いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

女性お笑いコンビ・Aマッソがコントでぶつけた「絶望」

7日に放送された「ENGEIトライアウト」(フジテレビ)というネタ番組で偶然観た、お笑いコンビ・Aマッソのネタが衝撃的だった。

 

 

f:id:usukeimada:20170927153250j:plain

ワタナベエンターテインメント公式プロフィールより。

 

女芸人がコントに込めたすさまじい「絶望」

村上愛加納愛子という女性2人からなるこのコンビ。番組で披露していたのは、加納が女教師、村上が女子生徒を演じる進路面談のコントだった。

 

途中までは、未来に何の希望も持てないという生徒に、教師が何か夢はないのかと尋ねる形で進行するが、後半に入り状況が一変する。

生徒が恐る恐る実はお笑い芸人になりたい、と打ち明けたところで一転、教師が急に冷めた調子で「やめとき」とつっぱねるのだ。

 

それまで教え子の夢は笑わないと言っていたはずの教師は、芸人になってコントや漫才をしたいという教え子に向かって、「女芸人、賞レースで勝たれへんねん。客8割、女やもん」と容赦ない現実を突きつける。

  

生徒が「Aマッソ」みたいになりたいといえば、教師は食い気味で「先生、あんな女芸人一番嫌いや、見方わからへんやんか」とぶった切る。

生徒が「人を笑かすのに男女とか関係ないやん!」と反論すれば、教師は「あんねん、『男女とか関係ない』とかいうの大体、女」ときっぱり。

生徒が「先生の考え方が古い!」と批判しても、「古くて結構。これが世論!」と身もふたもないことを言ってしまう。

そしてコントのオチ。現実をたたきつけられぼろぼろの生徒が、じゃあどうすれば芸人になれるのかと問うと、教師はそっけなく言い放つ。「知らん。太れば?」と。

 

ネタ中、観覧客(たぶん8割、女)の笑い声が聞こえていたのだが、彼女らははたしてこのコントの意味を正確に理解しているのか、疑いたくなる。

このコントは、Aマッソのただの自虐ネタではない。コントそのものはとても面白かったのだが、同時に、途中から傍観していたはずの自分が指をさされていることに気づき、ドキリとさせられる強烈なコントであった

 

「ゴッドタン」 で語っていた苦悩

Aマッソのコント中、どこかでこの人を見たと思ったのだが、「ゴッドタン」(テレビ東京)だと思い出した。

何を隠そうこのAマッソの加納が、2月に放送された「腐り芸人セラピー」において「女芸人はボケを求められていない」という悩みをぶちまけていたのだ。今回のコントはまさにこの悩みの延長線上にあるといっていい。

 

番組中、加納は「芸人」として認められたいが、女芸人は「デブとブスしか求められてない」と訴えた。2人とも見た目は「(デブとブスの)どっちでもない」「普通」というAマッソは、その枠にうまく入り込めない。

ほら、先のコントで女教師が言っていたではないか、デブでもブスでもないAマッソという女のコンビは、視聴者にとって「見方わからへん」のである。

 

番組では、彼女らの先輩にあたる劇団ひとりおぎやはぎら「男」芸人らが、売れるためなら男女の別にかぎらず多少の「キャラづくり」は必要だとアドバイスしていた。

もちろんそれもわかる。それもわかるのだけど、加納の語る「(女芸人は)デブとブスしか求められてない」現状は、果たして「キャラづくり」で解決できるのか。

「キャラづくり」は、芸人がその世界で生き残るために模索する差別化であるが、「デブとブスしか求められてない」女芸人は、おそらく差別化をするための余白が男性芸人のそれに比べれば猫の額ほど狭い。

 

このとき感じたのは、女性芸人は、もしかしたら男芸人には見えない「ガラスの天井」に苦しめられているのではないか、ということだ。

 

「ゴッドタン」で加納はさらに「女芸人って、誰が売れてんねん」とまで言ってみせた。ここで「売れる」というのは、性差なく「芸人」として真に認められているということだろう。そんな女性芸人がいまだかつていたのか、というのだ。

そして加納は同性の戦友たちに「どこのチャンスとってんねん、違う種目行くのはちゃうって」と、呼びかけるのだった。

 

この苦悩をコントとして昇華したのが先のネタと見て間違いない。

コントの中で教師はこう言う。

「女芸人がおもろなってきた」って言われるけどあんなん嘘やぞ! 

テンプレートが蔓延してるだけじゃい!

 

Aマッソの二人がキー局のネタ番組でぶつけたコントに込められているのは、「お笑い芸人」という肩書とは裏腹に、数限られたテンプレという「箱庭」の中でしか戦わせてもらえない女芸人の絶望である。

 

「女なのに」or「女だから」

「女と笑い」を考えるとき、いつもぼくが思い出すのは、岡本夏生である。

2010年代前半、「おかしなコスプレおばさん」として再ブレークを果たした彼女。「5時に夢中!」(TOKYO MX)の火曜日レギュラーとして、毎週のように奇抜なコスプレをし、ネットでもおおむね好意的な話題となっていた。

 

確かに岡本は面白かった。言っていることはわけわかんなかったし(そしてその後、笑えないヤバさをきわめていったのだが、ここでは割愛…)。

しかし、岡本で笑っている自分に対して、もう一人の自分はいつも疑問を持っていた。

はたしてこれは、岡本が「女だから」面白いのではないのか? と。

同じことを同世代のおっさんがやっていたとしても、面白いのだろうか?

もちろん、彼女の努力は並大抵のものではなかっただろうが、努力と面白さは必ずしも正比例しない。努力したって面白くない人はいる。

おそらく、岡本は、「女なのに」そうしたことをするから面白いのである。

 

「女なのに」するから面白い。一見それは、困難なハードルを乗り越えたといえるかもしれない。

ただ一方で、それは反転すると、「女なのに」のハードルを一度乗り越えさえすれば、簡単に笑えてしまうという「女だから」と同義ではないか。

つまり、「女なのに」という困難は、「女だから」という容易にいとも簡単に反転してしまう

結局、「女」という呪縛からは逃れられないのだ。

 

Aマッソが相対している強大な「相手」

女芸人だって男芸人と変わらない芸人であり、同じ物差しの上で評価してほしい。

その願いはもっともであるし、そうあるべきである。

ただ、その願いを恐ろしく困難させているのは、「笑い」というものが文化的なコードにかなり依存しているという点だ。

たとえば、ゲイのモノマネをして笑いになるならば、その文化圏ではゲイがまだ「珍しい」「奇妙」というコードが支配的であることを意味する。

この人たちはこういう風に笑ってもらいたいから、視聴者もその意図を汲んでそういう風に笑いなさい、という強制がいかにナンセンスで、なおかつ面白くないのは簡単に想像できるだろう。

 

女芸人が「お笑い芸人」ではなく、あくまで「女芸人」という特殊な囲いの中でしか扱われないということは、お笑い業界のせいではない。むしろ、それを受容するわれわれ、世論の側の問題であるのだ(これが世論!)。

Aマッソがフジテレビのネタ番組で披露した「絶望」は恐ろしく深いが、一方で、彼らが相対している相手もとてつもなく強大だ。

 

しかし、そんな状況もいつの日か変わるのかもしれない。

あとからすれば、あのコントが革命の「のろし」だった、といえるようになる日が来ればいいのだが…。