(前略)
俺が女の子と付き合うのはまだ早いのだと、ずっとそう思い続けてきた。
いつそういう時期がくるのかはわからないが、そのうちだろうと軽い気持ちでいた。
セックスは2次元やAVの中の出来事でリアリティがなかったから、こんないやらしいことをみんなしているなんて思いもせず、
非処女には高校のときのやりマンやAV女優のような汚れたイメージしかなかった。
でも実際は恋愛やセックスは当たり前で、気がつけば俺の方が社会の「ごく一部」になっていた。
「俺が女の子と付き合うのはまだ早いのだと、ずっとそう思い続けてきた」。
この一文に共感できる人は少なくないのではないだろうか。
年齢という客観的な数字が問題なのではない。
10代のときに恋愛やセックスが自分には「まだ早い」と思っていた人は、20代でも30代でも40代でも、「そろそろ体験しておかないとまずいんじゃないか」と客観視しながら、直感的には自分は「まだ早い」と思い続けていく。
そんな風に、おそらく何割かの人はいつまでたっても恋愛やセックスといった性愛が、「私の身の丈」にあっていないとやりすごし、年齢を重ねていく。
だけど、性愛が「私の身の丈」にまだ合っていないと思っている人に、実際の体験がないまま「私の身の丈」に合うと実感する機会は訪れないんじゃないだろうか。
どうして恋愛やセックスが現実の「私の身の丈」にいつまでたっても合わないのだろうか。
いや、もしかしたらそれは「私」の側が「合わせたくない」のかもしれない。
ドロドロとした性愛にまみれるという体験は、もちろん「私はこうである」というセルフイメージにも重大な改変を強いることだろう。
自分をまだイノセントな存在だと認識していたとして、その体験は重大なアイデンティティクライシスに引き起こすかもしれない。
性愛にいつまでたっても合ってくれない「私の身の丈」は、その防衛規制という側面もあるのではないだろうか。
◆
しかしそれでも何らかの事情で、「身の丈に合う」という実感がないまま、人は性愛の領域に踏み入っていく。
彼ら彼女らにとって性愛体験は、いわば「フライングしてしまった体験」として始まる。
「うわ、俺なんかがデートに誘っちゃってるし」
「うわ、俺なんかが一緒に映画観ちゃってるし」
「うわ、俺なんかが手をつないじゃってるし」
「うわ、俺なんかがキスしちゃってるし」……。
フライングで始まる性愛には、延々とこの「〜〜しちゃってるし」という「場違いな思い」がついてまわる。
ここには、恋愛やセックスを行動をおこしている「私」と、その行動を観察している「私」との分裂がある。
そしてこの「〜〜しちゃってるし」と観察してる「私」の想定する「私の身の丈」は、延々にこのフライングして行動を起こしている側の「私」に追いつくことができないのだ。
このように性愛を体験した後でも、感覚的には未だに「場違いな思い」を抱いている人は少なくないのではないか。
みうらじゅんと伊集院光はそういった男たちを「D.T.」と命名する。
みうら 確かに僕らはもう童貞ではないよ。でも、大人になっても童貞の気分を持っている方が絶対にいいんだよ。
伊集院 経験はしていても自分の中にはまだ、童貞が残っている場合があるんですよ。それに早く気がつくべきなんです。
みうら だから、肉体の童貞は失ったけど、精神はまだ童貞だぞっていうのを、まず「D.T.」って呼んでみようと思うんだ。
pp.11-12
- 作者: みうらじゅん,伊集院光
- 出版社/メーカー: メディアファクトリー
- 発売日: 2002/08
- メディア: 単行本
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経験があるかないかが真の問題ではない。
問題なのは、性愛に対していつまでも「場違いな思い」=「童貞の気分」を抱き続けるかどうか、ということだ。
この本のそうした主張は、画期的だと思う。
だがそれでも、童貞とD.T.の間に、体験の有無という境界線は残る。
◆
では、童貞とD.T.は何がちがうのだろうか。
童貞を童貞のまま温存させ、D.T.をD.T.たらしめたその要因は何か。
はち切れんばかりに膨張した対象へのリビドーといった内発的な要因か、勝手に向こうからやってきたという外発的な要因か。
いずれにしろ、そこには「私の身の丈」に合っていないにも関わらずそれをフライングで体験してしまうことへのなんらかの後押しがあったかなかったか、それくらいのちがいしかない。
反対に言えば、その「私の身の丈」を逸脱しないまま、「私の身の丈」という実感にしたがって生きていたら、きっといつまでたっても恋愛はできないことになる。
それが「身の丈に合っていない」と自覚する人でも、フライングしないかぎり恋愛できないのだ。
でも、そのことについてはだれもなにも、教えてはくれない。
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