いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

東国原の言葉はそのまんま受け取った方がよい

自民党の古賀選挙対策委員長は23日、宮崎県庁に東国原英夫知事を訪ね、次期衆院選に同党公認での出馬を要請、知事は選挙後の党総裁就任を条件に掲げ、話し合いはつかなかった。

 「知事の情熱、今の自民党にない新しいエネルギーがほしい」と口説く古賀氏に、知事は「私を次期総裁候補として戦う覚悟があるか」と尋ねた。全国知事会作成の地方分権の提言を政権公約マニフェスト)に盛り込むことも求めた。古賀氏は「一応、お聞きした」と答えるにとどめた。会談後、知事は「今の自民党は国民と目線が違う。外部から新しい風を入れ、血液を入れ替える覚悟が必要だ」と述べた。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090623-00000759-yom-pol


鳩山邦夫日本郵政の西川会長ともめて自民党内がちょっとした混乱に陥ったときもそうだった。マスメディアやネットでは、彼の「真意は何だ?」という論調が大勢を占めていた。新党結成か?政界再編か?そのような憶測が乱れ飛んだ。今回の一件でも、知事の「真の狙い」が何なのか、そのことを探そうと皆、躍起になっている。しかし僕は、彼の真意自体を今の時点では探ってみても仕方がないのではないか、と思うのだ。


もちろん鳩山にも東国原にも、彼らなりの真意があるのかもしれない。しかし政治家というのは往々にして、情勢が整うまで真意を述べるのを避けるものだ。真意を明らかにした後、情勢が一変してしまえば、先に明かしておいた真意の改編を余儀なくされるかもしれない。それでは都合が悪いのだ(特に最近は、「政治的責任」というのに世論がうるさい)。
真意というのは、本人がそれを発言するまでは、あってないようなもの。情勢が整ったのをみて満を持して、あたかもずっと思いをはせていたかのように「真意」を語る。それが「政治的」な振る舞いというのではないか。だから、今の時点で外野からああだこうだいっても始まらない。


もっとシンプルに考えよう。今回の件は、政治的な取引である。
古賀選対部長は「自民党から出てくれ」という要請をした。それに対して東国原は、「地方の言うことを聞いてくれ」と「俺をあんたんとこの総裁にしてくれ」と応答をした。そのような取引だと考えれば、知事の「真意」とは、もうすでに出ている、と言える。古賀=自民党側がそれが飲めないならば彼は断り、古賀=自民党側がその取引を飲むならば応ずる。それだけのことだ。


ここで状況がより複雑に見えるのは、東国原の要求が「地方の言うことを聞いてくれ」だけにとどまらず、さらにもう一つ「俺をあんたんとこの総裁にしてくれ」をドカッと上乗せしたからだろう。後者から、自民党の急場に乗じて権力の座を射止めようとしていると、彼の利己心を見て取ることも、できなくはない。だが、ポストを得ることすなわち利己心と考えるというのは、いささか短絡すぎるだろう。一番上に立ってもいいことばかりでないのは、小泉以降の宰相をみれば一目瞭然ではないか。



ところで、東国原の持ちかけたこの取引を「あほらしい」やそれと同様の反応で一蹴する、特に自民党側の人たちはその「あほらしい」が、即座に自分たちに還ってくることに、注意した方がいいだろう。

というのも「あほらしい」それは、彼ら自民党に下された評価だからだ。
90%以上の支持率を誇る宮崎県知事という豪華客船から、次期総選挙で下野必至の自民党という「泥舟」に乗り換える。そのリスクを負うには、「あほらしい」ほどの対価がなければ割に合わないと、今回自民党は東国原に「値踏み」されたということに、ほかならないのだから。


では、知事の「値踏み」自体が間違っているのだろうか。その答えはおそらく、応答する側の自民党が出すべきものなのだろう(東国原のとりうる最悪のパターンといえば、取引が不成立になりかけたときに日和って要求の水準を下げる、とかだろう)。賽はすでに振られた。
しかし、今回の「取引」が取引として成立しようが不成立に終わろうが、この一見は地方自治の歴史に残ってもおかしくない、エポックメイキングな出来事になるのかもしれない。なぜなら、一介の県知事が国の中枢に真の意味での対等な取引を持ちかけ、少なくとも取引の場がまともに議論される水準で成立したこと自体がまさに、中央と対等な地方という真の地方分権のきっかけになるかもしれないのだから。