いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

大丈夫、君の顔はなにも変じゃない

旅行先などで撮りだめた写真を、帰ってきて写真屋さんで現像してもらい、再度集まってみんなでワイワイいいながら眺めて共通の思い出に浸るという光景が、かつてはあった。今でこそ、デジカメの爆発的な普及により撮影から閲覧までの時間が限りなく短くなり、さらに電子メールにより簡単に画像がやりとりできることから、そういう光景は少なくなっただろうが、とりあえずかつてはあった。


そんなシーンで、こういう経験はないだろうか。


テーブルの上に広げられた数々の写真の中の自分の写っている一枚に目がいき、あなたはギョッとする。どうみてもその中の自分の顔が、「NGな顔」だったのだ。自分の顔はこんなイケてなかったっけ・・・。目は開いてるのか閉じてるのかわからないくらいしょぼくれているし、口元は変に歪んで、髪型もおかしい。そのあまりのひどさに痙攣しそうになる。それは、自分にとっては衝撃的な自分の写真だったのだ。


しかしである。あなたは衝撃の第二波を受ける。


自分のその「NGな顔」に対して、今一緒に写真を眺めているほかのメンツは、ほとんどノーリアクションなのである。その事態が、あなたをさらなる混乱に陥れる。どうしてだ?なんでだ?こんな自分の酷い顔を見て、お前らリアクションすらとれないのか?と。


こういうとき、だまされているのは実は自分の方なのだ。
僕らは各々、少なからぬセルフイメージというものをもっている。たぶん自分はこういう顔だろうと、常々思っている。しかもそれは、脳内でおおむね2割から3割増くらいで、すこしよさげに補正が加えられている。


鏡を見ればその「魔法」の説けるのではないか、と思うのだけれどそうでもない。いやむしろ、鏡によってその補正(≒思い込み)は補強される。鏡に顔が映る瞬間、僕らは表情筋を駆使して、無意識的に顔をそのセルフイメージの側に近づこうとする。畢竟、鏡に映るのはありのままの顔というより、僕らの見たい顔なのだ。


写真が写すのは、見たい顔ばかりではない。もちろん、被写体が撮られることを意識していたとしたら、自分にとって理想的な自分の顔を作れるという人もいるかもしれないが、撮られると意識してない気の抜けたときこそ、真の、素の自分の顔が、自分に対してあらわになる。それこそが、自分にとっての「NGな顔」なのである


でもそれは、自分以外の周囲の人間にとってはおおむね「見慣れている顔」であり、そんな「NGな顔」こそが彼らにとっては何の変哲もない、いつものあなたなのだ。
「世界と自分が対立するとき、世界の側に理がある」と歴史上のだれかがいっていたような記憶があるのだけれど、この場合、悔しくて涙が出そうなほどそれは正しすぎるのである。



もっとカッコよく映ってるはずなのになぁ。。。