Twittterのプロフィールなどでたまに、「すべて筆者の個人的見解であって、筆者の所属組織とは無関係です」といった文言を見かける。
組織に所属した人間にはその「組織の人間」らしい振る舞いを求められる。
しかし、24時間「組織の人間」でいるのは疲れる。ときには組織の重荷を脱ぎ、個人としての「素の部分」を開陳したくなることもある。でもそういうときの「素の部分」を、組織の人間としての「素の部分」ととられては困る。あれれ、○×に所属している山田さんという人がこういう考えを持っているのか。とすると、山田さんの所属する○×もそういう考えなのかな? と勘違いする人が出てくるかもしれないのだ。
実際、知人の大学教授はとある問題についての発言で、大学から連絡が来たそうだ。どこかの誰かが、お前のところの教授はこんなことを言っていてケシカランとクレームを入れたという。
こうした議論への介入は、フェアネスを欠いている。相手を議論によって打ち負かすのでなく、所属組織に手を回し、相手のいわば「首根っこ」を掴んで発言を封殺しようとしたのだ。たいていどんな組織も、事を荒立てたくないから、自分の言うことを聞いてくれそうな教授の側に、発言をやめるよう求める可能性が高い。
「すべて筆者の個人的見解であって、筆者の所属組織とは無関係です」という断りの文言は、「首根っこ」を掴もうとするそうした輩へのエクスキューズともとれる。最近では、こうした文言をネット上のプロフィールなどに記すよう社員に求める企業もあるという。
ただしこの「個人的な見解」という断りは、はたして万能なのかという疑問も残る。おそらくケースバイケースだろう。ではどういう場面で「個人的な見解」という断りが通用しなくなるのか。
犯罪告白などのいわゆる「バカッター」は、いくら「個人的な見解」と断っても組織への影響は少なからずあることが考えられる。
また、組織内での地位が上昇して行くほど、「組織人としての見解」をより多く求められ、言い換えれば「個人的な見解」と断れる領域が狭くなっていく可能性が高い。
ただ、これらと同様に「個人的な見解」という断りが通用しない第三の要素があるのではないか。
それは、「個人的な見解」の話題と所属組織の"近さ"だ。
わかりやすくいうと、いくら「筆者の個人的見解であって、筆者の所属組織とは無関係」であると「個人」の側が宣言しようと、そもそもその「見解」の内容が、おもいっきり「所属組織」に関係する場合、ということだ。
まだ話が抽象的すぎるので、具体例へ落とし込もう。
最近、日本政府内に"ユーチューバー"がいたことが判明し、ちょっとした騒動になっていた。
安倍首相の靖国神社参拝にアメリカ政府が「失望した」とのコメントを出した事に対し、衛藤首相補佐官が「むしろ我々の方が失望した」などと批判する動画を、インターネットサイトに投稿している事が分かった。
(中略)
菅官房長官は19日午前の会見で、「あくまでも衛藤補佐官の個人的な見解であり、日本政府の見解ではない」と述べた上で、衛藤補佐官本人に発言の真意を確認する考えを示した。
失望とか言うお前らに失望じゃい、と衛藤氏はアメリカに啖呵を切り、これにあとから菅さんが「個人的な見解」と被せた。このあとアメリカ側が不問に付すと返しており、事なきを得た。
しかし、問題の動画は削除されており、結局「個人的な見解」は封殺されたわけで、つまりそれは「個人的な見解」ではすまなかったから、とはいうことを意味する。
日本はこの件に関して、アメリカ側からの「失望」発言以降、一貫して説明責任を果たして行く、といったニュアンスを述べるにとどまっている。アメリカへの批判的な声明は、全く出していない。政府見解としてアメリカ側に中指を突き立てるようなことは表明していないのだ。
馬鹿のように当たり前のことだが、日本政府は「日米関係」のステイクホルダーである。そうした日本政府にとって重要な話題について、政府に所属する「個人」が日本政府の意に著しく反する見解を公表した時、果たしてそれは「個人的な見解」だからといって免罪されるのだろうか。
免罪されるとしたら、今度はなぜそのような組織の意に反する考えの持ち主が、政府内の重要なポストに就いているのか、という組織運営の問題になってくる。そうなれば、「個人的な見解」を改めさせるか、もしくは処分する以外、組織としての一貫性を保てなくなる。
別にアメリカに失望してもかまわないし、それを言いたくなったのなら仕方が無い。ただ、それは組織になんら影響力のない「個人的な見解」とはなりえない、ということだ。実際、「個人的な見解」として放置しておくことはできなかったがゆえに、動画は削除されたのだ。
この例と反対に、組織と関係が薄い話題についての「個人的な見解」でクレームが組織の側に行く場合、われわれはそれを相手を屈服させることだけが目的の卑怯な手だと言いたくなるのではないか。
このように「すべて筆者の個人的見解であって、筆者の所属組織とは無関係です」と書いたって、所属組織がステイクホルダーとなる話題について、特異な見解を述べればそれはそれで「組織の問題」なのである。「個人的な見解」と断ったからといって、どんな無いようでも組織と切り離せない、ということだ。
私見では、皮肉なことに前もって「すべて筆者の個人的見解であって、筆者の所属組織とは無関係です」と断る慎重でクレバーな人ほど、そもそもそうしたキワどい話題には振れず、避けて通る嗅覚をもっていたりすることが多い。他人を制する前に、十分自制できているのだ。
対して、(限りなく好意的に書いて)脇の甘い人というのは、組織にどのような影響を被るかなんてはなから考えもせず、好き勝手に話すものなのである。
ここで言いたいのは、「個人的な見解」は述べてはならない、という価値判断ではない。時に人は、所属組織の行く末を案じ、方向性に疑問を挟むこともありうるだろう。ある一定数の「組織の意に沿わない者」は、組織にとって"構造的に"必要だ。また、そうした者を思想的統制する組織は、風通しがよくない。
論じたいのは、「個人的な見解」が組織を射程に入れた場合、「個人的な見解」という文言は個人と組織を切り離すエクスキューズになりえない、ということである。
「個人的な見解」という文言が完全に意味をなさなくなるとき――それは組織とゼロ距離の話題を述べる時、すなわち組織への言及である。そのとき、人は「個人としての私」と「組織としての私」を区別されない。
であるがゆえに我々は、組織の不正をただす内部告発者といった人々を、英雄視するのではないだろうか。