いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

世界に“粋”が足りてない

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 インターネットの古い賢人の言葉に「(ネット掲示板を使うのは)ウソをウソだと見抜ける人でないと難しい」という格言がある。

 この言葉には一定の真理はあると思うが、ある重要なことが抜け落ちている。「ウソをウソと見抜く」ことがどんなに難しかろうと、「ウソをウソと見抜けない人」は勝手にネットを使ってバカなことを繰り広げてしまうということである。

 テレビ番組のリアリティショーに出演していたある女性が亡くなった。死の詳細は不明であるが、番組での彼女の振る舞いに反感を持った者たちから、ネットを通じて度を越した言葉の暴力が彼女を襲った、ということはすでに周知の事実である。

 この件をめぐり、すでに出演していたリアリティショーの配信は停止してしまった。

 
 さらに、番組はドキュメントではなく、制作サイドによる演出、指示があったのではないか、という疑いがあがり、大きな批判を集めている。
 
 しかし、これはナンセンスな議論だ。
 
 なぜなら、純度100%のドキュメント(記録)も純度100%のフィクション(作り物)も存在し得ないからだ。
 
 たとえ演出や指示がなかろうと、「カメラがある」という事実そのものが、その場にいる人間の行動を規定して影響を及ぼす。「カメラを置く前の生の現実」はそこにないのだ。
 
 一方、フィクションであろうと完全な作り物とは言い切れないのだ。ぼくはかつて、森本レオに過去の婦女暴行疑惑が持ち上がった際、子供心に『きかんしゃトーマス』のナレーションでの声の震えに、事件の拡散、経時的、社会的な訴追への恐れを感じ取った。それが本当かどうかはわからないが、可能性は0とは限らないではないか。 フィクションであろうと、フィクションに記録される事物、人物は生の存在であり、ドキュメント性(生の記録)は消しされないのだ。

 番組が「リアリティショー(ドキュメンタリー)」なのか、「リアリティ(の)ショー(フィクション)」なのかは、もはや意味のない議論なのだ。

 
 それにもまして、なぜテレビ番組が叩かれるかというと、「テレビの演出のせいで彼女は死んだ」という見方が強いからっだろう。
 
 でも、それは大きな間違いである。
 
 バカを言っちゃいけない。誹謗中傷を止められなかった側が悪いわけがない。誹謗中傷した本人が悪いに決まっているではないか。もちろん、番組サイドに、亡くなった彼女への精神的なケアが足りなかったのではないか、という点についての議論は、一定の妥当性がある。しかし、だからといって「番組そのものが絶対の悪だ」という見方に、ぼくは与しない。
 
 というのも、今回の件で、「誹謗中傷を煽った番組が全て悪い」という見方をするのは、人間の知性への諦めが早すぎるのだ。

 あるプロ野球選手が、有名人を襲う誹謗中傷の際限のなさを、人間を取り囲む無数のバッタの大群に喩え、大きな話題になった。

 けれど、人間はバッタではない。知性を持った動物なのである。彼らを野放しにして、すべて番組に非を負わせるのは、人間の知性を諦めるのと同じである。
 海外の同様のリアリティショーでも、すでに複数の自殺者が出たという情報もある。こうした番組の構造そのものに問題がある、という見方に普遍性があるともいえる。けれど、それなら、ここで書いたことを外国語にして、同じように海外に発信したいとすら思う。

 誹謗中傷は誹謗中傷を誘発した側が悪いのではない。誹謗中傷したやつが悪いに決まっている。その事実は変らないのである。「煽ったやつが悪い」は、人間の知能をバカにしすぎである。
 
 今回の件について、ぼくの周りの熱心な番組のファンである友人たちは、まるで自分のことのように心を痛め、死んだ彼女が絶対に見ることがないクローズドな場所でつづっていた自分の言葉を悔やむ人もいる。
 もちろん、テレビについてどんな感想を持つのも、それは内心の自由であり、問題はそのアウトプットの仕方だ。
 
 それに対して、今回の件で自分のことを「全く悪くない」と確信している愚鈍な人間たちほど、恥も知らずに「正しさ」を発信をし続け、その愚鈍さをよりいっそう際立たせている皮肉な事態である。
 
