いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

第三者頼みってときあるよね


蜷川実花さんのツイートからわかった日本をまとめてみました - Togetter


著名な写真家でさくらん蜷川実花さんのつぶやきから発展したトピック。なんでも、寝ている息子さんを乗せたバギー(ベビーカーのこと?)を押して駅の階段に出くわした際に、周囲にいた日本の男たちがまったくもって手伝ってくれなかったという体験に対する、驚きを表明したツイートだ。



この議論に対して共感する人もいれば、反対に自分で頼めばいいじゃないかという批判もあって賛否両論になっている。
途中、外国ではうんぬんという話に飛び火し、それに比べて日本の男はダメよねーぷんぷんという話になり、さらにそれは本当に「外国」なのか?という声もあがっている。たしかに、ここで外国もちだすのどうなの?外国じゃホントそうなってんの?という話ではあるが、これは先ごろ盛り上がったインド人親すげぇ話と同系で、彼女の意図したと思われる「街中で困っている人間がいたら知らない人でも助けてあげるべき」という意見そのものは、(外国で実際にどうなっていようと)「聞くに値する意見」ではないかと僕は思うわけだ。


ではなぜにこういう反発を招くのかというと、ここには「自己言及のパラドクス」があるからだろう。世の中にはヴィトゲンシュタインが研究したのとはまた別に、もうひとつの「自己言及のパラドクス」というのがあるのだ。それは、自分で言いたいけれど、自分で言うとどこか横柄な感じがして反発を招いてしまう、というタイプの言葉のことだ。



例えばこれは、後輩いびりが趣味の先輩社員からの仕打ちに日々のストレスをため込んでいた後輩社員が、ある日ついにブチぎれて「若い芽をつぶす気かぁぁ」と自ら怒声を張るというシチュエーションに似ている。時と場合をまちがわなければ「若い芽をつぶす気かぁぁ」というセリフは、たいていバシッと決まるものだ。だがなぜだかこのシチュエーションはバシッと決まった気がしない。むしろ周囲で聞いていたらイラっとくるはずだ。

そいつが育てる価値のあるほどの若い芽なのかはともかくとして、理不尽ないびりに対しての彼の文言は「言っていることは正しい」のである。だが世の中、言葉の内容だけがものごとを左右するわけじゃない。言っている内容というよりこれは、決定的に言っている人がだれか、という問題なのだ。



もちろん蜷川さんは「あたしが街で困っていたらたすけろや」と言いたいわけではない。彼女は、たまたま彼女が言及した「街中で困っている人間」のトップバッターに来ているにすぎず、そのあともずーっと長く続いているであろう「街中で困っている人間」の列のためにもいっていることは明白だ。

だが、言明によって受益する者のトップバッターが彼女本人であるというその事実が、聞いている人のある一定数の反発を招くと考えられるわけだ。



こういうとき、ではどうするべきか。思いつくのは「第三者が言ってあげる」という方法だ。先の会社の例だと、いじめる先輩といじめられる後輩の間にはいって、「若い芽を潰す気かぁぁ」を言ってくれる第三者の社員の存在を噛ませる必要があるわけだ。ほら、これだとバシッと決まる。


蜷川さんの出くわしたシチュエーションも、彼女以外の誰かがツイートしていればそこまでの反発を招かなかったのかなと思った。しかし、それだとツイートしてる暇があるならお前が手伝えよという話だ。では手伝ってあげたあとにツイートするべきか。そうすると、「なんだお前、労をねぎらってほしいのか」というまた別の「自己言及のパラドックス」が生まれる。だから、蜷川さんを手伝っている「第三者」を目撃した「第四者」がつぶやけばいいのである。あーめんどくさ。