いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】男同士の性愛について考えさせる「恋するリヴェラーチェ」


実在するピアニスト・リヴェラーチェの晩年を描いた伝記的映画。
リヴェラーチェをマイケル・ダグラスが、その恋人の青年スコットをマッド・デイモンが演じる。くそどうでもいいが、どちらもイニシャルがMD。

リヴェラーチェのショーに魅了されたスコットは、友人のつてで彼と知り合いになる。リヴェラーチェの飼い犬の目の病気を世話したことで、2人急接近していく。誰も信用できないというリヴェラーチェは、スコットにだけ胸の内を明かす。2人は愛欲の日々を永遠に続くかに思われたが……。

内容が元で製作が中断したという逸話もあるらしい本作だが、いざフタを開けたら確かに濃厚である。なんといってもインパクト大なのは、MD2人によるベッドシーンだろう。熱演といって間違いない絡みを余す事なく見せつけてくる。
私生活ではセックス依存症でも話題のM・ダグラスだが、この映画では熟年ゲイを好演している。彼が演じると、この人は同性以外を絶対愛せないのだろうなという、確信めいたものを感じてしまう。押しの強いリヴェラーチェに流される形で関係をもってしまったM・デイモンのスコットも、彼が他の男に流れることに激怒するさまは、乙女かと言いたくなる。なんともいじらしい。
映画は一つの恋の始まりから終わりを描いているが、それが単なる恋に終わらないのは、間違いなくこの2人の(絡みも含めた)掛け合いによるところが大きいだろう。

こうした映画を観るたびに、性的対象が同性であるということが、いったいどういうことなのか、本質的に考えたくなってくる。ネコとタチといった肉体的、体位的な次元とは別に、精神的な側面では、男女の恋愛に置換されうるものなのだろうか? どちらかが「女形」を演じているのか?
ぼくの印象では、たぶんできないのだろうと思う。いわゆる男女間の恋愛でのジェンダー非対称性といったものでは定義できないような、何か曰く言いがたいものがある。この映画でも、リヴェラーチェとスコットの関係は、ときに男同士の友情になり、ときに父子関係となることもある。多面的なのだ。
それらすべてを含んだ男同士の性愛は、「もしどちらかが女であっても成立する何か」ではないのである。自分の性的対象が、自身も保有する性であるということは、男女の関係とは違う何かがあるように思える。


大満足というわけではないが、どこか明確な不満があるわけでもない。過不足ない映画というべきか。けれど、そんなぼくのような観客も最後の「ショー」のシーンでは、ジーンとくるものがある。
あの頃はどうしても受け入れられなかった恋の結末も、過ぎた年月がよい思い出に変えてくれる。そんな経験は誰もがするところだろう。そこに異性愛、同性愛の垣根はないのだ。
最後の「ショー」を眺める幾分老けたスコットの表情には、そうした達観と満足と、過去を懐かしむ気持ちが浮かんでいる。