子どもの頃、ビル・マーレイに憧れていた。
出会ったのは、ビルがピーター博士を演じた映画『ゴーストバースターズ』だ。父親が借りてきたこの映画を観たことが、ぼくの人間性を決定づけることになる。
ビルが演じたピーターは、まことにフザケたヤツである。
映画の冒頭からその片鱗は垣間見られる。美女学生と普通の男子学生を相手にした超能力テストを行うピーター。彼は美女学生がどんなカードを言っても「正解だ」として超能力があることをほのめかすが、対して、男子学生に対しては冷淡で、男子がカード当てに正解したとしても絶対に正解だと認めず、代わりに電気ショックを与える。
この理不尽なシーンに、子どものころ大笑いしてしまった。
ビルはカッコいいビジュアル……とはお世辞にも言えない。額が広く、少々ハゲかけているし、やたらタレ目である。
しかし、そんなビジュアルとは関わりなく、彼のキャラクターが魅力だったのだ。人を食ったような佇まいで皮肉屋で、少しスケベで女の尻を追いかけてばかり。
何よりも仕事に対してのふざけた向きあい方がいい。よく言えば力が抜けた、悪く言えば不真面目なスタンス。基本的には「マジ」にならない。しかし、いざというときは「やれやれ」という具合に重い腰を上げ、先陣に立って前に進む。
『ゴーストバスターズ』それ自体がサイコー・オブ・サイコーの映画であるのは異論がない。ほかのキャストも最高だ。
ハロルド・ライミス演じるイゴンの生真面目でスマートなツッコミ役はカッコいいし、ダン・エイクロイド演じるレイモンドの純粋な科学少年キャラもキュートだ。アーニー・ハドソン演じるウィンストンは……少々出番は少ないが、一番まともなフリをしてたまに飛び出す「俺は雇われただけ」という正直すぎる本音にはクスっとなる。
けれど、やはり、ぼくにとってはこの3人はあの映画の中ではビルの引き立て役にすぎない。子ども心に、ビルが出てこない場面が早く過ぎてほしくて、早く、ビルが出てくる場面になってほしいと思ってしまった。
ビルが、名門コメディ集団「セカンド・シティ」出身であるのはそのあと知り、なるほど、と合点がいったところがあったし、カメラが回っていないときのビルも役柄と同じように人を食った性格なのを知って、ますます好きになっていった。
子どものときは、いろんなロールモデルを心のなかに買うものだが、おそらく最初期に、こういう大人になりたいと思ったのは、ぼくにとってビル・マーレイだった。
ぼくの狂気じみたところはそこからで、ビルに感化されてからしばらくは、友達グループも必ず、3人グループか、4人グループにするように心がけた。それ以上に増えるようだったら、自分から抜けて疎遠になるようにしていた。なぜなら、5人ではゴーストバスターズではないからだ。
そんな風にビル・マーレイに出会い、憧れてからかれこれ25年近くがたった。
ふと先日、『ゴーストバスターズ』を見直してみて、今、自分はあの頃憧れていたビル・マーレイみたいになれているか? と、問い返してみた。
今、ぼくは34歳だ。ニューヨークに住んでいないし、大学教授にもなっていない…ということは目をつぶるとしよう。
しかし、もっと本質的な部分ではどうだろう? つまらない真面目な大人になってしまったのではないか? 毎日、せっせと仕事をこなして、真面目に生きてしまっているのではないか?
…と自分を点検してみたのだが、意外と、ビル・マーレイみたいなところは残っている。
いつもフザケて、軽口を叩く楽天家。もうそろそろ周りから呆れられるか、すでに手の施しようがないとさじを投げられているかもしれない。
仕事はあくまで他人事だ。テキトーにこなして、要所だけは押さえておくスタンスである。いざというときまでは、4割、いや3割かな…それぐらいの力でやる。一度、「なぜ自分はこんなに仕事がテキトーなのだろうか」と真剣に悩んだことが、ぼくでも3秒ほどあるが、まあ仕方ない。こういう性分なのだろうと諦めた。3秒で。
ハゲ…はまだ始まっていないが、これは別にビルの後を追わなくていいからな、ぼくの毛根よ。
そんなこんなで、意外にも、ぼくはぼくの中にビル・マーレイが生き続けていることを発見したのである。
ビル・マーレイに憧れてこういう大人にできあがってしまったのか、それとも、ビル・マーレイになる素質十分でこの世に生まれ、たまたまビル・マーレイに出会ったときに「仲間だ」と本能的に嗅ぎ取ってしまったにすぎないかもしれない。すべてをビルのせいにはできない。
こんな風にあらためて書いてみたのは、ビル・マーレイが『ゴーストバスターズ』に“就任”したのが、ぼくと同じ34歳のときだった、と調べていて分かったからだ。
34歳最後の日にこのことを書き記しておく。