いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ぼくらが最初に迷惑をかけるのはいったいだれか?


先日、一月に放映されたNHKスペシャル無縁社会」へのTwitter上での若年層の反響をうけて放送された追跡!A to Z「無縁社会の衝撃」
そのことについてはすこしここでも書いた。
実はその番組についてまとめたサイトがあるというのを、Twitter上のid:yohashiくんによるリツイートで知った(こんなカンジで情報を得るなんて僕、なんて現代人っ♪)。


若者たちが『無縁社会』に反応したワケ(ダイアモンドオンライン)


記事の内容はおおよそ番組のまとめといったところなのだが、僕が気になったのはこの箇所だ。「有料の「話し相手サービス」」という10分1000円の電話事業を取材した節の最後だ。

「他人に迷惑をかけてはいけない」「自分のことは自分で責任を持つ」という、言ってみれば「自己責任」という言葉が蔓延してきた現代ニッポンの世相を垣間見る現場が見えてきた。


なるほど、彼らを「縁」から阻んでいるのは、「他人に迷惑をかける」ということに対する気後れなのだそうだ。
だがしかし、僕はどうも解せないのである。
言い方は変だが、「迷惑をかける」のにも「迷惑をかける対象」というのが必要だ。送り手の放った迷惑は、ふつう迷惑の受け手を必要とする。


しかし、その対象となる知人にさえままならないのが、そもそもの彼ら彼女らが抱えている問題だったはず。では、いったいぜんたい誰に対しての迷惑に気後れしているというのか。


ここで、現代が再帰的近代であるという前提を思い出してみよう。
「前期近代」まで大衆というのは、言い方は悪いが「バカでマヌケ」だった。彼ら彼女らはその上に君臨する少数の知的階級の人間の「対象」でしかなかったのだ。しかし時代が下り近代が後期へと移行し、その階級移動などは大して起こらずに知的階級の「目線」だけを大衆が獲得していく。するとどうなるだろう。
そこでできあがるのが「大衆を笑う大衆」だ。自分で自分を笑いだす、つまり「行動する自分」とその自分を対象として吟味するメタ視点からの「語るの自分」に、主体は分裂したのだ。


この「語る自分」は時と場所を選ばず、「行動する自分」を論評する。「語る自分」からの逃避は叶わない。なぜならそれは、自分の頭の中にいるのだから。


「迷惑をかける対象」について話をもどそう。
そんな「語る自分」と「行動する自分」とに分裂した僕たちが、最初に迷惑をかける相手、その筆頭となるのはだれだろう。いわずもがな、それは自分自身、もっとつきつめれば、その自分の中でも「語る自分」に対してなのだ。

「行動する自分」、ここではずばり「他人に迷惑をかける自分」の姿を最初に見せてしまう相手とは、その「語る自分」であり、「他人に迷惑をかける自分」を見せつけることで最初に恥をかかせてしまった「語る自分」こそが、もっとも最初に迷惑をかけられる対象なのだ。他人に迷惑をかけるまったくの「弱者としての自分」を見せつけられ、そしてそれを論評することほど、「語る自分」にとって精神衛生上好ましくないことは、ない。だから、「私に迷惑がかかるから私は迷惑をかけない」。


僕はこれを一種の自己愛だのナルシシズムだのといって批判する気にはなれない。というのも、おそらく彼ら彼女らの心情は自己愛などの利己心にもとづくものは、これっぽっちもないはずだからだ。そこにあるのはむしろ、迷惑とは反対に他者への親切心。彼らの中で迷惑をかけることを自制させるのは、「語る自分」に対する親切心なのだ。親切心である以上、それを非難できるだろうか。

しかし、これまた常識的なことなのだけれど、親切心の過剰によって自滅してしまうというのではなんにもならないというのも、また一つの事実なわけだ。