かつてのパリに憧れる小説家志望の青年が実際にパリに訪れ、真夜中だけ20’のパリへタイムスリップできる不思議な体験をするというロマンチックコメディ。
B級映画の脚本のリライトで生計をたてているギル・ペンダーは、婚約者のイネスとパリに旅行におとずれる。彼にとって古都パリは憧れの地であり、住みたいとさえ思っているが、将来的にはマリブ(カリフォルニア州にある地名。日本でいう軽井沢的な?)に引っ越したいと思っているイネスや彼女の両親にまったく共感を得られない。早さと効率を重視する彼らアメリカン(ギルもそうだが)にとって、パリは渋滞が多く、住みにくい古びた街にすぎないのだ。懐古主義のギルは悲嘆にくれる、「もっと古い時代に生まれたかった!」と。
まず、ぼくが面白いと思ったのはこのギルという人物設定で、彼はもう超がつくほどのパリかぶれでミーハーなのだ。ここらへんは、彼と似ても似つかぬのっぺり顔をしたわれわれ東洋人にも、共感できるところではないだろうか。パリへの憧れをモチーフにした作品はこれだけでなく、近年ではサム・メンデスの『レヴォリューショナリーロード』がパリへの移住を夢見た妻と夫の破滅を描いている。日本人にとってパリとは「欧米」の一角を占める憧れの地であるが、その一方でアメリカ人にとってもパリは単なる外国ではない、特殊な空間なのかもしれない。
偶然イネスの元カレと遭遇し、二人がイチャイチャしだすという散々な目にあったギルが、一人ほろ酔い気分で街をさまよっていると、深夜12時の鐘の音とともに古びた自動車が横に止まり、彼を半ば強引に夜の街に連れて行ってしまう。
ここから物語が動き出す。彼はそのまま、彼の憧れていたパリの20’にタイムスリップしてしまう。とくに芸術に明るい人なら、その時間とその場所がいかに「アツい」かわかるだろう。シュールレアリスムが勃興し、数々の文豪が跋扈したそこは、街全体がひとつのサロンのような趣の遭った芸術の都パリの黄金時代なのだ。
ここから、ちょっとしたゼネレーションギャップコメディのような展開によって、観客は明るい笑いにつつまれていく。
この映画で巧いと思ったのは、このタイムスリップ(的な)設定に作品自体があまり深く拘泥しなかったところだ。前に扱ったMIB3のように、タイムスリップ設定は拘泥すればするほどズブズブ沈んでいく落とし穴みたいなやっかいなものだ。この作品でも、一部タイムパラドックスで笑いをとる箇所はあるものの、それ以外はなぜそうなったか、という原理論には深くいかない。なぜなら、このタイムスリップの設定そのものより、もっと大事なメッセージがこの映画には込められているからだ。
タイムスリップの途上で、ギルはイネスとは別のある歴史上の女性と恋に落ちる。それまで、懐古主義を隠さなかった彼だが、当のその時代の彼女から、思いも寄らぬ言葉を聞くことになる。そこで彼は一つのことに気づき、彼女とちょっぴり切ない別れをし、現代に戻ってくる。
ぼくは個人的に、この映画は「憧れ」についての一つの考察だと思っている。70’にだれかが憧れていたとして、その人が憧れる「過去」としての70’と、当時の人が生きた「現実」の70’はちがうのだ。「憧れ」とは、馬の頭の前にぶら下げられたニンジンのようなもので、それが手に入らない限りにおいて「憧れ」なのだ。
けれど、そう考えると元気がわいてこないだろうか?多くの日本人にとって、おそらく「今」は誇れるような時代ではないのだろう。けれど、もしかするとこの先、何かのきっかけで2010年代だって「憧れ」として振り返られることがあるかもしれない。
そのキャリアのほとんどをニューヨークに捧げてきたウディ・アレンだが、パリに憧れを抱くギルへのまなざしは、とても優しい。その一方で、クライマックスのバスローブ三人衆などアメリカ人とアメリカ的価値観(としてこの作品内で描写されるもの)は、遠慮なくシニカルな笑いに変える。ここらへん、どういう見解なのか聞いてみたくもあるが、とりあえず一点、パリジャンだって傘さすわいと、パリジャンの誰かが怒っといていいと思う。