 世界に“粋”が足りてない。これは今回の問題よりずっと以前より思っていたことだ。“粋”とはつまり、「内面的な洗練」と言える。言い換えれば、「みなまで言うな」「察しろ」という美意識だ。
 2ちゃんねるが流行り始めたころ、ぼくは、そのタブーのない言論空間に度肝を抜かれた。テレビやラジオとはちがう。何についても論じていい。その広大さに圧倒された。
 でも、何について、どう論じてもいいというのは、つまらない便所の落書きに堕してしまうことを、ぼくらは嫌というほど思い知った。
 それが、ぼくが粋の反対だと感じている「野暮」である。
 
 何についても首を突っ込み、ありふれた意見を排泄する様は、まったく粋ではない。その対極の野暮というものだ。
 
 もちろん、バカは二度と発信するな、とは言えない。けれど、「野暮」を捨てて「粋」に生きるべき、という生き方を発信することをぼくはきっと今後も諦めないと思う。
 
 もっとも、彼女を襲った「野暮」な人間たち全員が「粋」に転向したところで、彼女は二度と戻ってこないのだけれど。

【随時更新】ニューヨークのニューラジオがおもしれーんですよ! 傑作回を独断と偏見で紹介【芸人ゲスト回】

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これが昨年秋に行った本当のニューヨーク

 結成10年目のお笑いコンビ、ニューヨークのYouTubeラジオ「ニューラジオ」が面白い。

コロナ禍より前から、ニューヨークのタチの悪い(褒めてます)コントが面白いなーと思っていて、昨年の『M‐1』での「最悪や!」プチブレイク後にYouTubeの公式チャンネルを知り、また友達から激プッシュされることで、ハマってしまった。

 

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そんな終身名誉ブレーク直前ゴールデンMC候補筆頭好青年のニューヨークの2人なのだが、コロナによって劇場が閉鎖して以降、その状況を逆手に取り、芸歴の近い芸人を中心にYouTubeのラジオに呼んでトーク・ラジオを繰り広げている。

この番組が、2人の聞き上手の才能も相まって、各ゲストから濃いめのおもしろい話を次々と引き出し、さながら「オーラル・ヒストリー」の様相を呈しており、聴き応えあるのだ。

 

ただし、各回1時間30分という長丁場であり、コーナーなどで区切っているわけではなく、面白いところを探すのは結構たいへんだ。

というわけで今回は、ネットメディア土方のこのぼくが、持ち前のセンス()で小見出しをつけて“再編集”。独断と偏見で紹介していきたい。

 

すゑひろがりずの回

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すゑひろがりず南條、『M-1』より『R‐1』が怖かった…ストレスで10円ハゲ
※4分ごろから

■ 正月番組に呼ばれたいのに…三島、『ロンハー』でハネたのをガチで嫌がった理由
※15分ごろから

■ 結成後も鳴かず飛ばずで7年経過…「狂言」ネタでガチッとハマった瞬間
※22分30秒ごろから
 

■ しずるの回

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■ まるで“ジョンとポール” しずるのネタ作り「衝撃のスタイル」
※5分ごろから

■ 一度解散、村上“NSC同期”実兄とコンビを組むも…せつない結末
※29分ごろから

■  日記に「村上○すぞ」 池田がストレスを溜めた理由は…
※39分ごろから
 

■ インディアンスの回

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■ 「M‐1」で覚醒! キムのヤバさ 田淵は“ネタ”に入れ込むことに苦悩
※5分ごろから

■ 一度解散したインディアンス…田淵を奪われたキムが取った衝撃の行動とは?
※16分ごろから

■  『M-1』衝撃写真で緊急事態! 田淵がパニックになった舞台
※33分ごろから
 

スピードワゴン小沢の回

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スピードワゴン、漫才に本格復帰したワケ 相方・井戸田に触発されて…
※4分ごろから 

NSC講師のキム兄の名言「売れるのは100%運です。けれど…」
※30分ごろか

■ 小沢が書くネタに「面白くないでしょ」おぎやはぎ矢作が言い放った真意とは…?
※42分ごろから 

 

ほか、いろいろな回を聴いてはタイトルを作っていたのだが、データが全部飛んでしまった!

