一昨日から話題になっている匿名ダイアリー。
Twitterを辞めた。
二年近くやっていたTwitterを辞めた。
原因は色々あるが、いちばん大きいのはとあるフォロワーの存在だった。その人は一回り以上違う中年男性だったが何故か私をとても好いているらしく、普段からとにかくリプライの頻度が半端なかった。
…
J‐CASTもニュースとして取り上げているが、ネタとして新鮮なのはそれがツイッター上での出来事だからだろう。
この「おっさん」が、なぜ元増田氏に過度につきまとっていたのか。もしかすると元増田氏個人の中に「おっさん」を執着させてやまない「何か」があったのかもしれないが、可能性として一番高いのはやはり、元増田氏が「女」であるからではないか。
そう考えると、これは現実において日々起きていることとそう遠くない話ではないだろうか。
(と、ここまで書いて本文を読みなおすと、実際にこの人は「女」であると書いていないので、ここからはあくまで「女」という推測のもと書いていく。)
現実社会の中でも、女が男をナンパするのに比べ、男が女にナンパするのが多いだろう。
「女」であるからお金を払う男は、「男」であるからお金を払う女よりも、断然多い。
物理的な距離を縮小し、「見ず知らずの人に声をかけること」の異質さを弱めたツイッターなどのネットツールは、そうした「出会い」の形式を容易にしたにすぎない。
現実であろうとネットであろうと、「女」であることは得でもあるし損でもある。
でもそれはどちらも同根の事実にいきつく。
「男」が「女」を欲望する、という事実に。
根もとにはやはり、ツイッター以前から連綿と続く「男」と「女」という性差の問題がある。
インターネット社会において、人間はこの性差という名の二元論から逃れることができるのか。
80年代に活性化したサイバネティクスでは、ダナ・ハラウェイに代表されるような性差の超克というフェミニズムの議論もなされていた。
だが、僕らが今直面している21世紀のインターネット世界はどうか。
「ネカマ」という現象に代表されるように、性差によって生まれる価値は、具体性を欠き、記号性が高まればよりいっそう、短絡的に消費されていやしないだろうか。
もちろん、匿名で利用すれば、性から逃れてネット上で活動することも可能だろう。
けれど、どこまでが「性差なき自分」で、どこからが「男/女としての自分」なのか、それを厳密に区別することは自分でさえできないのではないか。
それに、この記事に対し「『19歳、都内在住の女子大生です』とエサ情報」を巻いているからだという反応も散見するが、それはどこか「ミニスカートをはくから痴漢に遭うんだ」という無茶な意見に近い。
「男」の視線から逃れるために「女」であることを意思に反して秘匿にするというのは、どうもイスラムのスカーフのようで不条理ではないか。
この記事の情報を読む限りは、過度につきまとわれ嫌な思いをさせられたのが元増田氏である以上、どうこう言われるのは筋違いだ。
批判されるとすればやはり、欲望を喚起する「女」でも、また欲望を喚起させられる「男」でもなく、個人としてのこの「おっさん」だけでしかない。
リムームすれば、ブロックすればいいではないかという発想は容易に思いつくけれど、そうすることで副次的に生まれるかもしれないリスクを実感として思い浮かべることができないのは、僕が「その性だからこそ欲望された」という経験の乏しい「男」だからなのかもしれない。
今のところ、ソーシャルメディアのなかでも僕らは性差から自由にはなれていない。
ソーシャルメディアも、「男」と「女」がいる、不条理に満ちた不完全な「社会」なのだ。
- 作者: ダナハラウェイ,Donna J. Haraway,高橋さきの
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