いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「自己卑下のような自己賛美に終始するウチダタツル」のツイートにワロタw

今月の初め、こういうトゥゲッターがスマッシュヒットを飛ばした。


Togetter - 「「自己卑下のような自己賛美に終始するオンナノコ」を模倣する」 Togetter - 「「自己卑下のような自己賛美に終始するオンナノコ」を模倣する」


「自己卑下のような自己賛美に終始するオンナノコ」とは、「自分を卑下しつつも、その実、自分のプライドやセンスを高めに持っていく言動が上手い女性」のことである。女の社会は男の社会の様に単純ではない。自慢がもとで、集団からハブられる危険性だってないとはいえない。だからそうした高度なコミュニケーションが発達したのだろう(もっともそれがバレとるからこうやってトゥギャられているわけだが)。


鬼塚ゆり氏が始めたこのつぶやきに共感した人をも巻き込み、その名も「#fakegirlstalk」というハッシュタグのもと、次々と「名作」が生まれていった。このまとめが「いるいるいるwww」や「イラッとくるwww」という反響を呼び起こしてホッテントリ入りも果たしたのだ。



例えばこういうやつ。


【誤解されやすいアタシ】何っとも思ってない男のコに告白されるたびに思う。あたしってそんなに軽そうに見えますかー!?思わせぶりなコトしてるつもりは全然ないんだけどな…でも、そういうふうに見られてるんだよね…。気をつけなきゃ。 #fakegirlstalkless than a minute ago via HootSuite


ぐわぁ…引用しておいてなんだが、なかなかイラッさせられるではないか。こういう人が“周りにいそう!”というリアリティも、さらに面白さを付加している。





ところで僕は、こうした「自己卑下のような自己賛美に終始する」言動というものに、「どこかで読んだような、読み慣れているような・・・?」というデ・ジャブの感覚を抱いた。そして今日、その人がいったい誰なのかに気づいた。そのお方は僕のtwitterのタイムラインにいらっしゃったのだ。



例えば、上で引用したツイートの「何っとも思ってない男のコ」を「大手マスコミに原稿を依頼される」に変換し、「思わせぶりなコトしてるつもりは全然ないんだけどな…」を「専門家でない私なんかでいいのでしょうか」に変換して、ニュアンスをいじればアーラ不思議、このお方のツイートに変身する。


朝日新聞の紙面審議会の仕事を来年の四月からすることになりました。僕なんかに紙面批評させていいのかなあ。来年から天下の素浪人になるはずなんですけど、仕事がだんだん増えてゆくようで、すんごく不安です。less than a minute ago via Twitterrific

おお、まさにこれは「自己卑下のような自己賛美に終始するウチダタツル」ではないか。


腐っても大手マスコミの朝日新聞である。その紙面の審議会に呼ばれたということは、氏の今の言論界でのプレゼンスが高まっていることをきわめて明瞭に示している。そのことを、おそらく、おそらくであるが彼自身も知っている。知っていながらも、「僕なんかに」と軽く自虐を入れ混ぜながらこうしてシレッと「つぶやく」。なかなか「イラっ」とさせられるではないか。


それはtwitterだけの話ではない。内田氏の大人気ブログでも、本論に入る前にちょいちょいこうした話を枕にはじまることがあり、そちらでも我々読者な、なかなか「イラッ」とさせられるのだ。

「オンナノコ」とは言うものの、考えてみれば「自分を卑下しつつも、その実、自分のプライドやセンスを高めに持っていく言動」というのは、若い女の子に限らずきっと全世代的に行われていることだ。高校生が放課後のマックで、OLが休み時間の給湯室で、専業主婦が昼下がりの団地の公園でやるのと同じように、「おばさん」的知性を自称する内田氏は「イラッ」とくる言動に関しても、格段なる冴えを見せてくれる。





今年も終わろうとしているが、思想系でのベストセラーはというと、まず思い浮かぶのはサンデル本で、次に思い浮かぶのはおそらく内田氏の『街場のメディア論』だろう。「内田バブル」は昨年の『日本辺境論』、いやもっと前からずっと続いている。若手が思想をマッピングしている間に、日本人に限定すれば今年もほとんど内田氏の独走状態といって差支えないだろう。


内田氏の“私家版構造主義”によって物事を快刀乱麻にさばいていく文章は、たしかに読まされるものがある。読み心地のいいのは確かなのだ。思想的ポジション、主義主張の正当性とは別次元で、そのことに対して異論を唱える人は少ないだろう。だからこそ本も売れるのだ。
そんな内田氏の一連の著作が既存の人文科学へのアンチテーゼとして機能したことは、確かである。これまでふんぞり返っていた人文科学の書き手の、スノッブで閉鎖的で、難解でいて結局大したことは言っていない言説が、近年の読者にほとんど届かなくなりつつあることは明白だ。
内田氏が彼らにほとんど逆行して行ってきたことは、評価しつくしてもしきれないほどものがあると、僕は思う。



だが、そのこととイラッとさせられるのは別問題である。




こんなことを書くと、じゃあお前はもう内田氏のブログを読まなければいいではないか、twitterもアンフォローすればいいではないかと内田読者の皆さま方が言われるかもしれないが、ちょっと待ってほしい。「イラッ」としてしまうことと「否定する」ことは、これまた別問題なのだ。


現に、僕は氏の多くの著作をすでに読んでしまっている。僕自身、歴然とした「内田読者」なのだ。氏と近い世代、近い立場の人の中には彼のあのような物言いに心の底から「イラッ」ときて健康を害している人もいるかもしれないが、氏と世代的にも立場的にもまったく近くない僕にとっては、氏と適度に離れているせいか、氏の「イラッ」とくる言動が適度に心地よく「イラッ」とくる。「いた気持ちいい」ならぬ「イラ気持ちいい」のだ。


日ごろから僕らが「自己卑下のような自己賛美に終始するオンナノコ」にイラッとさせられながら同時に彼女を激しく欲望してしまうのと同様に、僕らは「自己卑下のような自己賛美に終始するウチダタツル」氏にイラッとさせられながら同時に彼のディスクールを激しく欲望してしまうのかもしれない。