というわけで、今後は思い出しながら復元し、随時このページで更新していきたい。

 

ビル・マーレイに憧れたあの頃…

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子どもの頃、ビル・マーレイに憧れていた。

出会ったのは、ビルがピーター博士を演じた映画『ゴーストバースターズ』だ。父親が借りてきたこの映画を観たことが、ぼくの人間性を決定づけることになる。

ゴーストバスターズ (吹替版)

ゴーストバスターズ (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

ビルが演じたピーターは、まことにフザケたヤツである。

映画の冒頭からその片鱗は垣間見られる。美女学生と普通の男子学生を相手にした超能力テストを行うピーター。彼は美女学生がどんなカードを言っても「正解だ」として超能力があることをほのめかすが、対して、男子学生に対しては冷淡で、男子がカード当てに正解したとしても絶対に正解だと認めず、代わりに電気ショックを与える。

この理不尽なシーンに、子どものころ大笑いしてしまった。

 

ビルはカッコいいビジュアル……とはお世辞にも言えない。額が広く、少々ハゲかけているし、やたらタレ目である。

しかし、そんなビジュアルとは関わりなく、彼のキャラクターが魅力だったのだ。人を食ったような佇まいで皮肉屋で、少しスケベで女の尻を追いかけてばかり。

何よりも仕事に対してのふざけた向きあい方がいい。よく言えば力が抜けた、悪く言えば不真面目なスタンス。基本的には「マジ」にならない。しかし、いざというときは「やれやれ」という具合に重い腰を上げ、先陣に立って前に進む。

 

ゴーストバスターズ』それ自体がサイコー・オブ・サイコーの映画であるのは異論がない。ほかのキャストも最高だ。

ハロルド・ライミス演じるイゴンの生真面目でスマートなツッコミ役はカッコいいし、ダン・エイクロイド演じるレイモンドの純粋な科学少年キャラもキュートだ。アーニー・ハドソン演じるウィンストンは……少々出番は少ないが、一番まともなフリをしてたまに飛び出す「俺は雇われただけ」という正直すぎる本音にはクスっとなる。

けれど、やはり、ぼくにとってはこの3人はあの映画の中ではビルの引き立て役にすぎない。子ども心に、ビルが出てこない場面が早く過ぎてほしくて、早く、ビルが出てくる場面になってほしいと思ってしまった。

 

ビルが、名門コメディ集団「セカンド・シティ」出身であるのはそのあと知り、なるほど、と合点がいったところがあったし、カメラが回っていないときのビルも役柄と同じように人を食った性格なのを知って、ますます好きになっていった。

子どものときは、いろんなロールモデルを心のなかに買うものだが、おそらく最初期に、こういう大人になりたいと思ったのは、ぼくにとってビル・マーレイだった。

ぼくの狂気じみたところはそこからで、ビルに感化されてからしばらくは、友達グループも必ず、3人グループか、4人グループにするように心がけた。それ以上に増えるようだったら、自分から抜けて疎遠になるようにしていた。なぜなら、5人ではゴーストバスターズではないからだ。

 

そんな風にビル・マーレイに出会い、憧れてからかれこれ25年近くがたった。

ふと先日、『ゴーストバスターズ』を見直してみて、今、自分はあの頃憧れていたビル・マーレイみたいになれているか? と、問い返してみた。

 今、ぼくは34歳だ。ニューヨークに住んでいないし、大学教授にもなっていない…ということは目をつぶるとしよう。

しかし、もっと本質的な部分ではどうだろう? つまらない真面目な大人になってしまったのではないか? 毎日、せっせと仕事をこなして、真面目に生きてしまっているのではないか?

 

…と自分を点検してみたのだが、意外と、ビル・マーレイみたいなところは残っている。

いつもフザケて、軽口を叩く楽天家。もうそろそろ周りから呆れられるか、すでに手の施しようがないとさじを投げられているかもしれない。

仕事はあくまで他人事だ。テキトーにこなして、要所だけは押さえておくスタンスである。いざというときまでは、4割、いや3割かな…それぐらいの力でやる。一度、「なぜ自分はこんなに仕事がテキトーなのだろうか」と真剣に悩んだことが、ぼくでも3秒ほどあるが、まあ仕方ない。こういう性分なのだろうと諦めた。3秒で。

ハゲ…はまだ始まっていないが、これは別にビルの後を追わなくていいからな、ぼくの毛根よ。

 

そんなこんなで、意外にも、ぼくはぼくの中にビル・マーレイが生き続けていることを発見したのである。

ビル・マーレイに憧れてこういう大人にできあがってしまったのか、それとも、ビル・マーレイになる素質十分でこの世に生まれ、たまたまビル・マーレイに出会ったときに「仲間だ」と本能的に嗅ぎ取ってしまったにすぎないかもしれない。すべてをビルのせいにはできない。

