いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

売り物になる「顔」と売り物にならない「顔」

人の「顔」について興味があるとは前に書いたけれど、その続き。
テレビを見ていると、有名人ではない一般の「テレビに映ること」が本職でないという人も、当然何らかの形で画面に映るということがある。


そういうとき、なめらかだったはずだったもののなかに、なにかひとつだけザラついたものが入っていたときのような違和を抱いたりすることはないだろうか。



ことわっておくと、これは美醜の問題ではないと思う。テレビに出る「タレント」というと、確かに世間一般に比べ容姿に自信のある美男美女がいるだろうが、それだけではないだろう。タレントには「醜さ」で売っている人も少なからずいて、そういう人たちも一般の人に感じるようなザラつきを感じるかというと、そうではないのだ。

見慣れているから、という説もある。
例えば、毎週月曜から金曜までウキウキウォッチングしているうちに慣れが形成されたからこそ、タモリのあのオールバッグに色の濃いグラサンが違和を感じることが、我々日本国民にはないのかもしれない。

しかし、そうならば、地球には圧倒的に見慣れてない顔の人ばかりなのだから、街中なんて「違和感」だらけだろうという気もするけれど、そういうわけでもない。あくまでタレントと一般人が、テレビ画面に同居したときにかぎり、一般人にザラついた違和感のようなものを抱いてしまう。



端的に言うとこのザラつきの有無とは、「顔を見られているという受動性の意識」の違いなんじゃないだろうか。そしてそれは、顔の表情の有無という形にて、具現化される。


このことに考えているうちに気づいたのだけれど、一般人というのは顔が美しくても醜くても、総じて「表情」がないのだ。

あるとき学校内で遠目に知り合いの子を見つけた。声をかけようか迷ってやめたのは、その子がそのとき心なしかもの悲しそうな表情だったからだ。なにか直前に悲しい表情になるようなことがあったんだろうか。そこから何か今は話しかけてはいけないような気がして、声がかけられなかったわけだ。


だが、実際あれは「悲しい表情」だったんだろうか。
もしかして、人間が表情筋を完全にゆるめているデフォルトの状態一般が、「悲しい」の記号として解釈されるものなんじゃないだろうか。


ためしに、デジタルカメラとか写メールで自分撮りしてみてほしい。
表情筋を全く動かさず、いわば「素」の状態で撮ってみる。
すると、素の状態でもそこそこ「ふつうの表情」をしているだろうなという自分の予想や期待は、見事に裏切られる。
撮った画面に映っているのは、「ふつうの表情」よりもっと陰湿で、陰険で、眠たそうな顔ではないだろうか。



一方タレントというのはどうだろう。
一度、とあるバラエティ番組をミュートにして別の作業していたのだけれど、ふと画面に目がいった。
すると、そこでは「異常な光景」としか言い様のない光景が繰り広げられたいた。
別に出演者が全員全裸で踊っていたとか、そういうわけではない。
それは、誰かがエピソードを話したあとで他の出演者が手を叩いて笑っているという普段見慣れている光景なのだ。
だけれど、そうやって一歩外から眺めてみるとわかる。テレビの中の人たちって表情が「豊かすぎる」のだ。


これに気づいたのは、直前までの話をすべて聞かず、いわば「文脈の外」から眺めたからであり、いつものように観ていたらきっとそれは普段の見慣れている「テレビ」になっていたことだろう。



テレビに出ているという人は、「テレビに映ること」が血肉化している。
口角をどう挙げればどう映るかだとか、自分の顔は左右どちらから観られた方が見栄えがするかだとか、自分の顔の隅から隅まで熟知している。
その熟知の上に作られる「表情」というのは、いわばコンテンツ化した「プロの表情」といえるんじゃないだろうか。


大塚英志の論を引くまでもなく、アニメキャラクターの表情というのは記号の集積により成り立っているが、そういう意味でタレントのする表情というのは、アニメキャラのそれに近いのかもしれない。


それに比べると、一般人の顔というのは記号化されていない。
喜怒哀楽、そのどれにも確定できそうで確定できない、その四つの間を常に浮遊しているような印象がする。
このことを、象徴界の中にはくみ取られない現実界の裂け目が覗いていると表現すると、すこしオシャレすぎるだろうか。
とにかく、そんな余剰のようなものが一般人の顔にはあり、カメラがそれを映すとき、表情はザラつくのだ。



そういったことを考えていると、以前観た今敏の『東京ゴッドファーザーズ』という映画を思い出す。



この映画はアフレコ初挑戦のはずなのに、目を見張るほどの達者な演技でそれに応える女優岡本綾というのも見所ではあるが、それ以上に東京でかけずり回る登場人物たちの表情がなによりも目を引いた。


先に書いたとおり、アニメキャラはそれ自体記号の集積であるから、もちろん顔の表情も記号の集まりであるはず。
だけれど今敏の、特にこの作品にて顕著だと思うのだけど、表情がアニメとしては異常なほど「乏しい」のだ。アニメであるから、多少デフォルメされ記号になる箇所もあるが、基本的にキャラの表情は乏しい。
だがそのことが逆説的に、劇中に登場する東京の市井の人々たちにリアリティを付与している。



一方、記号的な表情を浮かべるタレントというのには、僕は不思議とリアリティを感じられない。
もしテレビでないところで有名人を目にすれば、はじめてなにがしかの感覚を持つのだろうか。
だから、「テレビから私のこと観てたでしょ!?わかってんのよ!?」と押しかけてくる比較的ヤバイファンの方々との遭遇を笑い話にしてお笑い芸人がたまが話すけれど、テレビの中の人たちはその記号に満ち足りた表情からしてあまりにもリアリティがなさ過ぎて、こっちを見ているとかいうようなカン違いする人もあまり多くはないんじゃないだろうか。


え、そういう人たちはそういう意味でヤバイんじゃないって?