いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

モデルが「普通の子」になっていくのは当然の流れなのかもしれない

モデル界に大異変


小林さり(モデル)
モデルといえば、高身長でスリムというのが相場。だが、小林さり(19)の場合、身長157センチと小柄ながら、人気女性ファッション誌「JJ」の専属モデルとして活躍中なのだ。
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http://gendai.net/articles/view/geino/126640

今日の5時に夢中!を見ていて、この夕刊ゲンダイの記事が取り上げられていた。
彼女のように小柄な女の子がどれだけモデル業界に参入しているのかは、本当のところはわからないが、もしモデルの体型が記事のとおり平凡な日本人体型へと標準化されていっているとすれば、それはしごく当然のことのように思える。


前から僕の頭の中でうごめいていたのは、なぜ日本の人気モデルというのは海外のモデルのファッションやスタイルやメイクをまねるのかな問題である。というのも、彼ら彼女らが相手にするのは、あくまで日本人なのだ。


例えば冨永愛のように、本場に行って活躍しているならばわかる。郷に入れば郷に従えで、向こうのモデルのような体型でないと務まらないのだろう。
だが、日本での日本人向けのファッションショーにて、日本全国津々浦々どこを探しても見当たらないような超人的体型のモデルが着て歩いても、それに意味はあるだろうか。


もちろん、スタイルのよりよい人が着た方が、服が映えるということもあるだろう。だが、限度というものがある。


こんな風に思うのは、僕自身、なんども痛い目に合った経験があるからだ。僕の身長は日本人男性の平均をやや下回るのだが、たとえ平均であったとしても、雑誌や広告で見かけるモデルは背が高すぎるし、足が長すぎる。例えば俳優の阿部寛エロ男爵沢村一樹はモデル出身だが、両者ともに180オーバーだ。どこが「モデル」なんだ。めちゃめちゃ長身ではないか。


彼らで似合うということは、その服は僕にはまったく似合わないということを意味する。そのような長身で足が長く、おまけに顔が小さなモデルたちが紙面を飾るファッション雑誌の紙面が僕に指南しくれるアドバイスは必然的に、「このシャツは着るな」「このズボンは着るな」という否定形の形をとることになる。アドバイスしてくれる分にはまことにありがたいことだが、否定されながら育った子供が卑屈になるのと同じように、体型の恵まれない人間がファッションから遠ざかっていくのは、よくわかる。すごくわかる。


それに今やリアルクローズが持てはやされているわけだ。会場でケータイから服が買える東京ガールズコレクションが象徴するように、きわめて実利的になっていきているわけだ。そうやってますますファッションが「民主化」されていくなかで、モデルの側も「リアルモデル」になっていくのは、当然の帰結だ。


ただ、そうなるとモデルになるということが、女の子にとってぐっとハードルの低いことになったといえる。このニュースのときにマツコ・デラックスが激怒していたが、従来モデルと言われていた人たちの努力は、日々のエクササイズから食生活の管理まで、並大抵ではない。必然そこにはモデルとしての「プロ意識」がなくてはならない。

それに対して、標準体型で顔がちょっとかわいいからといって簡単になれてしまう「読者モデル」なんていう存在は、ちゃんちゃらおかしいという話なのかもしれない

かくして、藤原紀香問題でも論じたことだが、多くの「タレント」に対しての「なんでこの人有名なの?」という社会の疑問は、ますます膨れ上がっていくだろう。タレントと素人を分ける境界線なんて、本来あってないようなものなのだ。だが逆説的ながら、だからこそタレントは人の欲望をかきたてる。嫉妬と憧れと憎悪が渦巻く世の中、とてもわくわくするではないか。