 

こんな風にあらためて書いてみたのは、ビル・マーレイが『ゴーストバスターズ』に“就任”したのが、ぼくと同じ34歳のときだった、と調べていて分かったからだ。

34歳最後の日にこのことを書き記しておく。

俺たち“ショボいホワイトカラー”は必見! 6年遅れでも激推ししたい『SHIROBAKO』

SHIROBAKO』というアニメが面白いのである。全24話、一気に観てしまった。

「明日に向かって、えくそだすっ!」 

 

2014年の作品である。何を今さら、と言いたいのは分かっている。

アニメには詳しくないが、映画に置き換えてみるとよく分かる。「今田くん、いいこと教えてあげようか? 『ゴーン・ガール』って映画知らないでしょ? 面白いから観てごらん」と、2020年のナウに勧められるようなもんである。何をいまさらである。

でも、この面白さを今語りたいのである。語らせてくれ。

 

SHIROBAKO』の面白さ。一言で言うと、仕事、とくにクリエイティヴには属さない、われわれヒラの会社員、手に職なしの“ショボいホワイトカラー”の「仕事」が凝縮されているのだ。

 

舞台は架空のアニメプロダクション武蔵野アニメーション」、通称ムサニ。入社1年そこそこのヒロイン・宮森は、実際に絵を描くアニメーターでも、ストーリーを作る脚本家でも、ましてや監督でもない。制作進行という、仕事の段取りを作り、各クリエイティヴ部門の制作ペースを管理し、クリエイティヴクリエイティヴを橋渡しするセクションである。クセが強いクリエイティヴたちの間に入って右往左往する彼女の姿に「あ~、これ仕事~」と、何度声に出してしまったことか。

 

SHIROBAKO』が教えてくれるのは、我ら“ショボいホワイトカラー”の仕事とは畢竟、「報告」「トラブルシューティング(もしくはその予防)」「伝え方」、これらに尽きるということだ。

困ったことが起きたら、できるかぎり早く上に「報告」する。自分が上の立場になったら、「トラブルシューティング」の能力と、過去の経験から未然に防ぐ方策も求められる。ときに、同僚や社外スタッフに無茶をお願いする必要もあり、そういうときは「(波風を立てない、できれば相手を気持ちよく仕事させるための)伝え方」も大事だ。

 

マジな話、新入社員は下手な研修をリモートで受けるより、NetflixAmazonプライム・ビデオで、『SHIROBAKO』を観た方がよっぽどためになるぞ。「矢野さんとか井口さんみたいな先輩ほしい(なりたい)〜」とか「メールベースの確認、大事」だとか、「藁をも掴む思いで外注先見つけて発注したけど、納品がクソすぎてかえって仕事が増えた(怒)」といった「仕事あるある」の宝庫なのだ。

 

もちろん、仕事の「現実」だけが延々続くなら、最後には血反吐を吐いて死にたくなるような代物になっているだろう。GWにわざわざ観なくてもいい。

SHIROBAKO』には、制作進行のほかにもアニメーターや声優、脚本家、3DCGクリエイターといったさまざまなクリエイティヴの人々の葛藤と成長も併せて描かれる。

「現実」にいい塩梅で、「アニメーションのお仕事」という、われわれ一般視聴者にはなじみのない「ファンタジー世界」が合体しており、そのバランスが絶妙なのである(一方、アニメ業界人からしたら「アニメあるある」として楽しめるらしい)。

 

TVシリーズは全24話ある。前半の12話はムサニが久しぶりに元請けとなるオリジナルアニメを作る過程だが、後半12話ではムサニが人気コミックスのアニメ化の制作幹事となってプロジェクトを動かすことになり、宮森たちの「仕事」はより混迷を極める。前半では主に社内の「ヤバイやつ」に対処しておけばよかったのに、後半になると、社外の「(気を使わないとならない)ヤバイやつ」「仕事が雑なやつ」「言ってたことを反故にするやつ」「直接連絡とれないやつ」などが次々と宮森の前に立ちはだかるのだ。

 

観ていると、“ショボいホワイトカラー”もいるだけの存在ではない、という不思議な高揚感が湧いてくる。手に職なし、上等である。クリエイティヴクリエイティヴの点と点を、線で繋いでいく役割も、立派なクリエイティヴではないか。

