活組を除く)8組についても同じぐらいきちんと取材していた、ということが伺える。

たった40分の番組であり、ミルクボーイのパート以外のほとんどの素材は使われていないはずだ。ミルクボーイの優勝までのストーリーを鮮やかに浮かび上がらせたように、ほかの8組が優勝していたとしても、それは可能だっただろう。

9つのうち、8つの取材がほとんど使われない、と分かった上で、ABCテレビは取材クルーを各コンビに回させたのである。

この番組を観て、まずこの「横の線」の強さに驚かされる。

 

一方、「縦の線」とは何か。それはこれまでのM-1の歴史に関係する。

この番組を観ていくと、横線以上に驚かされるのは、ミルクボーイの2人がまだ学生だった2006年のM-1予選に出場したときのインタビューも使われていることだ。つまり、ABCは10年以上前の無名の学生の映像もアーカイブしていたのだ。

f:id:usukeimada:20200119234009j:plain

2006年だけではない。番組では2006年から2010年、中断を経ての2015年からのミルクボーイの映像も流された。

この「縦の線」の貴重さの度合いは、「横の線」のそれを遥かに凌駕するのは誰にでも分かるだろう。もう誰も今から「2006年のミルクボーイ」にインタビューすることはできないのだ。かまいたちのネタではないが、「時間の壁」に守られているのである。そして、アーカイブしておく手間、コストもはるかに大きいことが推測できる。

 

2006年の取材をしたスタッフたちの意図は分からない。

しかし、そのスタッフたちが「2006年のミルクボーイ」「2007年のミルクボーイ」…と撮りだめていった映像が、時を経て昨年2019年に意味を持った。ひとつひとつでは心もとない点と点が、昨年末についに一つの強靭な線になる。そのプロセスを知ると、一種の感動を覚えてしまう。

 

こんなことを言うのはあれだが、「2006年のミルクボーイ」を撮った人はおそらく、彼らに特別な思い入れがあったわけではないだろう。

いや、正確には、「彼らに“も”思い入れがあった」というべきか。

おそらく、膨大な映像資料を撮りだめ、廃棄することなく保存していた背景には、漫才の頂上決戦という崇高な頂きに登ろうとしている意志を表明した者全員への、ある種の敬意があるのだと推測する(ちがったらすいません)。

 

今年のドキュメンタリーで使われなかった素材も、もちろん「死蔵」したわけではないはず。来年、再来年、もしかしたら3年後、使われるときを待ちながら眠っているのだろう。紡がれるべき次のストーリーを求めて。