Twitterのタイムラインにこんな記事が流れてきた。
<問1>
あなたは、平均時速30キロで走る車に乗って、とある女子とのデートの待ち合わせに向かっている。
その途中、相手の子から受信したメッセージに答えよ。
女子「雨ふってきた (>_<)」
<ヒント>
女子「今日のために買ったワンピース、見てもらうの楽しみ o(´∀`)o」
女子「真っ白だから汚さないように行くね 」
女子「結構、激しく降ってるー *1」
女子「気をつけて行くから遅れちゃいそう、ゴメンね (>_<)」
こういう「男察しろよ」みたいな話は定期的に盛り上がるわけであるが。
こちらのブログで紹介されている有名コピペ。
女『車のエンジンがかからないの…』
男『あらら?バッテリーかな?ライトは点く?』
女『昨日まではちゃんと動いてたのに。なんでいきなり動かなくなっちゃうんだろう。』
男『トラブルって怖いよね。で、バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
女『今日は○○まで行かなきゃならないから車使えないと困るのに』
男『それは困ったね。どう?ライトは点く?』
女『前に乗ってた車はこんな事無かったのに。こんなのに買い替えなきゃよかった。』
男『…ライトは点く?点かない?』
女『○時に約束だからまだ時間あるけどこのままじゃ困る。』
男『そうだね。で、ライトはどうかな?点くかな?』
女『え?ごめんよく聞こえなかった』
男『あ、えーと、、ライトは点くかな?』
女『何で?』
男『あ、えーと、エンジン掛からないんだよね?バッテリーがあがってるかも知れないから』
女『何の?』
男『え?』
女『ん?』
(長いので後略)
これ、初めて読んだとき意味がわからなかったのだけど、「女」は「男」に対して、「車で迎えに来い」と言いたいらしい。
これらのエピソードに出てくる「女」というのは要するに、「私には愛される価値があるわけだから愛されて当然で、けれど愛してと頼むこと自体ちょっと愛され度が低まるわけだからテメェが気ぃきかせてさっさと察しろよ」と言いたいわけである。
でもさすがにこんな人ばかりでもないだろう。女性の中にも、「私には愛される価値がある」という自覚がある人とない人がいる。
自覚がある人は、傘をさしてやってきた男に、車を運転してやってきた男に、「ありがとう>< 『男』くん気がきくね!」といいながらも、内心では自分がされて当然のことをされたまでよ、と思っている可能性がある。
対する自覚がない人は、迎えになんかこられたら恐縮するのかもしれない。まさかそこまでしてもらわなくても……と。
けれど、この「愛される価値」は客観的な事実ではない。それは本人だけが自覚するものであって。「愛される価値」があると自覚しているかどうかは、要は厚かましいかどうかである。
ではでは、これに対して男の方はどう思うのか。
さっぱり思わなかったがぼくのようなアホも一定数いるだろうが、実は少なからず「察してた」、というより、「迎えに行ってあげてもいいかな」と思っている男もいるのである。
で、そうした人の中には、素直に迎えに行く男もいるかもしれないが、できないという人もいる。この両者をなにが分かつかというと、それは「おれには愛する価値がある」という自覚があるかどうかなのである。ここには「※ただしイケメンに限る」問題が、伏流している。
ここで争われているのは、自分が女性にたいしてそのようなサービス精神を出したいかどうかの問題ではない。そうしたサービス精神を出す権利がある自意識イケメンか、出す権利がない自意識キモメンか、なのである。
「出す権利のない人間」と思い込み自意識キモメンはこう考える。もし迎えにいったら気持ち悪がられるんじゃないか、ストーカー呼ばわりされるんじゃないか、そうしたことを「察して」しまうのだ。
つまり女性が出した「察しろ」サインを、男の方は男の方で、あーでもないこうでもないと解読した上で、「察しません」という回答をしているかもしれない、というわけ。
なんか、ものすごいめんどくさいことをしているように感じるのはぼくだけだろうか。
ところで最近こういうのを読んだ。
友人いわく、なんと海外では女性と付き合う前に、「僕は君のことが好きです。付き合ってください。」というマニュアル的表現やフローは存在しないのだそう。
「恋愛はフィーリングだから、そんなこといちいち言わなくてもいい。二人の心の問題だから、それは口に出す必要はなくお互いに感じるものだ」とのことでした。
(中略)帰国中の友人によると、「好きとか言わなくても、好きかはわかる。」「基本的にそもそもNOだった場合、食事やデートの誘いには行かない。」「思わせぶりな対応は面倒くさいので基本的にはしない。」「自分の気持ちのまま相手に接する。」だからあえて日本風な「告白」はないとのこと。
このコラムを読む限り、海外にはフィーリングとかいう特殊能力の使い手がいるらしい。
よく洋画なんかで、オシャレなバーでオシャレな会話をしたオシャレな男女が、そのままオシャレによろしくやるという描写があるけども、このコラムが本当ならば、事実らしい。
「察する」とか「空気を読む」というのはまぁ一つの美徳であることはちがいないのだけれど、こんな風に野生的に生きるっていうのも、これはこれでアリだしかっこいいと思ってしまうわけなのだ。
*1:+_+