コロナ禍で、ここ2ヵ月ほど「会社員」っぽくなくなっている自分に、「“ショボいホワイトカラー”とはなんぞや」をリマインドしてくれる貴重な作品だ。

鬼才だって仕事は不安と心配でいっぱい!映画『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』

在宅勤務がもう2ヵ月以上続いており、働いているのか働いてないんだか分からないような感覚になってきたのだが、今回紹介する『マイ・ライフ・ディレクテッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』は、仕事について考えさせられる一作だ。

 

映画『ドライヴ』という大傑作を撮ったデンマークの鬼才ニコラス・ウィンディング・レフンが、その次に撮った『オンリー・ゴッド』の撮影過程を追ったドキュメンタリー。

ドライヴ(字幕版)

ドライヴ(字幕版)

  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: Prime Video
 

 

撮っているのはレフンの奥さん リブ・コーフィックセンさん。タイトルは、カタカナで書くとひたすら読みにくいが、直訳すると「ニコラス・ウィンディング・レフンディレクションされる私の人生」。「私の人生」とはおそらく、リヴさんのことなのだろう。

ディレクトには「監督する」のほかに、管理する、指図する、命令するといった意味がある。『オンリー・ゴッド』はバンコクで撮られた。リヴさんは子ども共々デンマークからバンコクまでレフンについて来たのだが、そのように夫の仕事に自分の人生を「ディレクト」されることへの奥さんの不満が、劇中でもぶつけられている。

 

さて、『オンリー・ゴッド』の撮影過程を追った、とは書いたが、これは単なるメイキングではない。メイキングと呼べる場面は少ない。本作の多くを占めるのは、リヴさんが撮る「レフンの素顔」だ。

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ときに耽美で難解な作風と、インテリジェンスな見た目からして、一見気難しい人なのかと思えるレフンさん。しかし本作をみると、「ありふれた二児のお父ちゃん」であることが分かる。短パン、寝癖丸出しの状態でだらしなくベッドに寝そべる姿など、素の姿にどこか安心させられる。

 

メイキングではないと先述したが、本作の大部分を占めるのは、レフンの仕事への不安、愚痴である。

そりゃそうだ。大傑作『ドライヴ』の次に撮る作品なのである。世界が注目し、期待する。そのプレッシャーにさいなまれるレフン。冒頭から「『ドライヴ』ほどは売れないだろう」「成功するか不安だ」とかなり弱気である。

 

見ていると、ひたすら不安、心配、不安、心配と、繰り返し口にする。

ときに、「うまく行かないかもしれない」と言ったところで、リヴさんがさり気なく「分かる」と相づちを打ったところ、「うまく行かないと思ってるのか!?」と半ギレになって噛み付いてくる。

 

め、めんどくせえ夫。これが『ドライヴ』の呪縛なのか。相当ナーバスになっているのが分かる。

 

でも、現場では絶対にそういう素振りは見せない。わけを聞くと、「不安や疑問を見せるわけにはいかないだろ。みんなが不安がる」。監督は虚勢を張らなければならないものなのか。逆に言えば、本作で見せるレフンの素顔は、唯一ベッドルームを共にする妻だから撮れた貴重なものと言えるかもしれない。

終いには、いつも不機嫌な夫に奥さんが逆ギレ。カメラを回しながら、突然夫婦げんかがぼっ発するなど、ほぼプライベートフィルムである。

 

撮影が始まってからもしばらくはナーバスなレフンさん。

ところが転機が訪れる。編集に入って、「え、なんか、思ってたよりいいかも…」という感覚になってきたのか、最後の方では「『ドライヴ』よりもいい。思わない?」とアツい掌返し。ここでも、奥さんの言葉尻が気に食わなかったのか、少し突っかかるめんどくささを発揮。かと思えば、「6ヵ月(撮影期間)を無駄にしてしまった」と突然急降下。このあたりの躁鬱ぶりがやばい。

 

オンリー・ゴッド』はカンヌ映画に出品され、レフンさんと共に奥さん、子どもたちも来仏。本作ではそのときの模様までを収めている。カンヌでの試写会を終えたら、今度は何も言わないでも、満足げなのが分かるレフンのニヤケっぷりである。最後はデンマークの自宅。「新たな冒険に出ないと」と、次回作を撮る気満々のレフンの穏やかな表情で幕を閉じる。

