2014年も早速炎上案件続々! ネットでの情報発信、そろそろお前ら考え直すべき時期じゃねぇ? - 僕と花子のルンルン生活だヨ!
数日前に毎日のように炎上が起きているということを書いたけれど、事実ここ数日は本当に毎日起きているらしい。
今年だけでなく昨年も、一連の画像投稿騒動が連日のようにおきており、「炎上」はカジュアルなものになってしまった感がある。
けれど、そういった騒動を追うにつれ、徒労感が募るのはなぜだろう。それは、炎上の対象者が愚劣でバカなことに端を発する徒労感なのだろうか。
そうかもしれないが、それだけでもない気がする。
その徒労感の正体はおそらく、その炎上がネットを盛り上げるために焚き付けられた「自給自足」に過ぎないと、気づいているからじゃないだろうか。そしてその炎上の後に、有益なことが何も残らないことを経験的に直感しているからではないだろうか。
公共交通機関で泣き止まないうるさい子供には睡眠薬を飲ませろ、と起業家が提案した。別にそれはそれでいいではないか。そういう変わったことを言う人も世の中にはいるのである。
新幹線が立ち往生中なら老人や子どもをグリーン車の空いた席に座らせてあげればどうか、と考える人がいた。別にそれはそれでいいではないか。なんでその場にいてもない人間に、論者は人格否定までされなければならないのだろう。なぜにそれだけで烈火のごとく怒り狂う人がいるのだろうか。
それらはネット、特にソーシャルメディアがなければ、はなから起きなかった騒動である。そして、それらの炎上が実社会を変えたことは、今の今までほとんどない。
嫌いな言葉に「論破」というものがある。ネット上で「論破」という言葉を見た瞬間、最低最悪のギャグを目の当たりにしたときのような、凍てつくような風が心を通る。
思うにそれは、そこに書き込まれた「論破」が、ネットの片隅の、ほんの小さな小さな争いのそのうちの一人の自意識を慰撫することしかならない、どうでもいいものだからだ。ネット上で論破したって、されたって、実社会は一ミクロンも変化しないのだ。
炎上のきっかけを作った側が悪い、叩かれる隙を作った側が悪い――そのように、落ち度があるなら叩いてよいという発想も、炎上が見たい側の使い古された詭弁だ。
だからこそ、冒頭で引用した記事にあるように、中川淳一郎氏はインターネットを見下げている。所詮は暇つぶしなのだ、とその可能性を限定する。
その主張は、彼が世に出た『ウェブはバカと暇人のもの』から一貫している。
その現状認識は正しいのかもしれないけれど、そのままじゃもったいないだろう、ともぼくは思う。
話は少し飛ぶが、先日映画『ハンナ・アーレント』を現代の炎上に見立てて紹介した。
あれはあの作品の一部分でしかない。アーレントがアイヒマン裁判のレポートを公表するまでは、むしろ周囲の人間との幸福な関係が描かれているのだ。
ただそれは、ただただお互いがお互いを尊重しているだけの関係ではない。
意見の相違があれば、とことんぶつけあう。けれど、どんなに議論が白熱しても、それが終わればまた仲のよい友人関係にもどる。フィクションであることはわかっているが、それでも、なんてよい関係なのだろうと思ってしまう。
批判すべきは意見であって、人ではない。なのに、人たび炎上となるとそのルールな守られない。
このままネットが「暇人のもの」であってもそれはそれでいいのかもしれない。ぼくのように考える人は多くはないだろう。けれど、もし「暇人のもの」でない、さらに高見にあげたいなら――それは使う「人間」の側が変わらなければならないのである。
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ネットに使われない生き方をしよう - 倒錯委員長の活動日誌