いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

中山秀征とディズニーリゾート―究極の「(非)能力」―

酒井法子の保釈後の会見を流す際に、NEWSZEROでは「フラッシュの強い光で画面が…」という例のあのアニメ放映時の注意書きのようなものが流れて、それらフラッシュがこの事件への世間の向ける下世話な視線の象徴なのだろうと思う。どこかで、というかいつもどこでも「芸能界は身内に甘い」という常套句があって、例のごとく酒井にも浴びせられたのだけれど、有ること無いこと週刊誌に書かれ私生活を詮索され、義務でもないのにカメラを通して全国民に向けての謝罪を強要され、謝れば謝ったで「誰に謝罪しているのかわからない」となじられて。
単なる覚醒剤の使用でパンピーがここまで叩かれるはずがなく、「身内に甘い」とか言う人はきっとサディストか何かだと思う。



さて、月曜日のしゃべくり007に我らが大将中山秀征が出ていた。

以前にもここでは彼をとりあげた。僕自身は熱視線…とまでいかなくても、適度にぬるい視線は彼には送り続けてきたつもりだ。そんな秀ちゃんがついに、あのしゃべくり007に、「大物ゲスト」のごとき扱いで登場したのだ。


番組は、タレントとして80年代末から「活躍」する秀ちゃんのテレビ史とその変遷を、本人による解説およびこぼれ話を交えながら追っていく。ついでに本人からの適度な暴露話も(おにゃん子クラブのだれそれとの話、興味湧かなかったー)。
何度も何度も繰り返し書いているようで悪いのだけれど、「何でもできるけど、何にもできない人」というナンシー関の評をなぞるかのように、その日の秀ちゃんトークはいつものように順調に、ハイペースにつまんなかった。それは「ノリ」こそすべての「80年代」を、彼が背負っているからだろうか。さらにそこに同じ事務所のネプチューンが同席し、必要以上に彼の発言に笑い声を立てるから、余計そのことが際立つという思いがしたのは僕だけだろうか。


そんななか、一つの発見があった。番組も終盤にさしかかり、僕らが秀ちゃんに今まで感じていた謎「なぜヒデちゃんはそれでもタレントとして飯が食えているのか?」を解く鍵になるようなエピソードが紹介されたのである。

一つは、吉田栄作とのエピソード。吉田がデビュー当時の売り出し中で、まだぎんぎんに尖っていた頃。事務所の先輩であるにも関わらず初対面のあいさつを思いっきりスルーされたという秀ちゃん。「俺も当時若くて尖っていたから」と、その後に地方番組で吉田と共演した際に、全く話をふらなかったという大人げない仕返しをしたものの、秀ちゃんはその仕事の終わりにたまたま背後で聞いた吉田の「酒飲みたいな」というつぶやきに反応。そのまま飲みに行き、それをきっかけに今では大の親友なのだそうだ。


そして極めつけは二つめ。今では秀ちゃんと来れば、おそらく誰もの「脳内第二検索ワード」が「エリカ様」になると思うが、あの時のこと。ネプチューン原田があの一件の後、秀ちゃんに会って最初に聞いた第一声は、かの20才そこらの小娘の無配慮で無責任な振る舞いに対しての恨み辛みでも、罵倒の言葉でも、悪口でもなかったという。


「いや〜、いただいちゃったね」


どうだろう、この言い回し。
たとえそれが先方からのきつい悪意の一撃であろうと、真っ向から対抗するでも受け流すでもなく、粛々と受け止める。「いただいちゃったね」のこの9文字に、中山秀征の「中山秀征性」が凝縮していると考えるのは、僕だけだろうか。そしてそれは、言い換えると「ホスピタリティ」のことなのだ。


話は突如飛ぶが、昨日僕はディズニーシーに行ってきた。目的は社会調査で。

ディズニーランドを対象とする研究や著作はすでに数多あるし、ここで僕が新たに付け加えることはあまりない。しかし、ディズニーリゾートが秋口の平日にもかかわらず、親の敵のようにあれだけ混雑するほど人々を集め惹きつけるのは、実際に中に入ってみると分かった気がする。


それは社会学的な知を動員するまでもなく、かのキャストたち(スタッフのこと)のホスピタリティの意識の、ずば抜けた高さなのである。絶やさぬ笑顔と気持ちの良い応対。そのほとんどが100点満点に近く、しかも数百人、数千人といるであろう彼らのほとんどなのだから舌を巻く。
あれだけ人と人とが集まるイベントならば、なにがしか嫌な思いをするのはつきものだ。例えば、乗り物に乗るために長時間待たされる列、あれに並ぶのも本来ならばストレスフルなことのはずなのだ。しかし、その「嫌な思い」というのをディズニーリゾートではほとんど感じたことがない。僕自身、通算入園回数はランドとシーをあわせてもおそらく5度目くらいだろうけれど、行ってきた知人の中にも酷評するという人は、まあ見たことない。
もともとあったディズニーのブランド力、定まった強固な世界観、アトラクションのレベルの高さ、それらとともに彼らキャストたちの徹底して高度なホスピタリティも、ディズニーリゾートの人気の一躍を担っているのは間違いないだろう。


そう、ディズニーリゾートと中山秀征こと秀ちゃんの共通点とは、この「ホスピタリティ」にこそある(相違点は各々で考えていただきたい。)。


「ホスピタリティ」、もてなし歓迎する能力とは、本来は「他律的」な部類のそれにあたる。
なぜならそれは、まずもてなし歓迎するための「ゲスト」を必要とし、さらにその能力の能力たる本質は、能力者そのものがゲストの影に隠れることにこそあるのだから。そう、究極のホスピタリティとは、つきつめれば「(非)能力」的なものにならざるを得ない逆説的な能力なのだ。
ここにおいて、先に引いたナンシー関の「何でもできるけど、何にもできない人」という、褒貶が3:7くらいの割合でブレンドされた秀ちゃん評は、実質全面的な褒め言葉へと反転してしまう。
前半部「何でもできるけど」の指す彼のユーティリティ性とはつまり、秀ちゃんが誰とでも(例え狂った女優だとしても)共演できるということ(もてなせるということ)を意味し、「何にもできない」という後半部はつまり、内属的な秀ちゃんの特性(ネタ)ということになる。だが秀ちゃんの場合そこに「何もない」からこそ、その空無にゲストをもてなすことのできる「空間」が存在する、と捉えるべきなのだ。その意味でナンシーは、秀ちゃんの(非)能力の部分をまんまと見逃してしまっていたことになる。



僕の関心は、その(非)能力とも呼べるものを中山秀征がどのようにして獲得したのか、という点にある。
それは彼が元々持っていた所与の「才能」であり、彼はそれを万全に発揮しているだけなのか。それとも、芸能生活のある時期、テレビ界の動向と自分の持ちうるものをあらためて見比べた際、「このままじゃ消える!!」と気付いた彼が意図的に磨いていったものなのだろうか。


どちらなのかは、各々で考えていただきたい。