 

本作、『オンリー・ゴッド』を見ているだけで興味深いし、家庭のあり方だとか、いろいろな論点があるのだが、ぼくが一番おもしろかったのは仕事という観点だ。

別に、自分がレフンのような偉大な映画監督に並び称されるような逸材だとは思わないし、彼のような偉大な仕事をしているとも思わない。

けれど、一般論として、仕事って手を付けるまではめんどくさくて、不安で、心配で、そういったひたすら楽しくない感情だけに苛まれている、ということは共通すると思うのである。逆に言えば、「映画監督のようなクリエイティブで自由な仕事であっても、やり遂げるまでは不安で心配で憂うつなんだから、おまえのやってるクソみたいな仕事がそうでないわけないだろ」という悲しい結論も導き出せるのだが。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、すべて終わって見たら、どうってことない。むしろその出来に満足して、またやろうと思う自分がいる。

 

レフンについて、興味深いのは、カンヌのホテルのベッドでくつろぎながら、『オンリー・ゴッド』についての辛辣な評を読み上げるシーンだ。中には誹謗中傷に近いような内容もあるが、それも平気な顔をして声に出して読み上げている。撮っている最中まではあれだけ、期待されるのが怖いと言っていたのに。

仕事が不安で心配なのは、結果に対するプレッシャーではない。それは言い訳にすぎない。仕事は本源的に、不安や心配のタネであって、それを解消するのは「やりとげる」しかないのではないだろうか。

ただ、その過程での感情の起伏に振り回される周囲の人(本作における撮影者=奥さん)はたまったものではないだろうが。

 

なお、本作を観ていると間違いなく観たくなる『オンリー・ゴッド』もアマプラに入っているので、是非確認してもらいたい。

オンリー・ゴッド(字幕版)

オンリー・ゴッド(字幕版)

  • 発売日: 2014/05/14
  • メディア: Prime Video
 

ロッククライマー映画だと思ったら激アツ“バディ・ムービー”『ドーンウォール』

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The Dawn Wall [Blu-ray]

ロッククライマーといえば、

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これとか、

 

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これのイメージしかないド素人で、トミー・コールドウェルのトの字も知らない人間だったが、何の気なしに見た彼のドキュメンタリー映画『ドーンウォール』が凄まじかったので紹介したい。

 

本作は彼がロッククライミングの聖地という、米ヨセミテ国立公園のエル・キャピタンという巨大な岩のドーンウォールというルート制覇のプロセスを追う作品だ。

難しい説明をすっ飛ばすと、ドーンウォールとは、頂上への数あるルートの中でも、一番困難で、誰も登ったことがない文字通り「前人未到」のルートだ。

 

この時点でふむふむなるほど、と思うのだが、やはりド素人としてまずやられるのは数百メートルの絶壁に体一つで張り付いている様だ。一度だけ、寄せばいいのにボルダリングに挑戦し、次の日手の握力を失った身からしたら、あれがどれだけすごいのかが分かる。指と腕の筋肉どうなんてんの? という感じ。リアルスパイダーマン

 

そして、高所恐怖症の人でもそうでない人でも卒倒するであろう、絶壁での野営は背筋が寒くなる。あのテントを考えて、初めて使った人、コンタクトレンズを初めて使った人と同じぐらい尊敬したい。

 

てな感じで、気合いと根性のロッククライミング映画…かと思えば、看板に少々偽りありだ。

 

そもそも、このトミーコールドウェルという人。これまでの人生までが壮絶である。本作はその人生も寄り道して紹介してくれる。

 

まず、10代のころにクライミングで訪れたキルギスにて、友人(のちの奥さんも含め)らとともに、地元の反政府ゲリラに拉致られてしまう。トミーはそこで、その一人を崖から突き落として殺し、友人たちと共に難を逃れる。

さらに、帰国後の彼を悲劇が襲う。チェーンソーで誤って指を切り落としてしまう! クライマーにとって大事な指を! しかも一番使いそうな人差し指を! クライミングを諦めかねないような事故だが、彼は壮絶な特訓を経て、「左手人差し指のないクライマー」として復活を果たす。

さらにさらに、神は彼に試練を与える。妻が他に好きな人ができた、として、離婚を言い渡されてしまう!

