いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ルミネCM問題ごしにもう一度「境界のないセカイ」問題を考えてみる

3日前にドラマ「相棒」の最終回が炎上していると思ったら、おとといにはルミネのCM動画が爆炎していた。

なんだなんだと駆けつけてみると、動画では主人公の女性が同僚男性に他の女性社員と比べられた上で「需要がちがう」と言い放たれ、変わろうと奮起している。なるほどたしかに、いかにもネットで叩かれそうな要素が詰まっている。そのメッセージ性も、ネトフェミからしたら「あ?」という内容だろう。

LUMINE ルミネのCM動画があまりにもひどすぎる件 - NAVER まとめ


一夜明けたきのうになってルミネは動画を消し、謝罪文を出している

この騒動について、ある方がTwitter上でBLOGOSに転載された拙ブログ(この表現を一回使ってみたかった)の記事を紹介しつつ、こういう指摘をされていた。

今回のルミネのCM騒動を見てると、先日あった講談社の 「境界のないセカイ」出版中止騒動を思い出すよ。あのCMを見る限り、あと1、2部は続くようになってるのだから、全部見てから批判しても遅くはなかったのに。


たしかに、2つの騒動には通じるところがある。「境界のないセカイ」が、作者がいずれ覆すことを前提にして挿入した「不快な表現」をもとに出版中止になったのと同様に、ルミネの動画についてもこのあとで視聴者らの溜飲を下げる展開になっていた可能性は、ゼロではない。第1話、第2話をみると「さすがにこのトーンからどんでん返しは難しくないか?」とは感じるが、見てみないことにはなんとも言えない。
ルミネ側は第3話以降について「制作していない」としているが、企画していないとは言っていない。
だが、おそらくこのシリーズが再び作られることは考えにくく、真相は闇に葬られることになりそうだ。


ある事象をまた別の事象と対置し、比較することによってはじめてみえてくるものもある。今日やってみたいのは、ルミネの動画削除という事態ごしに、講談社による「境界のないセカイ」の出版中止を眺めてみるということだ。


2つの現象について、最も大きな違いは、ルミネの動画がCMという販促活動の一環であるのに対して、講談社が発売を中止したのは作品だということだ。
ルミネにとって動画は商品を売るための「手段」にすぎず、それが商売に対してマイナスに働いてしまえば元も子もない。即座に公開を中止し、謝罪したルミネのスピードは、動画が所詮「手段」にすぎないことの証左のようにも思える。
一方、講談社が出版を中止したのは、それ自体が商品であり、ある作者の署名が入った作品だ。


ここからは、あくまでも作者・幾夜大黒堂氏の証言に頼るしかないのだが、講談社は「表現上の問題から」出版を中止したという。
表現とは難しいもので、毒にもなれば薬にもなる。だれかにとって不快な表現も、また別のだれかにとっては快楽に転嫁することだって容易に起こりえる。世の中には「正しい表現」と「正しくない表現」があるのではなく、あるとすれば技術の巧拙である。快や不快を催すのは、結局は個人差でしかないのである。


そうなってくると、出版社がある表現を理由に作品の発売を中止するということは、不快に思う人たちへの配慮とはいうものの、同時に作品を心待ちにしていたファンを裏切る行為にもなりえるのだ。
「境界のないセカイ」の件について「出版社だって営利企業なのだから中止も仕方がない」というようなことを言う一部の人は、そのことを忘れている。商売だからこそ、出版社はそのジャッジを厳格に下すべきなのではないだろうか?


ルミネにとって動画は簡単に削除できるものであっても、講談社にとって本来出版中止という手段は最後の最後まで粘りに粘って吟味すべき判断のはずなのだ。

この件で、さらに両者のコントラストが際立つのは、ルミネが現実の炎上となったあとに動画公開を中止したのに対し、講談社の中止措置は、なにも実際に抗議が来たからではなく、抗議されることを恐れて中止にしたということだ。この違いも大きい。

こうしたことから言えるのは、批判が集まり本業へのリスクファクターになってようやく削除したルミネは鈍感すぎであるし、その一方で起きてもいない批判に反応して出版を取りやめた講談社は敏感すぎということになる。

ということになるだろうか?