映画「永遠の0」を観てきた。
「鬼才・山崎貴」ということで、このデリケートなテーマをどう扱うんだろうと、失礼ながらドキドキしたけど、意外や意外(これも失礼か)おもしろかった。何百ページもの原作を、2時間強とまとめている。なによりも、主演の岡田准一、三浦春馬に、それから語り部として登場する年配の役者陣、特に橋爪功とかがたまらなくよかった。
現代パートには、ところどころ観てられない場面(若者たちが露悪的すぎて冷める合コンパートや、歩道橋からの零戦の幻覚はいらなかった……)もあったが、それをのぞけば及第点といえる感触だった。
本作は2004年を舞台に、司法浪人中の20代の主人公が、本当の祖父で第2次大戦中に特攻隊として散っていった海軍の飛行士、宮部久三の足跡をたどるため、彼と同じ海軍に所属していた兵役経験者らに話を聞く、という体で進行する。
そこで主人公は、宮部が海軍でも指折りの凄腕の零戦乗りだったが、非好戦的で生き延びることに執着する「臆病者」だったというネガティブな評価を立て続けに聞くことになる。しかしある語り部(橋爪)の話から、宮部がなぜ「臆病者」だったのか、その真の理由を聞かされることになる。
大ヒットしたこの『永遠の0』は、よく「零戦」「特攻隊」「右翼」「愛国心」といったトピックとともに語られがちである。もちろんそれらでもって語ることは間違ってはいないが、それらだけを強調しすぎると、本質を見誤る恐れがある。この作品は戦争という具体を超え、もっと抽象的、普遍的な「臆病者とは誰なのか?」という問いを投げかけているように、ぼくは思う。
宮部は「生きて帰る」ということを、平気で口にする。周りの人間にも、決して死なないように口酸っぱく言いつのり、逆にとがめられたり殴られたりもする。
「命を惜しむ」ということは、なるほどたしかに「臆病者」の所作かも知れない。
けれど、当時の軍部で「生き延びる」「死なない」という言葉はほとんど「禁句」に近い言葉だった。「お国のため」に命を捧げることことそが、命を惜しまないことこそが「善」だったのだ。そして、当時兵士にとって、上官の命令は絶対だったのだ。
現代日本という時点からすれば、「お国のために死ぬ」ことや、特攻隊に志願するなんて狂気の沙汰に近い。けれど、実際にあの時代、あの組織にいたとき、同じように考えられるか。考えていたとしても、それを言い出すことができるだろうか。
そう考えたとき、「臆病者」という概念は反転する。
強固になった集団心理を前に、それに異を唱えることができるか。もし自分の中に集団への違和感があったとしても、それに順応することを選んでしまう恐れがないかと問われたら、ぼくもないとは言い切れない。しかしもし、その集団に反論することができたとき、それははたして「臆病者」といえるだろうか? それはむしろ「勇敢」とさえいえるのではないか?
客観的にみれば「殺されるよりも生き恥を晒した方がましだ」と考えがちだ。けれど、繰り返すがそれは現代という「外部」だからこそいえるのだ。
組織の中で、組織の利益が絶対善とマインドセットされたとき、自分にとって完全に間違った選択をとらされることは、時代を選ばない普遍的な事態だ。
だからぼくは、つねに集団の中の「臆病者」でありたいと思うのである。