 

・反政府ゲリラに拉致される

・指を切り落とす

・離婚する

 

どうだろう。一般的に、人生でどれか一つでもごめんだわ、という試練が、この人の人生一周に全部降り掛かってきているのである。なかなかではないか。ちなみに、筆者もこのうちのどれか一つを体験しているが、それがどれなのかは想像に任せよう。

 

ちなみに、トミーは今回の挑戦の下準備や練習をしている最中は「離婚のことを忘れられた」といっている。分かる分かる。離婚って、精神的に来るよな…。

 

そんなこんなで、数年の下準備と練習を経て、ついにエル・キャピタン、ドーンウォールへ!

 

ここからは、高所恐怖症の人なら泡吹いて倒れるような映像がずーっと続く。

観ていると最初は、高所がそんなに怖くない自分でも「高いところ、怖い…」という4ビットの感想しかでてこないのだが、画面の中の人々がそんな事言わないもんだから、次第に「超高いところへの恐れ」は薄れ、出演者らの飽くなき挑戦そのものに気持ちが集中していく。

 

難しいながらも、順調に登り進めていたトミーと、彼が挑戦のパートナーに選んだケビン・ジョージソン。

 

和気あいあいと上り進めていた2人だったが、ピット15と名付けた難所にて、事態は急変。激アツのバディ・ムービーにシフトチェンジする。

 

それまでの上への動きから一転し、横移動するピット15。トミーはこの難関を何度目かの挑戦でなんとかクリアする。

以下が、実際にトミーがピット15をクリアする映像。

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しかし、ケビンはなかなかクリアできない。彼はもともと、ボルダリングが専門(ロッククライミングとは少し勝手が違うらしい)トミーに同行を志願。トミーとケビンは、いわば師匠と弟子みたいな関係だ。

 

それまで、交互にピット(全部で32個ある)をクリアしていた2人だが、ピット15をクリアし、次々と先をいくトミーと、ピット15でつかえ、先に進めないケビンとの間に距離ができてしまう。

すでにボロボロで、血がにじんでいる指。ケビンは一日挑戦を休み、回復につとめ、再度挑戦してもやはり途中で失敗してしまう。

 

「ケビンには無理だ。ここからはトミーだけでてっぺんを目指せばいいのに…」そんな風に関係者の誰もが思った。ケビン自身も、ここで挑戦を諦め、以降はトミーのサポートに回ると言い出す。

 

しかし、トミーはケビンがピット15をクリアするまで待つ、と決断する。

「僕が一人で完走するより、どんなに最悪な状況でも2人で完走したい」。

 

熱い…熱すぎるぜ、トミー。

 

ケビンはトミーに見守られる中、ついにピット15をクリア。そして、2人は前人未到のルート、ドーンウォールを制覇するのであった。

挑戦が開始した19日前には、岩のふもとにはモノ好きな地元の写真家ぐらいしかいなかった。しかし、挑戦に成功したその日、ふもとには多くのファンがかけつけ、全米中が彼らの成功を祝福した。

 

ドキュメンタリーのはずだが、特に後半起きるドラマの起伏はフィクションではないかと疑いたくなるほど。言葉少なだが、お互いを思っているトミーとケビンの関係性がたまらない。そんじょそこらのバディ・ムービーでは叶わないだろう。

おかしい。「ロッククライミングのドキュメンタリー」を観始めたはずなのに、観終わってみたら「バディ・ムービーの快作」だった。

映画鑑賞をだらだら何年も続けていると、たまにこういう不思議な、でも最高な体験ができるのである。

ポカリのCMが憎い

ポカリスエットのCMが新しくなった。
これが、外出自粛期間でただでさえテレビをつけっぱなしにしていることが多くなったぼくにとって悩みの種なのだ。このCMがテレビから不意に流れ出すと動機が高鳴り、全身の毛という毛が逆立っているのが自分でも分かる。完全に野生の動物が外敵と遭遇したときの臨戦態勢である。要するに、嫌いである。憎しみすら感じる。まあ、見てほしい。

 

 

中高生(おそらく高校生)の男女が、リモートワークさながらに、それぞれの自宅(らしき場所)で別々に歌を歌う姿を自撮りしている。一人ひとりは個別に歌っているのだが、音声と映像を合わせることで、それは合唱となっていく。最後は全員が一斉に青い空にカメラを向けたところで、CMは終わる。

