一言で言えば、原作と別物と考えたら面白かった!である。
これまでと同様、全編にわたり正とも負とも見分けのつかないパワーに満ちあふれた映画だ。役者のエクストリームな演技と強烈なメッセージ性(やたら説教臭い言葉がつづくのに、なぜ園さんの映画はクドくならないのだろう?)が炸裂して、退屈する暇がない。
なのだが、原作を知っている身からすれば…
園さんの一連の作品に通奏低音するのは「家族の崩壊」というテーマだ。それは今作にも続いている。しかし、原作で家族という問題は実は背景にすぎない。主人公住田くんにとって大きな問題、もっといえば古谷実作品に通低するのは、家族という具体よりもっと漠然とした「普通」というものへの執着なわけだ。それは古谷作品、とくに後期のそれには共通する。
こうした原作と映画版のちがいを象徴するのは、住田くんの父親のキャラクターの改編だ。夜野が”夜野さん”になっていることを気にする人が多いだろうが、個人的にはこちらの改編の方が物語的に大きなちがいだと思う。
原作でもこの父はどうしようもない人間として描かれている。しかし、どうもそのどうしようもなさの方向がちがう。原作では細々と生きる住田くんの母子家庭に、この父親はのっぺりともたれかかるように依存し続ける。住田くんは瞬間的な怒りでこいつをうっかり殺してしまい、うっかり「普通」からはじき出されたからこそ、彼は苦悩するのだ。一方、観た人ならおそらく誰もが思うことだが、光石研が演じるこの映画での父親ははっきり「逝ってよし」という凶悪なキャラクターになってしまっている。これだと、物語的に主人公の苦悩の意味は弱まってしまう。「こりゃ殺したってしかたねーよな」という父親なのだ。
また、蛇足だと思ったのは、茶沢さんの「家庭の事情」の方だ。彼女のうざいハイテンションストーカーキャラへの改編を怒る声もあるだろうが、ぼくはそれよりこのこちらの方が気になった。茶沢さんの家族は、見方によっては住田くんち以上に狂ってしまっているが、彼女もこうならば、なにも問題を抱えているのは住田くんだけじゃない。彼女は「住田頑張れ」と応援している場合じゃない。
だが、これらのイチャモンはあくまで「原作と比べて」であって、繰り返すが映画の方は独立した作品としておもしろかった。
ところで、この映画は被災地で撮影され、劇中内も大震災後の世界という原作漫画にはない設定が付与されている。震災が関連づけられるということは公開前にどこかで聞き、古谷実初の実写化がそれも園子温によって手がけられる!と期待していたファンの身からすれば「マジかよ…」という暗澹たる気持ちになった。実際観てみると、映画そのものを台無しにしているわけではないものの、「この設定はなくてもよかったんじゃね?」とも思えた。
が、これはこうするよりしかたなかったんじゃないか、と思えてきた。
というのも、最近ライムスターの宇多丸氏のラジオ番組にキリンジの二人が出演した回のポッドキャストを聴いていたら、その中で興味深いことをいっていた。震災後にリリースする楽曲について言及したとき、堀込泰行曰く「あんだけ大きなことがあって、それに触れずに何か表現するっていうのは無理だと思う。そのスタンスでいくしかない」。
これを聴いて、ぼくは膝を打つ思いをした。ああ、そういうもんかもしれない、と。
もしかすると、この映画を作る上で震災という要素が盛り込まれたのは不可避だったのかもしれない。しかしそれは”チャリティームード”といった外圧に流される形ではなく、もっと内発的な、監督を始めとする作り手側の生理的なレベルの問題として震災は盛り込まざるをえなかったと考えるべきなのではないか。たとえその表現の仕方が稚拙であろうと、独りよがりであろうと。
震災によって様々なものが破壊され、形を変えられた。そんな中で、映画だってもともとあったアイデアが破壊され変形してもおかしくない。
いつでもどこでも同じ味のカップヌードルを作っているわけじゃないのだから。