いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「好き」は報酬じゃない

「今時よくいる馬鹿な女は無理なんだよね」と言っていた人を好きになった。
見た目を適度に鍛えて、清潔感を大切にしていた。
ゆるふわとかモテ服とかじゃなかったけど、
キャリア系の雑誌を読んで、きちんと見えるようにはしていたし、
化粧も髪型も、人並みにはちゃんとしてたと思う。
女の後輩たちや、友達には、「憧れる」って言って貰えて、
男の人からもたまには声をかけられたりしていた。
そんな時、好きだった人に
「お前みたいにちゃんとした人が好き」って言ってもらえて、
付き合うことになった。
自立してない女は無理って言われたから仕事頑張った。
(後略)


私はどうすればよかったんだろう。 私はどうすればよかったんだろう。

数日前にバズった匿名記事。
好きな彼氏のお気に召すままに、元増田さんは頑張って「自立した女」を演じていた。
相手に従って「自立した女」を演じることの倒錯はさておき、そんな彼女は突如、彼氏を(たぶん)「自立していない女」に奪われてしまう。


この文章を読んでどのような感情をもつかは人それぞれだが、ここから我々が学ぶべきは、「好き」を報酬としてとらえたら痛い目にあう、ということではないか?
だって、相手の「好きなタイプ」を演じてどんなに「好き」って気持ちを伝えても、その見返りに「好き」という気持ちの報酬をもらえるとは限らないからだ。
個人として、現に「好きなタイプ」というのは存在する。けれど、その「好きなタイプ」を積み上げていって、何から何まですべてそのとおりの相手が目の前にあらわれたって、その人をずっと「好き」でいられるかは、本人にだってわからないのだ。


そんなの身勝手ではないか、といわれるかもしれない。すいません。
でも、「好き」になるときはなるし、「好きにならない」ことや「好きでなくなる」ときはそうなってしまうのだから、しかたない。

そもそも、この文章で書かれている事態は、特殊なことなのだろうか。ぼくはそうは思えない。
一般的な恋愛を考えよう。
「ほぼ同時」ということも中にはあるだろうが、普通ぼくらはなんらかの形で「好き」を伝え、それに対して「好き」が返されたら、両想いの恋愛が始まる。
でも、相手から返ってくる「好き」は、はたして報酬なのだろうか。
ちがうだろう。
そんな論理的なプロセスを踏む前に、勝手に「好きになってしまう」のだろう。
わかりにくい?すいません。


つまり、
「好き」といわれたから「好き」になった。
と、
「好き」といわれて「好き」になってしまった。
は似ているようだが、この二つの間には千里の径庭があるのだ。
前者であればそれは報酬になるが、後者であればそれは報酬のようで、実は報酬ではない。それはまったく別の、新しい「好き」な気持ちにほかならない。
だから、「好き」といわれたって「好き」になれなかった、ということも十分にありえる。
そういう点で、報酬として「好き」を求めるのは途方もない行為であるということは自覚しておいた方がいい。
「情にほだされ」ということもありえるが、それは情でしかない。


「好き」というのは、親切心のサブジャンルとしてとらえたほうが生きやすくなるのではないだろうか。
親切も、お礼という見返りを求めて行ったら痛い目にある。それがもとで不快な気持ちにさせられた人もいるんじゃないだろうか。
お礼を言わない方も言わない方だが、それで怒るなら親切をした側だっておかしい。
親切はそれ自体が目的でなければならない。
親切は「相手に喜ばれたいからする」のではなく、「親切をしたいからする」でなくちゃいけない。
「好き」だって実はそれとまったく同じことなのだ。