この空はポカリスエットのブルーを模していると同時に、「離れ離れでも同じ空の下、ぼくら、私たちはつながっているよ」と言いたげなようだ。

 一説によると、今回の外出自粛の状況の中で、急きょ内容を変更して、このような内容にしたという。まさにピンチをチャンスに変える機転の利かせ方であり、見事としか言いようがない。

しかし、そうしたプロセスとは別問題で、できあがったものが悲しいかな「嫌い」であることも成り立つのであり、以下の文章について、もしもCM関係者の目に入ったとしても、悲しまないでほしい。別にあなたは全く悪くないし、これはぼく個人の完全な逆恨みである、というフォローはしておく。


なぜぼくはこのCMが嫌いなのか。その理由を自己分析していくと、「若い男女が楽しげにキャッキャしていること」自体に対する本源的な嫌悪感に加えて、自分の中学時代の個人的な記憶に遡る。

ぼくの中学時代にも文化祭というものがあった。ご多分に漏れず、そうした学校行事を取り仕切るのは、クラスのイケてる男子、イケてる女子ら、クラスの中心人物たちである。彼らとは生きる世界が違う、リアルすみっこぐらしのぼくのような人間は、彼らが勝手にいろいろ決めていき、降りてきたものを、「あ、これやって」と言われて、「あ、はい」と返事し、粛々と進める奴隷のような身分であった。

いわゆるスクールカーストというやつで、それ自体が唾棄すべきクソ文化であることに異論はないが、まだ中学時代であり、この手のカースト迫害者の思い出など、五万とあるだろう。俺が大人になった時にお前らに復讐してやると闘志だけはたぎらせていたが、同時に、まだ未熟な中学生のやることである、と変に大人じみた納得感もあった。

しかし、なによりもむかっ腹が立ったのは、その文化祭のテーマが「絆」だったことである。正確には、ぼくが2年生のときが「絆」で、3年生のときが「絆~ともに生きる~」だった。何を気に入ったのか、翌年にサブタイトルを追加してきやがった。今でもそんなことを覚えているのは、相当憎しみがあったからだろう。

どうだろうこの偽善的なコピーは。普段はまるで物語の背景のように扱う側、扱われる側の間柄である。にも関わらず、大人の注目を集める晴れの舞台では、やれ「絆」だのやれ「ともに生きる」だの「共生」をのたまうのである。その欺瞞性が、ぼくは許せなかったのである。

いけしゃあしゃあとよくもまあそんな友達ごっこができるな? とむかっ腹がたったのである。普段の他者の(すなわちぼく)の扱い方以上に、自分たちのその「罪」に向き合わない彼らの「無知の罪」に腹がたったのである。

別にぼくは、「絆」の中に入れてほしかったわけではない。肝心なときに「絆」の中に組み込まないでほしい、それだけなのだ。

ポカリのCMに戻る。ここまで書いてみて気づいたが、自分の主張は、ポカリのCMとそれを作った人々には何の関係もない。ほとんど言いがかりに近いものだろう。

しかし、ぼくは切に願う。あのCMから嗅ぎ取ってしまった「離れていても、みんなの心と心は一緒だよ」という大変おめでたいメッセージの「みんな」の中に、頼むから「ぼく」は含めないでほしい、と。そして、CMの最後に出てくる青空。空と空がつながっていると思いがちであるが、実は違う。いつまでたっても、どんなにがんばっても「つながらない空」があるのである。

そういうことを書いていたら、今の外出自粛の状況下でも、毎日のように嫌な言葉に出くわす。「一丸となって」とか、「みんなで協力して」と、少し前にはスポーツ競技にかこつけて「ONE TEAM」なんてていうのも流行った。どうやら、普段は赤の他人であるのに、急場になって「絆」「みんな」「一丸」などとのたまうのは、子どもも大人も変らない。内実は、「自粛を要請する」という語義矛盾の一億総圧力である。

日本を「和の国」と評する向きがあるのだが、これもとても欺瞞的な言い方だ。その和の内実は、弱い者が泣き寝入りさせられている、それだけなのである。それは、「絆」でつながっていないのに、「絆」の神輿を担がされた中学時代のぼくと同じだ。

別にぼくは、「絆」の中に入れてほしかったわけではない。都合のいいときにだけ「絆」の中に組み込まないでほしい、それだけなのだ。