いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

テレビの「自主規制」にみる視聴体験の"社会化"

ここ最近、テレビの自主規制をめぐる騒動が立て続けに起きている。

日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』で、芦田愛菜が演じる主人公のあだ名「ポスト」に、モデルとみられる赤ちゃんポストを設置する熊本市の慈恵病院が、放送中止を要請。さらに児童養護施設の作る団体も、施設内の描写に対して抗議した。これらの声を受けた上で、局側は放送続行を表明したが、スポンサーの全8社がCM放送を自粛するという異例の事態になっている。
一方、キリンのチューハイの「カエル」が登場するCMが、「キャラクターを使った表現方法が未成年者の関心を誘い、飲酒を誘発しかねない」との指摘を受け、放送中止となった。また、ANAの新しいCMが人種差別的だとして抗議を受け、放送を中止している。単なる偶然だろうが、ここまで続くとやはり少し異様ではある。


これらのクレームが果たして妥当なのか、ということ。あるいは、クレームを受けた側が続けるべきか、ということ。そういった問題をわきにおいて、ぼくはこうした「自主規制」をめぐる騒動から、作品体験というものが常に「社会化」されていることに気づかされる。
ここでいう「社会化」とは、簡単に言えば「他人の目を気にする」ということだ。


たとえば公共の場で、たとえ周りの人が今後2度と関わりのない赤の他人であっても、ある程度は自分がどう見られているかを気にする。これも「社会化」の一種だ。
また、SNSで知り合いと繋がりすぎて前のように言いたいことを思ったままに言えなくなった、という不満をよく聞く。しかしそれは、とりもなおさずその人のSNSでの振る舞いが、「社会化」されたことを意味し、SNSというサービスの意味するところを考えれば、一概に間違いとはいえない。


これらと同じように、あらゆる作品の観賞体験も実は「社会化」を免れられないのではないか、とぼくは思う。
作品体験の「社会化」とは、つまり「他人がこれをどのように視ているか」が、自分の受容にフィードバックしてくるということだ。


たとえば編集できない生放送で、タレントがいわゆる「放送禁止用語」を発してしまったとき。そのとき視聴するわれわれは、いわく言いがたい「何か」を感じる。しかしそれは、発言そのものが直接催すものではない。その発言を「他の視聴者がどう感じたのか」や、あるいは「製作サイドはどう落とし前を付けるのだろうか」など、そのコンテンツそのものではない「場外からの視線」を感じているのだ。このことは、インターネットという視聴者の側の感想がよりいっそう早くフィードバックされる通信手段の確立で、促進されただろう。

今やわれわれのテレビ視聴は、「他者の視点」なしでは成立しないのである。


冒頭でCMが「自主規制」によって放送中止になったという話をした。今までにも、そうした諸般の理由からお蔵入りになったコンテンツは少なくない。そして、闇に葬られるときそれは「いわくつき」のコンテンツとなる。
日本で最も有名な例の1つが、ウルトラセブンの第12話「遊星より愛をこめて」である。67年の放送時には何ら物議を醸さなかったこの回だが、その後紆余曲折があって、現在のところ円谷プロ公式のコンテンツとしてはけっして出回ることのない「欠番」となっている。

これらの動画は通常、公式的には2度と放送に乗ることがないもので、規制以後の視聴は困難となっていた。
だがネットの登場によって、いまでは見返すことができなかったお蔵入りCMも、比較的容易に閲覧できることがある。


実際にそうした「いわくつき」のコンテンツを見てみると、たしかにこれはマズい、放送中止もやむなし、というものも多い。しかしその一方、「この程度のものか」と拍子抜けすることも少なくない。どういった経緯で「自主規制」になったかを知ってからでみないと、なんでこれが放送中止になったのかわからない、というものもある。

1つ言えるのは、その自主規制作品をみているとき、われわれはもはやそのコンテンツそのものを受容してはいないということだ。「自主規制された」という背景によって、その作品を必要以上に特別視し、必要以上におもしろがっているのだ。


「いわくつき」とはいうが、それらが何者かに取り憑かれているわけではない。
取り憑かれているのは、むしろわれわれ受容する側の方なのである。