いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

浅田真央に感嘆したぼくはサムラゴウチファンを嗤えない

浅田真央ソチ五輪フリーの演技が、6位入賞以上の話題を呼んでいる。
ぼくも生中継でみていたが、ノーミスでの演技が終わった瞬間にむせび泣きはじめた浅田に、おおおおおおと鳥肌がたったうちの一人である。Twitterのタイムラインでも、泣いた、だとか感動した、だとかの声が寄せられていたことは、もはや周知の通り。普段はそーいうのに斜に構えるぼくも、これはすごいと思ったものである。


ただこの感嘆の前提条件には、ある"筋書き"がある。
まずその前日、自身最後と誓って臨んだ五輪のSPで16位に沈んだという無惨な結果である。演技後の茫然自失する浅田の痛ましいインタビューも、事態の深刻さを拍車を物語っている。さらに、日本全国が腫れ物にさわるかのような雰囲気の中、その国の元首相に公然とディスられる(のちにこれは一部誤解だったと判明)のである。まさに踏んだり蹴ったりとはこのことだ。

フィギュアに関してずぶの素人のぼくにとって、そんないろいろがあっての「感嘆」なのである。


これに、タイトルにあるようにサムラゴウチ氏を対比してみたい。

ぼくはあの騒動が発覚して以後、熱心に事態の経過を追っている。現代のベートーベンどころか、ベートーベンにまず謝れという事態に、心をつかまれた。多くの専門家も刺激されたようで、この件では鋭い論考がいくつも生まれた。おもしろい対象は、おもしろい評論を生むのだ、とつくづく感心した。


ただし、騒動への関心は多くの人にとって、サムラゴウチの生い立ちという「筋書き」をありがたがって消費した人々への侮蔑と表裏にある。もうこれは、疑いようのないことだろう。その点は、多くの論考によりすでに指摘済みだ


しかし、浅田真央の演技をみて衝撃を受けた自分と、サムラゴウチの音楽をありがたがって聴いた人に、たいした違いはないと思うのだ。
サムラゴウチリスナーが「耳が聴こえないのに作曲する」という筋書きに魅せられたように、ぼくが「ドン底から復活した浅田真央」 という筋書きに魅せられたのである。
ぼくも彼らも、対象の欄外にある筋書きを味わっている。違いは、対象が本物かどうかにある。浅田がライバルらからも一目おかれる天才的なスケーターであったのに対し、サムラゴウチが全聾の作曲家はおろか、耳の聞こえるただのおっさんだった、というだけである。


食品偽装と同じだ。食べた側が嘲笑される筋合いはない。誹りを受けるのは提供した側、そしてそれを専門家づらして美味いぞと喧伝した側にある。
たしかに、本物だったとしても「障がい者」という"味つけ" は、筋書きとして大味で、好みが分かれるかもしれない。
けれど、作品でなく筋書きを味わうこと自体、ぼくは他人を嗤うことはできないのである。