いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

それは今すぐ、結論をださなければならないことなのか

http://anond.hatelabo.jp/20090623012906


増田にしては、中々長い文章。あっちにいったりこっちに来たりする具合からみて、のっちへの思い入れが強い(強かった?)ことがわかる。


こういうファン心理、僕はあまりよく分からなくて、実生活の人物と「タレントしてるときのタレント」、二人を予め分化して、タレントとしてるときのタレントだけ消費すればいいじゃないか、と簡単に思ってしまう。そうすれば、実生活の人物が葉っぱ吸って御用になろうが、公園で素っ裸になろうが、恋愛しようがセックスしようが結婚しようが、痛くもかゆくもないではないか。そこに分化がないということは、裏を返せばファンの人は「あわよくば自分が彼/彼女のパートナーに…」という淡い期待があるのではないか、とも思っていた。
しかし以前、ポルノグラフィティーのハルイチの熱狂的なファンだという女の子に聞いた話に寄れば、もちろんタレントがタレントしているときのそれが虚構であるというのは「わかっている」との答えが返ってきた。彼女は勿論分かっている、しかしそれでもなお、ハルイチが実生活においての結婚を発表したときは、足が立たなかったそうだ。おそらく、彼女の中でハルイチは二人に分化してもなお、その二人は地続きにつながっていたのだろう。そしてそこが地続きになっているからこそ、その子もハルイチに狂うことができるのだろう。


閑話休題。元増田さんはアイドル、一般人を問わず、人を認識すること自体に相手の「キャラ化」は不可避的にともなうのではないか、と問う。
確かに。
そして、実態としての相手がまず存在して、キャラ化した脳内の相手を、それに暫定的に実態の方のそれにあわせていく作業だとも、書いている。しかし、どこまで行けばいいのか、そのキャラ化に終わりはないのではないか、と増田さんは問いを投げかけたところで終わっている。

文章全体に対して、僕は異論がない。元増田さんの描いた状況に大した間違いも、ないと思う。間違っているというか、「僕とはそこの考え方がちがうな」と感じるのは、この文章の大前提だと、思う。


元増田さんの問題意識の中に何にも増してある大前提は、おそらく相対する人間とどうつき合っていくかという問いに対する「最終解」を、今まさにここでださなければならない、という切迫感だ。過度に誇張した人のキャラ化は危険であるし、相手の「ありのまま」を見出そうとしても、それは不毛に終わる。なら両者のどこかで「適当」に線引きすればいいではないかという問いを自らに投げかけておいて、それもまた否定する。おそらく元増田さんにいわせれば、適当であるかぎり結局それは(仮)であり、「最終解」が手に入ったとはいえないからだ。だから、「適当路線」に路線変更したとしても、元増田さんが最終解決を求める限り、その悩みは消えることはないのだろう。


でも適当であることは、問いの答えを先送りにすることは、はたして問題なのだろうか。相手をキャラとしてあつかうか、それとも「ありのまま」を見極めようとするのか、それ自体を適当にすることに、問題はあるのだろうか。「あいまいな関係」というと、すこし悪いもののように聞こえるが、常に(仮)のままで、相手から何が飛び出して来るのかわからないという関係性も、実はスリリングで楽しいと思うのだが。


……
ここまで書いてみて、ふと思った。元増田さんの抱えている悩みとは、一種のアイデンティティクライシスなのではないか、と。
普通アイデンティティクライシスは、「私とは何なのか?」という、自分自身の同一性の「揺らぎ」に起因する「危機」だ。一見、「他人のキャラ」の曖昧さというのが他者の認識の部類におさまる以上、自分のアイデンティティが危険にさらされることはありえない、と思える。
でも本当にそうか?

実は僕らは「相手はこういうキャラだ」という認識を構築していると同時に、「そういうキャラの相手とつき合っている俺」をも根拠づけている、とも言えるのではないか。そうなると畢竟、相手のキャラクターの揺らぎの波紋は、自分のいる距離にまで到達する。自分という存在にさえ、疑問が生じるのかもしれない。


元増田さんの文章の切迫感した問題提起というのは、のっちが彼の「理想化したのっち」でなかった、彼の中ののっち像の揺らぎの証拠であるとともに、そういうのっちを今まで応援してきた、彼自身の揺らぎなのかもしれない。