いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

映画「ドリーム」(原題“Hidden Figures”)の邦題が「ドリーム」であるべきでない理由

アメリカが、ロシアとの宇宙開発競争の最中にぶちあげたマーキュリー計画。計画を成功に導いた、3人の黒人の女性のNASA職員の活躍を描くのが、本作「ドリーム」です。
時代は公民権運動真っ只中のアメリカの50年代です。3人には性差と、そして人種という分厚い二重の壁が立ちはだかりました。不当な扱いを受けていた3人が、自身の才能、技能、知識、そして根性よって、まるで成層圏を突破するロケットのごとくその壁をぶち破る姿の爽快感たるや類を見ません。

グッとくる「チョーク」のシーン

グッとくるシーンがいくつもあるこの映画ですが、中でも注目してほしいのは「チョーク」が結ぶ2つのシーンです。物語の冒頭と佳境の2度にわたり、主人公のひとりキャサリンは人からチョークを渡され、黒板で演算するよう求められるシーンがあります。それが何を意味するのか。
まず冒頭の「チョーク」のシーンで、キャサリンは数学において特筆すべき才能を見出されます。大人になりNASA職員になったあとも、キャサリンが一目置かれるのは同じ数学の才能であったということが示されるのが、2度目の「チョーク」なわけです。人種、言語、国境、そして性差を越えて通じる数学の分野において。
このあたり、ぼくがいまドはまりしているジャズの漫画「BLUE GIANT」に通じるものがあります。

現在連載中の続編「BLUE GIANT SUPREME」では、主人公は極東日本から世界を飛び出し、そのテナーサックス一本で世界に挑戦します。音楽も数学のように、様々な壁を超えて届く可能性を秘めているのです。

誰もが憧れるケビン・コスナーの立ち位置

キャサリンらの上司役を務めるケビン・コスナーもいい味出しています。こうした女性がしがらみをぶっ飛ばしていく映画はいくつもありますが、男の鑑賞者は「女たちの戦いに対し、男としてどう振る舞うべきか」を考えてしまうわけです。
間違っても、女性たちに立ちはだかる小姑みたいな役はノーセンキュー。その点、本作でのコスナーの役には憧れない人はいないでしょう。
観た人なら誰もが魅了される「トイレ」のシーンは言わずもがな。一方で、別に彼が前面に出てこすぎないのも、憎らしいほどカッコいい。もし彼がもっとキャサリンらを助けてしまっていたら、また同じ男/女の上下関係ができてしまっていたことでしょう。
彼はあくまでも国に使えるものとして、国の威信をかけてのロケット開発を指揮する、ある意味職人肌の上司なのです。主役は部下で、部下が仕事しやすいように環境を整えてるだけ。自分はあくまでも黒子に徹しているというその姿が、また痺れるぐらいカッコいいではないですか。

邦題「ドリーム」だけはやめてほしかった…

ちなみに、この作品についてすでに有名ですが、「私たちのアポロ計画」という副題がつき、のちに撤廃されました。
しかし、ぼくがもっと問題にすべきと思うのはサブタイではなく、メインタイトルのほうです。なんなんですか、この取ってつけたような、どんな映画でもいけるありふれた名前は。
それだけではありません。ぼくがこの「ドリーム」という邦題を許すことができないのは、この命名者はちゃんと映画を視たのか、ということが疑問でならないからです。
本作、宇宙がテーマですし、一見「ドリーム」というタイトルがふさわしいように思える。
けれど、ふたを開けてみれば一目瞭然ですが、主人公3人は宇宙が「夢」なわけではないのです。彼女らはあくまでも家族を養うために働く職業人なのです。彼女たちの職場が、そして差別と闘う闘争の場がたまたまNASAであったにすぎず、別に宇宙は彼女たちの「夢」ではない。少なくとも映画ではそうは描かれていないのです。

ブーブー文句垂れているだけではあれなので、最後にぼくが希望する代替のタイトルを披露し、結びとします。

映画自体は最高に面白かったので、お勧めです。