いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

バラエティ番組がのこす最後のフロンティア〜きらっといきるの偉大なる冒険〜

教育テレビで毎週金曜日に放送している『きらっといきる』。障害者の活動をとりあげているこの番組の先々週の放送では新企画(? 番組内の一企画なのか、本編とは別のスピンオフというあつかいなのかはまだよくわからない)がスタートしていた。それを先週の金曜日、たまたま再放送で見た。


その名もバリアフリー・バラエティ、略してバリバラ。以前からの番組MCの一人で、自身も脳性麻痺を患っている玉木幸則はこれを立ち上げた目的を

ぼくらも自分たちの障害をネタにして笑ったり、おもろいことをやったりしている。でも人によっては、「ここ笑っていいところなんかな・・?」と。その壁をとっぱらっていこう、ということ。


http://www.nhk.or.jp/kira/program/past/details/435_rb.html

と説明している。いわば「障害者のでるバラエティ番組」だ。


僕が見たのは「バリバラ」の一回目だったのだけれど、なかなか攻めていた。
特にすごいと思ったのは、二番目の「幻聴・妄想かるた」というコーナー。ルールはいたってシンプルで、「精神障害者共同作業所「ハーモニー」が、メンバーたちの幻聴・妄想体験をもとにつくった「幻聴・妄想かるた」を読むというものだ。初回の今週はあ行だった。


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障害と「笑い」については、以前同じこの「きらっといきる」に出演したお笑いコンビ、脳性麻痺ブラザーズについて書いたことがある。彼らも言っていた。自分たちは、感動させたいんじゃない、笑わせたいんだと。

実はこの問題は、障害者らがとりくむアウトサイダーアートにも通ずるのかもしれない。つい最近読んだその名も『アウトサイダー・アート』では、日本でアウトサイダーアートが「発見」された際にそれが背負い込まされた「重い十字架」について言及されている箇所がある。


アウトサイダー・アート (光文社新書)

アウトサイダー・アート (光文社新書)


その十字架の名前は「教育」だ。著者は、ゴッホ山下清を日本の大衆に紹介し、ブームの火付け役になったという精神科医式場隆三郎の例を取りながら、日本におけるアウトサイダー・アートが「大衆や知的障害者の教育という理念に飲み込まれてしまった」(p103)ことを明かしている。そこに「悪意」はなかったのだろう。おそらくそれは「善意」の所産だ。やたらめったらに「善意」にまた他の人の「善意」が圧し重なっていき、結果的に日本での障害者のアートは芸術界が認めるアートとはまた別の、教育や福祉の文脈で語られる、いわば「別枠」あつかいにされてしまった、ということだ。


「笑い」というのは、その社会の常識や道徳、慣習などと密接に関係する。そういったものをいじったり、おちょくったり、皮肉ったりするところに、その社会の許容する「笑い」がある。そしてそういった常識や道徳、慣習は、日本でのアウトサイダー・アートを「教育」と読み解く感性と、まったくの無関係にあるわけではない。おそらく脳性麻痺ブラザーズのネタに寄せられた感想が「面白い」ではなく「感動した」であったことと、アウトサイダーアートがアートではなく教育や福祉のとりくみとして今日あることは地続きの問題だ。きっと彼ら二人を賞賛する観客の脳裏には、「M-1」などの漫才界を彩るショーレースを争う彼の未来の姿などは、決して浮かんでなかったのだろう。


しかも「障害者のお笑い」には、「障害者のアート」とはまた別で、さらに事態を困難にさせるハードルが待ち構えている。
アートというと、もちろんなかには作者本人の登場するパフォーマンスもあるだろうが、その多くは物質として存在する作品になるだろう。そうであるならば、そこに障害者の障害者としての「痕跡」はなくなる。つまり基本的には作品が作者から離れているから、鑑賞する側も「作品は作品」なのだと、できるだけフラットな気持ちで鑑賞することが、容易になる。


しかし、障害者がお笑いやバラエティ番組に取り組むとしたらどうだろう。
しゃべくり漫才をする脳性麻痺ブラザーズが、ネタ中にろれつがまわっていなかったことがしめすように、特に日本のお笑いという分野は今のところ、身体性と不可分の関係にある。身振り手振りや言葉で表現する以上、見る者はその作り手の障害をも、同時に直視せざるを得なくなるのだ。


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ではなぜ、僕らが彼ら障害者を直視して彼らとその障害を「笑うこと」を自制してしまうのだろう。もちろんそこには理由がある。それは「笑い」のはらむ権力性の問題だ。権力を皮肉る「笑い」は、ときとして弱者にとっての強力な武器となり得るが、事態がその逆であった場合ももちろん、強力な武器となり、「笑い」は権力性の誇示に荷担する。「健常者」が「障害者」を笑う、これほどまでに「健常者」がその「健常性」を誇示し、「障害者」との線引きをするかっこうの形式はないではないか。


しかし玉木は、「バリバラ」の番組冒頭ではっきりこう言った。この番組を見た後にもし「感動した」と言われたならば、「落ち込む」と。


「健常者」が「障害者」を「笑う」ことにまとわりつくこの権力性を唯一打破できるのは、おそらくこの面白いことをして他人を笑わせてやろうという本人の「自意識」だけだ。いわば、「笑われることへの能動性」。月並みなセリフであるけれど「笑われたいんやない、笑わせたいんや」の精神だ。そして視聴者の側も「笑ってあげる」では、当然ダメなのだ。スベっているならば、冷たい視線を送らなければならない。そう、いつも狩野英孝にそうするように。


もちろん、笑いは「笑わせる側」だけの自意識に還元されるわけもない。「笑わされる側」の意識、突発的に笑ってしまった(=笑わされたのか)のか、嗤った(=バカにしたのか)のかは、完ぺきに隔絶できるわけなく、両者は地続きであるし、結果的にそれがどちらに転ぶかというところでは、ひどく繊細な力学が作用している。さらに、この「バリバラ」を見て笑えない障害者、他人から笑われることは絶対にいやだという障害者だって中には当然いるだろう。そのことは一昨年の年末に、森達也を招いての自己批判的な特番を放送したこの番組のスタッフは、当然わかっているはずだ。


しかし、それら全てをひっくるめてこれは「冒険」なのだと、僕は評したい。
日本のテレビの歴史上、バラエティ番組と名のつくものは、低俗だという誹りを受けながらもあらゆるタブーに踏みいり、それを「笑えるもの」に変えていった。中には一度踏みいろうとしたけれども、猛烈なバッシングで足をひっこめた、という領域もある。しかし一つだけ、踏みいる身振りさえほとんどおこされなかった領域がある。それが「障害」だ。その領域に、「バラエティ」として踏みいった「きらっといきる」がそこでバリアフリーの平らな道を気づけるかどうかは、まだわからない。